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切迫の荊州

「父上」

 頭に金のかぶときらめかせ、恰幅かっぷくの良い体軀たいく豪壮ごうそうよろいまとい、腰に辟邪へきじゃの剣を引っげた勇姿からは、威厳が放たれていた。

 楼船ろうせんの高台から川上へ静かに眼をらしていた黄祖こうそに、長子の黄射こうせきが声を掛けた。

「水軍に激励をと、蘇飛そひが参っておりますが……」

「通せ」

 黄祖は振り返ると、蘇飛の訪れを待った。

 間もなく、楼船の高台に姿を現した蘇飛は、みすぼらしい姿の若者を従えていた。

 蘇飛は黄祖の前で拝跪はいきすると、その若者も整然と続いた。


「戦勝祈願のを述べに参りました。どうか、黄祖さまが率いる水軍にあっては、大勝を収められますよう、お祈り申し上げます」

「うむ。お主にも良き働きを期待しておる、蘇飛。連れて参った者は、何者か?」

 黄祖は、蘇飛の後方に控える阿亮ありょうに視線を移した。

 全身が砂塵さじんまみれているが、漂う風情が黄祖の眼をいた。

汝南じょなんより我々に火急の事態を告げに参った、阿亮と申す者でございます。どうやら錦帆賊きんぱんぞくとのいくさ、容易なものではないようでございます」

 蘇飛は、鏡のような瞳を黄祖にった。

 阿亮の端整な面持ちと静かなたたずまいが、黄祖に話を聞く気にさせていた。


「阿亮だったな? 申してみよ」

 阿亮は頭を深く垂れると、語り出した。

 方士の左慈さじが方術と錦帆賊を利用し、荊州けいしゅう撹乱かくらんの渦におとしめようと画策、今や夏口かこうに兵を向けていることを切々と訴えた。

「ちょっと待て、左慈だと――⁉ 父上がいている剣は、先日、左慈の遣いという者が献上してきたものだぞ⁉ それにも何か仕組まれているというのか⁉」

 黄祖の横から一歩踏み出し、阿亮にただしたのは黄射だった。

「これは、紛れもない名剣だ」

 黄祖は、さやから剣の半身まで引き抜くと、放たれるまばゆいほどの光に眼を落とした。

 

