堕ち神、彭翦と李鉄
「夏口から遡上し、漢津にはびこる錦帆賊を殲滅……ですか?」
褝を羽織った潘濬が首を傾げた。
漢津であれば、上流に位置する襄陽城の方が近い。
しかし、荊州牧の劉表は、敢えて下流に位置する江夏、その太守の黄祖に錦帆賊討伐の命を下していた。
「襄陽にいる諸将は、水軍の扱いに慣れておらぬ。水軍の妙を知る父上に白羽の矢が立ったのであろう」
曲裾袍に身を包んだ黄祖は、窓より外の景色を眺めている。顔の下半分を覆ったような白み掛かった髭が風に揺れていた。
それに代わって答申したのは、常に黄祖の傍らに侍っている長子の黄射だった。
腰に辟邪の剣を佩びた黄祖は、恰幅の良い躰を潘濬へ向けて下知した。
「出陣の触れを出せ。水軍五千は儂が率いる。陸路から一万を漢津に向かわせよ。不在の間は万事をお主に任せるぞ、潘濬」
「ははっ」
潘濬が拱手したのを見届けると、黄祖は熊虎の軀幹を揺らして戦の準備へと向かった。
その頃、襄陽城では、火急の事態を告げる一報が齎されていた。
劉表は、呼び寄せた四賢と評議をしている最中だった。
一兵卒が慌しく訪ないを入れると、取り乱した様子で劉表に告げた。
「城下の水軍基地より、楼船の一艦が姿を消しております。何者かに奪取された模様」
瞑目して兵卒の報を受けた劉表の眉山が、ぴくりと動いた。
巨大な戦艦に張り巡らされた防御の板塀が、監獄を髣髴とさせる。数百人の乗船を可能とし、水上戦においては本陣の役割を担うのが楼船だった。
「物騒な‼ 見張りの兵は何をしていた――⁉」
劉表に代わって、その兵卒に質したのは、四賢の筆頭、劉先だった。
「は、はい。どの兵も、何者かに眠らされていたようでございます。気付いたら朝だったと、口を揃えて申しております……」
「あんなに巨大な戦艦が盗まれたというのに、今の今まで誰も気付かなかったと⁉」
劉先の隣に座した華奢な名士の韓嵩が、兵卒に声を荒げた。
「は、はい。それは、他の船を点検しておりまして、その結果……」
その兵卒は、言い澱んだ。
「ん? その結果、何じゃ?」
ふくよかな体軀の傅巽が、色めき立つようにして兵卒を睨んだ。
「……水軍基地にある全ての船の船底に穴が開けられ、どれも浸水しております」
兵卒の言葉に劉表の眼がかっと見開かれると、眼前の机を怒り任せにひっくり返した。
四賢の劉先、韓嵩、傅巽は、恐れを成して仰け反ると固唾を飲んだ。
「誰じゃ? 誰の仕業じゃ?」
眉間に皺を寄せ、虚空を睨んで言った劉表の声音は、怒気を孕んでいた。
「錦帆に先手を打たれましたな」
劉表の怒気にも臆せず、涼やかな眼差しで言ったのは、堂々たる風采の蒯越だった。
「川賊の錦帆を討伐するには、水軍が必須。襄陽の水軍が機能しないとなれば、水上戦は江夏の黄祖どのを頼るほかありますまい」
劉表は、睨み据えた視線を蒯越へ向けた。
「黄祖には既に命を下しておるが、気が治まらぬ。張允を呼べ」
劉表は兵卒に下知すると、間もなく現れたのは、豪奢な鎧と甲で身を包んだ歴戦の雄、劉表の甥の張允だった。生やした口髭で、より精悍さが増していた。
「兵三万を与える。陸路より直ちに錦帆賊を殲滅して参れ」
「御意」
張允は慇懃に拝跪すると、忽ち姿を消し、兵を整えに向かった。
「三万とは、見事な采配。張允どのが率いるとなれば安心ですな」
「これで錦帆賊の命運は尽きましょう」
四賢の劉先と傅巽は、機嫌を損ねる劉表を煽て上げた。
「兵三万とは、大仰ですな」
「か、蒯越どの――⁉」
劉表の采配を大仰と公言した蒯越に、隣に座した韓嵩は焦燥感に苛まれた。
劉先と傅巽の冷たい視線が蒯越を貫いている。
それに屈することなく、蒯越の態度は堂々としたものだった。
