嵐の前触れ
「これからは、女として生きることを許す。好きにして良いぞ」
晴れた朝だった。
武術の鍛錬を終えるとすぐ、葛玄がそう言った。
「な、何、急に……?」
姚光は訝った。
「お前の好きなように生きて良い。鍛錬もやりたくなければ、やらなくていい」
葛玄は額の汗を拭うと続けた。
「何をしても良い。大事は、本当の強さと弱さ、そして、味方が何たるかを悟ること。自分のやりたいことを見付けろ。志は高ければ高いほどいい。それが、お前の生きる指針となる。そうすれば、この世での使命を理解する日も来よう」
「…………」
姚光は呆気に取られ、何も言えないでいた。
その様子に葛玄は呵々と大笑すると、汗に塗れた躰を洗い流すため、小川へ歩を向けた。
姚光には、すぐに理解できなかった。好きに生きて良いと言われた。
だから、阿亮のように白い道袍を纏い、伸びた髪は白の緇撮で結うことにした。槍術は捨てなかった。
それからというもの、葛玄と姚光は、里で人らしい営みの日々を送った。
葛玄は、老人たちが田畑を耕すのを手伝い、若者には槍術を教えた。僅かだが剣術の心得もあったため、剣術も手解きした。いつしか里の者から先生と呼ばれるようになった。
文聘は鄷玖の警護の傍ら、葛玄に倣うように若者に戟の使い方を指南するようになった。
姚光は、女であることを隠さなくなった。
そして、里の子供たちと遊ぶようになった。姚光よりも小さい幼児からは姚姉と頼られ、若女からは姚ちゃんと親しまれるようになった。時には、赤子の世話を買って出た。
そればかりではなかった。
日課のように鄷玖の草庵を訪れると、阿亮から読み書きを習った。知識に餓えていたのか、瞬く間に己のものとして吸収した。
阿亮は、己を模した身なりで学ぶ姚光を、妹のように可愛がった。
鄷玖も姚光を孫のように可愛がり、森羅万象の理を諭しては、蔵書を読み聞かせた。姚光の些細な質問にも、優しく丁寧に応じた。
姚光は読み書きに飽きると、草庵の外に飛び出し、門前の文聘に鍛錬の相手になってもらった。
そのような折、姚光は里の子供たちに教わった花の首飾りを庵の庭でせっせと拵えた。それを感謝の意を込め、鄷玖と阿亮、そして、文聘に捧げた。
鄷玖と阿亮は、花の首飾りを身に付け、大いに喜んだ。
文聘は、それを首に掛けられると、どういう訳か大粒の涙を流し、しゃくり上げるようにして泣いた。
その文聘が、葛玄と姚光の小屋を訪れるようになった。
たまに酒を持って来ては、葛玄と夜更けまで語った。普段は寡黙な文聘だが、酒が入ると少し口が滑らかになった。
姚光が先に寝床に入ると、睡魔に襲われながら会話が聞こえてきた。
「俺は妻と娘を亡くしてから、一度も泣いたことがなかったが、この前、姚光から花の首飾りをもらってなあ……」
赤い顔をした葛玄が、静かに次の言葉を待った。
「……娘が生きていたら姚光くらいかと思った途端、娘と姚光を重ねてしまった。そしたら、何か胸の奥から溢れてきて、泣いた。大いに泣いた」
葛玄は一度頷いて盃を呷ると、間を置いてから静かに言った。
「良かったな、泣けて。これで人に戻れた」
そう言うと葛玄は、文聘の空いた盃に酒を注ぎ入れた。
「ああ。そうだな」
文聘は嬉しそうに微笑むと、盃を一息に飲み干した。
姚光は睡魔に抗いながら、文聘をおじさんと呼ぶのはもう止めようと思うと、もう睡魔に抗うことはできなくなっていた。
そして、葛玄と文聘は、姚光に乗馬を手解きした。
姚光は、見る間に馬を疾駈させるに至った。馬で駈けたときの頬に受ける風が、堪らなく心地良かった。
牧に一頭だけ白鹿毛の馬がいた。
それを姚光が好んで騎乗した。姚光が騎乗すると、馬銜の利く白鹿毛は飛ぶように駈けた。名馬と呼ぶに相応しい駿馬だった。
姚光はその白鹿毛に、白翊と名付けた。
葛玄と姚光が里で暮らすようになって、二年の歳月が流れようとしていた。
「行くよ、聘さん!」
白い道袍を纏い、長く伸びた髪は、白の緇撮で結っていた。背丈も伸び、子供扱いされなくなった。
短槍の石が、きらりと光ったように見えた。
「姚姉、頑張れ!」
「姚光や、戟の動きから眼を逸らすでないぞ!」
「しっかり、姚ちゃん!」
里の者は挙って姚光に声援を浴びせていた。
姚光は、早くて鋭い突きを文聘に量産した。
いつからか文聘は、姚光から「聘さん」と親しみを込めて呼ばれるようになっていた。