 はっとしたのは、阿亮だった。無理もない。剣の根元には「辟邪へきじゃ」と彫られている。介象かいしょうから聞いていた九刀剣に、その銘があったはずだった。

 黄祖は辟邪の剣を再び鞘に収めると、続けた。

「この剣に細工があろうと、あやかしの軍が攻めてこようと、劉表りゅうひょうさまに逆らう訳にはいかぬ。何があっても、錦帆賊に兵を向けねばなるまい」

「では、これを」

 阿亮は懐中ふところから黒い護符ごふを取り出すと、黄祖へ差し出した。

「妖しから身を守る護符でございます。片時も御身から離すことのなきよう。すれば、妖しの災禍は避けられましょう」

かたじけない」

 黄祖は、黒い護符を懐中へ押し入れると、拝跪している蘇飛に向き直った。

「予定どおり兵を出す。阿亮の話が本当であれば、何が起きてもおかしくはない。武運を祈るぞ、蘇飛」

「はっ」

 蘇飛と阿亮は、黄祖のいる楼船から降りた。


「して、お主はこれからどうするのだ、阿亮?」

「私の仲間、およそ七百が此方こちらに向かっております。それと合流するまで、軍の後方より付き従わせていただきます」

「援軍七百ということか。頼もしいな」

 蘇飛は、阿亮にしばしの別れを告げると、一万の軍勢の中に身を投じた。

 水軍が遡上そじょうしていくであろう大河は、川上から風が吹いている。

 右に一万の進軍と、左に水軍の航行を見比べながら、上流に向かって川沿いを歩いて行こうと阿亮は思った。


甘寧かんねいさま、どうやら夏口の水軍基地から漢津かんしんを目指し、黄祖軍が出陣したようですな」

 奪った楼船の高台で、腕を枕にして寝そべった甘寧に、足音のない王表おうひょうが近付いた。

「俺たち錦帆を討伐するよう劉表に尻を叩かれたか。それで、規模は?」

 眼を閉じたまま、甘寧は王表に聞いた。

「陸から一万、川から五千程度ですな。このままですと、明日の巳の刻には廬山ろざんが見える漢水かんすい溳水おうすいの合流付近で遭遇するかと」

彼奴あいつは、どうしている?」

 薄っすらと眼を開けて甘寧がただした。

姚光ようこうでございますね? 此処ここより上の物見櫓ものみやぐらで、ひとり川下をにらみ据えております」

「おい! 聞こえてんだろ!? 明日はお前も出番だからな、姚光‼」

 仰向けの甘寧が物見櫓の姚光を捉えると、声を張り上げた。

 姚光からは、何も反応がなかった。


 明くる日――。

 は中天に向かっていた。

 右側に廬山が見える。溳水と漢水が合流する辺りの原野に、ぼうっと青白い光を放ちながら、二体のち神が姿を現した。

「ゴホッ。李鉄りてつよ、少し早かったのではないか?」

「こうしてにえを待つのが礼儀というものではないか、彭翦ほうせん?」

「しかし、何やらにぎやかではないか、李鉄よ? ゴホッ……」

「彭翦よ、祭りに囃子はやしとは、風情があるではないか」

 此方こちらに向かって進軍してくるはずの黄祖軍の姿は、まだ捉えられない。

 しかし、どういう訳か川沿いから、竿しょう琵琶びわなどの楽器による小気味良い楽曲が聞こえる。その音のみが、先行して李鉄と彭翦の耳に届いていた。


鼓吹すいこあでやかなに、妖しも恐れを成して尻込みしようぞ」

 楼船の高台から上流に眼を遣った黄祖が、威風堂々胸を張り、川風に髭を揺らしている。

 その水軍は、黄祖が乗船する楼船を中心に、周囲には幾つもの走舸そうかていが巡回するように川面を走っている。

 戦船いくさぶね露橈ろしょうは屈強な兵がを漕ぎ、楼船の左右へ幾重にも並べた先登せんとう艨衝もうしょうを両翼のようにして遡上していた。

 原野を進軍していた蘇飛が前方に眼を凝らした。

「阿亮の言っていたとおりだったな。妖しげな者が、前方で待ち構えておるぞ」

 蘇飛の鏡のような瞳は、炎が灯ったように光って見えた。

 蘇飛軍の動きがにわかに慌ただしくなった。


 それを見て取った阿亮は、水軍と陸軍の動きが見渡せる岩肌が突き出た小高い崖の上まで身を移した。

 前方には溳水と漢水が合流した大河と、その奥に廬山が鎮座している。右には溳水が流れ、漢水と合流するのが見える。眼下には原野が広がっていた。

 阿亮は静かに胡座こざすると、視野に広がる景色に冴えた眼差しを送った。

 溳水と漢水が合流する地点に船影が見えた。楼船を中心に配置しているが、周囲には大小幾つもの船が縦横無尽に川面を走っている。その数は黄祖が率いる水軍に匹敵するほどだった。加えて、どの船も豪奢ごうしゃに彩られている。

 その後方からは、原野を駈けてくるような小さな砂塵が見えていた。

 阿亮はその砂塵が介象かいしょう葛玄かつげんが率いた五十騎であることを察したが、此方こちらにこのまま向かってきても、溳水がそれを阻むように流れているのが見て取れた。

 蘇飛軍の進軍が止まった。

 その左方にある黄祖の水軍は、遡上を続けている。


「一万ほどか? 以前の三万よりは精強に見えるな、彭翦?」

「ゴホッ。贄に精強かどうかなど、わしには関係ないがな、李鉄」

「そうだったな。では、そろそろ始めるとしようか、彭翦」

「そうしよう、李鉄。ゴホッ……」

 李鉄と彭翦の顔に、残忍な笑みが浮かんだ。


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