劉表は睨み据えた蒯越から視線を外すと、再び瞑目して言った。
「蒯越どの。退席願おう。以後、四賢と呼ぶことはもうない」
劉表の言に、劉先、韓嵩、傅巽の三名士は、眼を見張って言葉を失った。
「承知」
静かに座を立った蒯越は、未練など微塵も感じさせることなくその場を後にした。
数日後――。
陣容を整えた張允率いる三万の軍勢は、襄陽城を出立した。
「高だか八百ほどの賊徒のために、三万の兵を用いるとは、伯父貴もどうかしている」
中軍で進軍しながら、馬上の張允は麾下の将校たちを相手に哄笑していた。
漢津に向け、十里も進んだ辺りだった。放っていた斥候から一報が齎された。
「我らの進軍を阻むように、奇妙な二人の男が微動もせず立っております」
「何処かの田舎者だろう。さっさと露払い致せ」
張允は何ら気にも留めず、斥候に言い放った。
その奇妙な二人とは――。
「本当に王表とかいう者の言ったとおりだったな、彭翦よ」
「ゴホッ。思っていたよりも多くて良かったのう、李鉄よ」
堕ち神――。
戦を司る南斗の神、李鉄。死を司る北斗の神、彭翦だった。
「今から大軍が此処を通る。死にたくなければさっさと避けろ!」
駒で李鉄と彭翦に馳せ寄った斥候の兵が声を荒げた。
彭翦は一頻り咳き込むと、手許の書簡を見遣った。懐中から錐を取り出すと、その書簡に突き立てた。
刹那――。
「うぐっ」
眼前の兵士は、馬上から頽れるように落馬すると、眼を剥いて絶命した。
彭翦に残忍な薄ら笑いが浮かぶと、立て続けに書簡へ錐を突き立てた。
張允が率いる三万の軍勢は、至る所でばたばたと斃れる兵が出没していた。その全てが眼を剥いて絶命している。
咳き込みながらも、彭翦が錐を書簡に突き立てる速度は増すばかりだった。残忍な薄ら笑いは、凶悪の笑みへと変貌していた。
「おいおい、俺さまの分も残しておけよ、彭翦」
李鉄は、右手の中指に人差指を重ね立てると、前へ突き出し念じた。
「我、今此処に冥府より死霊の軍を呼ばん」
すると――。
原野に一万ほどの騎馬軍が現れた。それも、只の騎馬軍ではない。姿は半透明で青白い。白骨の兵が甲冑を纏い、武器を手にして騎乗する死者の軍だった。
加えて、巨漢の李鉄が跨ったのは、鬣が青白い炎で揺れる三つ首の巨馬だった。
腰より大刀を抜き放った李鉄は、その死者の騎馬軍に下知した。
「これより贄の軍を滅殺する! 各々戦果を挙げよ!」
李鉄は三つ首の巨大な駒を疾駈させると、先頭を駈けた。
それに死霊の騎馬軍が続く。
「ち、張允さま、突如として前方に得体の知れない騎馬軍が現れました! 此方に向かって突進しております! その数、およそ一万!」
そう告げた兵も人形のように生気がなくなると、絶命して頭から地に頽れた。
見たこともない騎馬軍が、先陣を割るように怒涛の勢いで突入している。
虚空に血飛沫を上げ跳ね飛んでいたのは、首だった。
死霊の騎馬軍が、張允兵の波の中に踊り込むようにして進んだところには、首が弾けるように宙を舞っている。それは、抗いようのない巨大な竜巻のようなものだった。
「ひ、退けい‼ 全軍、襄陽まで退けい――‼」
死霊の軍に恐れ慄いた張允は、顫える声を振り絞って退却の号令を下した。
我先にと引き上げる張允の軍勢に、李鉄は容赦のない追い討ちを仕掛けた。
「手応えのない相手よのう! これでは、調練にもならぬわ!」
李鉄は、逃げ惑う張允兵の群れに三つ首の駒を躍らせると、大刀を薙ぎ払った。その一振りで、張允兵の首が七つも飛んでいた。
李鉄が率いる白骨の騎馬兵も、餓狼の如く張允兵の首を狩った。
馬も捨て、這う這う体で襄陽城に逃げ戻った張允は、暫くして率いていた軍勢の末路を知らされた。
張允軍は、壊滅していた。




