絶望と希望と
「ま、待て、欲しいものは何でもやる! 儂に危害を加えるでない!」
辟邪の剣を抜いた黄祖が、後退った。
間合いを詰めるようにゆっくり歩を進ませていたのは、屈盧の矛を携えた姚光だった。
三十ほどもいた黄祖の近衛兵は、どれも床にうっ伏している。旋風のような姚光に打たれ、斬られてはいたが、命だけは獲られないでいた。
水軍を率いた江夏太守の黄祖は、楼船から指揮しているようだった。
しかし、その楼船が錦帆賊に襲われ、煙を上げている。今にも傾きそうに見えた。
岩肌が突き出た小高い崖の上で瞑目した阿亮は、念じた。鄷玖から授かった懐中の黒い護符が一度光ったようだった。
黄祖が着込んだ戦袍の中で、もうひとつの黒い護符も光を放っていた。
すると――。
「……何と⁉ 姚光ではないか‼」
眼前の黄祖が発した名に、姚光は、はっとなった。
「これは、幸い! 姚光、私だ。阿亮だ。帰ろう。皆、お前を迎えに来ている」
外見も声も、黄祖のそれだったが、阿亮と名乗っていた。
狼狽したような姚光の様子に、黄祖は優しげな笑みを浮かべた。
「鄷玖さまより授かった護符で、江夏太守さまに乗魂の術を施している。今やこの水軍は風前の灯。この戦で太守さまを死なせる訳にはいかない。幸いなことに、姚光もこうして近くにいた。一緒に帰ろう、姚光」
「……阿亮? 本当に、阿亮なの――⁉」
「そうだ、姚光。少しの間だけ、太守さまの躰を借りている」
姚光の眼に光が宿ったようだった。その瞳に涙が浮かぶと、姚光は言った。
「阿亮、私は……私は、どうしたら良い? 左慈の命令に従わなければ、おっ父が……おっ父が殺されてしまう‼」
阿亮が乗り移った黄祖の眼には、左慈に対する怒りの色が浮いた。
「己を見失うな、姚光。此れまで、葛玄どのに何と言われてきた?」
「……え?」
「いつも葛玄どのは、お主に語っていたではないか。本当の強さとは何か。本当の敵とは何か。そして、本当の味方とは何なのか……。葛玄どのは、例え、姚光がひとりになっても生き抜けるよう、窮地に陥った時の指針を教えてくれていたではないか」
阿亮は、姚光を諭すように語り掛けた。
「…………」
姚光は、過去を思い出すように瞳を泳がせた。
姚光は双眼を閉じると、深く息を吸い込んだ。大きく息を吐くと、かっと眼を見開いた。その眼は、活き活きとした光を帯びていた。
「大事な時に、大切なことを忘れていたみたいだ。あれだけおっ父から言われていたのに……」
姚光の言に黄祖は首を傾げた。
「本当の強さとは、信念。信念とは諦めないこと。本当の敵は怯弱。怯弱とは恐れた心から湧く弱気。そして、本当の見方は気丈。気丈とは顫える心から湧く強気。全ての答えは己の中にある。やっと意味がわかった」
姚光は、羽織っていた外套を脱ぎ捨て、微笑んだ。
「きっと、己の行いで運命は変えられるんだよ。だから……」
姚光の端整な顔に不敵な笑みが浮かんだ。
「……私が左慈を伸せば良いだけ!」
呆れたような黄祖が、ふっと笑った。
「悟ったようだな。学びは知識の積み重ねではない。未来への礎であるということを……。但し、お前はひとりではない。鄷玖さまも文聘どのも、里の者もいる。介象さまや元緒さまだっている。さあ、皆で帰ろう。葛玄どのが待っている」
刹那――。
ぐらっと、楼船が傾いた。
「阿亮、早く此処から脱出しよう!」
姚光が黄祖の手を取った折だった。
「話が違うぞ、姚光よ」
傾いた楼船の高台には、冷徹な視線の王表が、行く手を遮るように佇立していた。目尻に刻まれた皺が更に深く見える。
何時の間にか、周囲は黒装束の者たちに囲まれていた。
「どうやら、獲る首は二つのようだ」
顎先に蓄えた三寸ほどの白髯を扱きながら、王表は言った。
一方――。
崖の上で胡座して瞑目する無防備な阿亮へ忍び寄る若者の姿があった。大きな荷を背負っている。
「舟が駄目になってからというもの、各地を彷徨った挙句、強い霊気が湧いているから九刀剣かと思って来てみれば、何とも大変なことになっているな……」
細身に白い袍を纏い、白巾で黒髪をひとつに束ねた稟性賢明な顔の若者は、独り言ちると瞑目して胡座した阿亮に眼を遣った。
「それにしても、こんなところで乗魂の術とは、何と無用心な。術の邪魔をされたら、元の躰に魂は戻らぬのだぞ」
若者は、懐中から五枚の人型の小さな白紙を取り出すと、ふっと一息吹きかけた。
その白紙は、見る間に巫女の姿をした妖し、巫支祁に転じた。
「五芒」
若者はそう唱えると、五体の巫支祁は阿亮を取り囲んだ。
すると――。
胡座した阿亮の元から星型の光柱が立ったかと思えば、五体の巫支祁と共に姿が消えていた。
「結界を敷いたから、これで一安心だ。さて、次は、眼下の兵たちの手当でもしてやろうか。草庵に残っていた護符が役に立つ」
若者は、戦が展開されている原野へと歩を翻した。
放たれた死霊の兵は、左慈と紡績を避けるようにして駈けている。
左慈は、懐中から三枚の人の形をした小さな白紙を取り出すと、一息吹きかけた。
武装した龍頭人身の妖し、計蒙が三体出現した。それぞれ、剣、戟、槍の得物を手にしている。
「さあ、暴れておいで」
左慈は笑みを向けると、三体の計蒙は烈風の如く、三方へ散った。
「お祭りらしくなってきたわね」
左慈の前方で嗷咽に座した紡績は、傍らに浮かんでいる畢方の一本足から、鞘に収まった流星の剣を抜き放った。辺りに豊潤な香りを振り撒くように、それを虚空で斬り下げた。
蘇飛軍の上空に、幾つもの鋭い剣が出現した。その剣は、蘇飛軍の兵団に急降下すると、次々と兵に突き立った。
「きゃははは! 何て便利な妖剣なのかしら」
機嫌を戻したような紡績は、次々と流星の剣を振っては、蘇飛軍に剣の雨を降らせた。
「此処からじゃ、脅える顔がよく見えないわ」
紡績は嗷咽を走らせると、それに従うように畢方も飛んでいた。
率いた兵は、半数ほどに減っていた。
壊滅こそ免れていたが、蘇飛の軍は、騎馬兵、歩兵、弓兵、互いの利点を生かした軍としての機能が既に麻痺していた。
それもその筈、李鉄と彭翦に翻弄され、各部隊の将校たちが斃れ、指揮系統が混乱していた。既に隊としては機能しておらず、蘇飛、鄧龍、陳就が残兵を取り纏め、何とか統率している状態にあった。
空が光っていた。無数の剣が浮いていた。それが、降る。
「盾だ! 盾を頭上に翳して伏せよ!」
蘇飛が叫ぶと、近衛兵が蘇飛の頭上に盾を被せた。
ギイイイン――と、降る剣が盾に当る。
ドッ――と、背に剣が突き立った兵が頽れる。
しかし、盾の下で身を縮めた蘇飛の瞳は、まだ光を失っていなかった。