表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
4/62

怒髪天、孫策

 宴席の隅にあった孫権そんけんは、兄の様子に安堵あんどした。そして、与えられた使命の完遂に、ほっと胸を撫で下ろした。怪我の心配など杞憂きゆうだった。

 顔色とは裏腹に、孫策そんさくはこれまでに見たことがないほど意気揚々としていた。

 ところが――。


 宴もたけなわとなる前に、諸将がひとり、二人と席を立ち、わいわいと大半の者が楼台ろうだいを降りていったのである。

 これをいぶかった孫策は、近くの小姓こしょうに尋ねた。

「楼を降りて行く者が多いが、どういうことか?」

「街に于吉うきつさまが訪れたようで、その姿を拝見しにこぞって出て行かれたようです」

 応じた小姓も、何だか気になっている様子だった。


 孫策は、瞬く間に憤怒ふんぬ青褪あおざめると杯を投げ捨てた。急ぎ楼台の欄干らんかんに身を移し、街を見下ろした。

 街は人で埋め尽くされていた。

 眼下の辻を今まさに曲がり、こちらに向かって来る方士がいる。


 見れば、白髪白髯はくはつはくぜんに純白の方衣をまとい、痩軀そうく鶴の如き姿であかざの杖にすがっている。左右に二人ずつ巫女みこを侍らせ、前方を歩くひとりの巫女が、道を符水で清めながら進んでいた。

 いつもの見慣れた風景も、于吉の神秘さが加わることで、より風雅なものになっている。


「于吉さまだ!」

「大方士さまがお通りになるぞ!」

 街道に群がった人々は、于吉の道を開くように平伏した。その中には、老若男女の民草ばかりではなく、先ほどまで宴席にいた諸将の姿もあった。


 よく見ると、その群集の中に一際奇妙な侠客きょうかくの姿があった。

 無造作な黒髪は肩まで伸び、眉はがり、鼻梁びりょう高く、首は太い。眼を開けばらんと輝く偉丈夫いじょうぶが、漆黒の襤褸ぼろで全身をまとっている。


 そして、その侠客の肩の一方には、奇妙な亀が鎮座していた。

 頭に鹿の如き角を生やし、神木に水脈を彫ったような甲羅の後ろで、蓑毛みのげを風になびかせている。三本足だが、鋭い爪でしっかりと肩に掴まっていた。


介象かいしょうよ、あれは本当に于吉かえ?」

 亀は、侠客の耳元で問いただした。

元緒げんしょよ、お主も益々老いたな。どこからどう見ても于吉ではないか。見えるのは三十年振りだがな。未だにこの地方で起居しているようだ」


 侠客の偉丈夫、介象は懐かしそうな口振りだった。

「何を言うておる。四十年振りにはなろうが」

 亀の元緒は、悔しげに介象へ反論した。

 群がった人々は、介象と元緒を奇妙なものでも見る眼で、避けるように通り過ぎていた。


「あの老骨がどうしたというのか!」

 上座に在った賓客ひんきゃく陳震ちんしんも、孫策の大喝に身を強張こわばらせた。

かあっと、血汐ちしおを逆流させた孫策は、今すぐ于吉を捕えるよう近侍きんじたちに下知した。


 しかし、その近侍たちは一律に孫策をいさめた。

「方士于吉は、時折この地方を周遊しては、病人や怪我人に符水を施し、民草を救っております」

「その方術により、快癒かいゆしない者はいないため、信仰が厚いのです」

「仮にもの者を召し捕れば、民心は孫策さまから離れるものと存じます」


 その返答に、孫策は面を朱にして大喝した。

「何をほざいておる‼ 貴様らもあのあやしげな老骨に傾倒しておるというのか⁉ 我に逆らうは、死を意味するのだぞ‼」

 近侍たちは、弾かれたように楼台を駈け降りると、街道に群がった人々に分け入り、于吉を縛り上げては、悄然しょうぜんとした様子で孫策の元に引き連れてきた。


「于吉の奴、縛られ連れて行かれたが、どういうことだ?」

「はて? どういうことかのう?」

 その様子を見ていた介象と元緒は、首を傾げた。


「貴様、何故なにゆえに我が民を惑わす?」

 孫策が詰問すると、于吉は冷然と答えた。

「長い年月を掛け習得した方術を用い、万民に幸福を施すことの何が罪か? 呉の君主であれば、わしに礼節を尽くしてこそ民心を得られるというもの」

 台座に鎮座した見事な九本の刀剣が、ちらと于吉の視界に入った。


「ほざくな! この孫策を愚弄ぐろうするか? 誰ぞ、この老骨の首をね、邪教から民草を解放せい!」

 しかし、孫策の下知に、近侍の者は誰も歩み出なかった。

「と、殿、この于吉は何の罪も犯しておりませぬ。斬れば民心を失うことになりますぞ」

 程普ていふは、慌てた様子で孫策と于吉の間に割って入ろうとしたが、それを制すように孫策は大喝した。

「こいつは邪教の主だ‼ いずれ邪教は国の毒となる。今、大禍となろう老骨を斬って何が悪いか‼」

 怒髪天どはつてんく勢いの孫策を前に、于吉は変わらず冷淡な態度だった。


「兄上」

 激怒する孫策を前に、近侍たちの後方に在った孫権は、恐怖を振り払いながら進み出た。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