怒髪天、孫策
宴席の隅にあった孫権は、兄の様子に安堵した。そして、与えられた使命の完遂に、ほっと胸を撫で下ろした。怪我の心配など杞憂だった。
顔色とは裏腹に、孫策はこれまでに見たことがないほど意気揚々としていた。
ところが――。
宴もたけなわとなる前に、諸将がひとり、二人と席を立ち、わいわいと大半の者が楼台を降りていったのである。
これを訝った孫策は、近くの小姓に尋ねた。
「楼を降りて行く者が多いが、どういうことか?」
「街に于吉さまが訪れたようで、その姿を拝見しに挙って出て行かれたようです」
応じた小姓も、何だか気になっている様子だった。
孫策は、瞬く間に憤怒で青褪めると杯を投げ捨てた。急ぎ楼台の欄干に身を移し、街を見下ろした。
街は人で埋め尽くされていた。
眼下の辻を今まさに曲がり、こちらに向かって来る方士がいる。
見れば、白髪白髯に純白の方衣をまとい、痩軀鶴の如き姿で藜の杖にすがっている。左右に二人ずつ巫女を侍らせ、前方を歩くひとりの巫女が、道を符水で清めながら進んでいた。
いつもの見慣れた風景も、于吉の神秘さが加わることで、より風雅なものになっている。
「于吉さまだ!」
「大方士さまがお通りになるぞ!」
街道に群がった人々は、于吉の道を開くように平伏した。その中には、老若男女の民草ばかりではなく、先ほどまで宴席にいた諸将の姿もあった。
よく見ると、その群集の中に一際奇妙な侠客の姿があった。
無造作な黒髪は肩まで伸び、眉は昂がり、鼻梁高く、首は太い。眼を開けば爛と輝く偉丈夫が、漆黒の襤褸で全身を纏っている。
そして、その侠客の肩の一方には、奇妙な亀が鎮座していた。
頭に鹿の如き角を生やし、神木に水脈を彫ったような甲羅の後ろで、蓑毛を風に靡かせている。三本足だが、鋭い爪でしっかりと肩に掴まっていた。
「介象よ、あれは本当に于吉かえ?」
亀は、侠客の耳元で問い質した。
「元緒よ、お主も益々老いたな。どこからどう見ても于吉ではないか。見えるのは三十年振りだがな。未だにこの地方で起居しているようだ」
侠客の偉丈夫、介象は懐かしそうな口振りだった。
「何を言うておる。四十年振りにはなろうが」
亀の元緒は、悔しげに介象へ反論した。
群がった人々は、介象と元緒を奇妙なものでも見る眼で、避けるように通り過ぎていた。
「あの老骨がどうしたというのか!」
上座に在った賓客の陳震も、孫策の大喝に身を強張らせた。
かあっと、血汐を逆流させた孫策は、今すぐ于吉を捕えるよう近侍たちに下知した。
しかし、その近侍たちは一律に孫策を諫めた。
「方士于吉は、時折この地方を周遊しては、病人や怪我人に符水を施し、民草を救っております」
「その方術により、快癒しない者はいないため、信仰が厚いのです」
「仮にも彼の者を召し捕れば、民心は孫策さまから離れるものと存じます」
その返答に、孫策は面を朱にして大喝した。
「何をほざいておる‼ 貴様らもあの妖しげな老骨に傾倒しておるというのか⁉ 我に逆らうは、死を意味するのだぞ‼」
近侍たちは、弾かれたように楼台を駈け降りると、街道に群がった人々に分け入り、于吉を縛り上げては、悄然とした様子で孫策の元に引き連れてきた。
「于吉の奴、縛られ連れて行かれたが、どういうことだ?」
「はて? どういうことかのう?」
その様子を見ていた介象と元緒は、首を傾げた。
「貴様、何故に我が民を惑わす?」
孫策が詰問すると、于吉は冷然と答えた。
「長い年月を掛け習得した方術を用い、万民に幸福を施すことの何が罪か? 呉の君主であれば、儂に礼節を尽くしてこそ民心を得られるというもの」
台座に鎮座した見事な九本の刀剣が、ちらと于吉の視界に入った。
「ほざくな! この孫策を愚弄するか? 誰ぞ、この老骨の首を刎ね、邪教から民草を解放せい!」
しかし、孫策の下知に、近侍の者は誰も歩み出なかった。
「と、殿、この于吉は何の罪も犯しておりませぬ。斬れば民心を失うことになりますぞ」
程普は、慌てた様子で孫策と于吉の間に割って入ろうとしたが、それを制すように孫策は大喝した。
「こいつは邪教の主だ‼ いずれ邪教は国の毒となる。今、大禍となろう老骨を斬って何が悪いか‼」
怒髪天を衝く勢いの孫策を前に、于吉は変わらず冷淡な態度だった。
「兄上」
激怒する孫策を前に、近侍たちの後方に在った孫権は、恐怖を振り払いながら進み出た。