散
豪雨は、市街に幾つもの小さな川を作り始めていた。
程普と韓当が祭壇に近づくと、于吉は天に向かって一声発した。
「解」
雨は次第に弱まり、止んだと思えば、雲間から陽射しが漏れ、再び日輪が顔を出した。
その途端、計蒙たちの姿は消え入るように薄くなると、元の白紙へと戻り、雨によりできた小さな川の濁流に飲まれてしまった。
「き、消えた――⁉ やはり、妖し!」
「この世の者ではないのか――⁉」
程普と韓当は驚愕した。気付けば、人々の群れは、皆、泥水に膝を突き、于吉を讃えるように拝跪している。
そこへ、壇の下へ走り寄せ、古錠刀を抜き放ったのは孫策だった。胸中では怨嗟が蜷局を巻き、視線は于吉を刺している。
「猛暑、豪雨、全ての天変は自然の現象。ましてや人が自由に操れる業ではない。そして、貴様だったのか、俺を亡き者にせんと龍頭人身の刺客を放ったのは……」
孫策は古錠刀を握り締め、于吉へ向かい歩を進めた。
于吉は、覚悟を決めると右手を前方に突き出し、人差指を中指に重ね立てると、何やら唱え始めた。
「我、今此処に召喚す。惹かれし神器に宿り賜え……」
「なりませぬ‼ 孫策さま――‼」
事態を察した程普と韓当が、孫策を制しに馳せ寄っている。
近侍を連れ立って現れた孫権は、只ならぬ状況に絶句した。
「……蛟、白虎、麒、朱雀、狻、兕、玄武、蜃、青龍」
「この民衆を見よ。国主に拝跪せず、妖夫に拝跪する国が在ってはならぬ!」
「…………?」
「豺狼の如き野心を抱き、妖術を以って人心を誑かす邪教の徒め。俺が成敗してやる!」
孫策は、于吉目掛けて跳躍した。
「……鳳、獬!」
容赦なく孫策の閃光が走った。次の瞬間、白髪の首が宙を舞った。
胴から離れた于吉の首が、虚空から落ち、泥水の中へ転がる。
人々の群れは、一瞬にして粛と静まり返った。
赤く染まらない。奇妙なことに、刎ねられた首と胴からは、流血していなかった。
すると――。
切断された于吉の胴から一筋の青い気が立ち昇り、城楼の方へ流れた。
「ヒャッ!」
宴席の上座にあった陳震は、突然流れ込んできた青い気に、驚きの奇声を上げた。
その青い気は、台座に陳列された刀剣の方へ向きを変えると、九つに分散し、それぞれの刀と剣に吸い込まれた。
「……嘘」
その様子を傍観していた陳震は、唖然とした。
刹那――。
九つの刀剣が宙に浮いた。矢のような勢いで楼台の欄干まで飛翔すると、孫策のいる広場へ向かって宙を走ったのである。
忽ち、九刀剣は孫策の頭上まで辿り着くと、何かを待つように虚空を旋回している。
顔を憤怒の色に染めた孫策は、それをゆっくりと見上げた。
天空から眩い光を放った九つの玉が飛来すると、九本の刀剣に吸い込まれ、一層眩い光を放った。九刀剣の旋回する勢いは、徐々に増しながら空へ上昇している。
「胡綜よ、肩を貸せ!」
その不思議な光景に眼を奪われていた孫権は、はっと我に返ると、近侍の胡綜という若者の身を前方に投げ遣った。その肩を足蹴にして、虚空の九刀剣に向かい勢いよく飛び跳ねた。
「ギャッ!」
呻いた胡綜は、顔から地に叩きつけられていた。
闇雲に手を伸ばした孫権は、そのうちの一本の柄を掴むと、孫策の足元へ転げ落ちた。 孫権はその一本の根元を見た。「百錬」と刻まれている。
八本となった刀剣は、さらに上昇すると、神々しく光りながら、ぴたと空中で静止した。
途端に――。
八本の刀剣は閃光の如く、八方へ飛び去ってしまったのである。
「于吉の奴め、やらかしたな」
介象は呆気に取られると、その肩に鎮座した元緒は大笑した。
「やらかしたのう。しかも、怒り任せに」
虚空に注目が集る中、遺された五人の巫女たちは、そそくさと于吉の亡骸に駈け寄った。ひとりが于吉の首を胸に抱え、四人で体を担ぎ上げ、街道を足早に引き返した。
なお上空を見上げていたのは、孫策である。
「兄上――?」
異変を察したのは、孫権だった。
孫策の腹が波打っている。その波は生き物のように這い上がると、頬が膨れ上がった。孫策の血走った眼が、かっと見開かれた。
その刹那――。
口からは、夥しいほどの鮮血が勢いよく吐き出され、虚空に血の虹を描いた。
「介象よ、これは……」
「ああ、方術だ」
孫策の身は、ぐらりと揺れると、そのまま血汐の海にうっ伏した。
「兄上!」
駈け寄った孫権が、百錬の刀を地に置き、孫策の半身を抱き起こした。
「殿!」
危急の事態に、色を失った程普と韓当も身を寄せてきた。
蒼白の顔面で見開かれた孫策の眼には、生気が宿っていなかった。
陽射しは、また強くなっていた。
群集による叫喚の潮騒は、祭壇を中心に波紋の如く広がった。
「兄上――‼」
血汐に塗れた孫権は、孫策の半身を幾度も揺すった。
孫策が自ら動くことは、もうなかった。
傍に置かれた百錬の刀だけが、冷然としていた。