その突きを文聘は、得物の戟で全て払い除けた。
すると――。
「――――⁉」
いつの間にか、眼前に姚光の姿がない。
天高く跳躍した姚光は、宙で短槍を振り被った。
文聘は咄嗟に身を屈めると、そのまま戟を逆手にして柄の先を天に向けた。
姚光は戟の柄を蹴り除けると、振り下ろした一閃は、文聘の頭上でぴたりと止まった。
「お、おお……!」
里の者たちの声がどよもした。
武芸の稽古の中で、勝ち抜き戦を行っていた。
勝ち抜き戦の話題は、たちまち里内に広がった。皆、田畑を耕すのも忘れ、遊びもそっちのけで、眠った赤子を抱いたまま、挙って見物に訪れていた。
姚光は若者たちに全て打ち勝ち、残すは里で武の師範とも言える文聘と葛玄だけだった。
それが今や、文聘が姚光に破れた。
「参ったか、聘さん?」
以前に比べると、幾分か女らしさが出てきたが、言葉遣いは以前のままだった。
文聘は笑いが込み上げてくると、呵々と大笑して言った。
「ああ。参った」
姚光に敗北した文聘は、どこか嬉しそうだった。
一年ほど前から、姚光は葛玄との朝の手合わせを止めていた。
葛玄が強要しなくなったため、姚光は自然を相手に鍛錬するようになっていた。心身を研ぎ澄ますよう、時には竹林の中で、時には大木を相手に槍術の研鑽を積んだ。
研鑽を積んでいたのは、葛玄も同じだった。大岩の上に胡座すると、眼を閉じ、頭の中で好敵手と対峙する。繰り返すことで、葛玄の槍術は更なる高みへと至った。
「勝負だ、姚光」
不敵な笑みを携え、葛玄が勇んで一歩踏み込んだ。
「行くよ、おっ父」
姚光は、凄まじい勢いで葛玄に近づいたかと思えば、突きを矢継ぎ早に放った。その突きは、これまでに見たことがないほど神速で鋭い。
乱突――。
葛玄の顔が苦笑いに変わった。
刀身は穂鞘に覆われているが、穂鞘がなければ、致命傷を負っているかもしれなかった。
乱突を捌きながら、葛玄は額から頬に一筋の冷たい汗が伝うのがわかった。
それを払拭するかのように、葛玄は横一閃を振り払うと、姚光が短槍を引くのに合わせ、身を翻して間合いを詰めた。
姚光の足元を払うと同時に斬り上げ、斬り下ろし、片手で神速の突きを胴目掛けて突き出した。
姚光は、舞うように跳躍すると、斬り上げられた槍を弾き、斬り下ろされたそれを薙いだ。
そして、穿突の槍の柄にふわりと降り立つと、柄の上を疾走するようにして、横薙ぎの一閃を葛玄の首元で止めた。
「――――⁉」
葛玄の眼は、驚愕で大きく見開かれた。
姚光は勢いのまま宙を旋回し、葛玄に背を向けるように着地した。
束の間、辺りには静寂が訪れた。
「遂にやったか」
腕組みして戦況を見守っていた文聘が、満足げに言った。
それを他所に、蝟集していた里の者はどれも唖然とした。
「どうだった⁉ おっ父――⁉」
振り返った姚光は、無邪気に瞳を輝かせながら葛玄に尋ねた。
葛玄は暫しの間、眼前の娘を見遣った。
「遂にこの日が来たか……」
そう思うと、悔しさより安堵が勝った。そして、少し淋しくなったが、それは喜ばしいことだった。
「我が娘よ、よくやった」
自然に体が動いたように、葛玄はぞんざいに姚光の頭を撫でていた。
里の者たちから、一挙に歓声が湧いた。
「姚姉、凄い、凄い!」
「遂に、姚光が先生に勝っちまったぞ!」
「姚ちゃん、姚ちゃん!」
里に暮らす者たちの主役は、今や姚光となっていた。
高台の畑から、その様子を愉快げに眺めていたのは、鄷玖だった。
隣には阿亮を侍らせている。
沸いている人の群れに眼を遣りながら鄷玖が言った。
「そろそろ出立の頃合か?」
「なかなか決心がつきません。曹操は国賊であり、孫策は天命を盗もうとしているように見えます。故に、田園に帰耕し、志を養い、道を楽しもうと思います」
微笑を湛えて阿亮が潔く答えた。
「それはならぬ。お主ほどの器量を持ちながら、民を救おうとしないのは仁者と言えぬ。人は、出処と進退が必ず正しくなければならぬ」
「…………」
「劉備は漢室の一族。お主が一度出でて彼を輔佐すれば、漢朝復興の事は成就するだろう」
鄷玖の視線は、依然として蝟集した人の群れに注がれていた。
「では、関羽、張飛などの輩は、如何なる人物なのでしょう……?」
微笑の消えた阿亮が尋ねた。
「関羽は老龍、張飛は玄豹、趙雲は大蟒蛇、糜竺は寿糜、これに加え、襄陽の鳳雛、長沙の虎母、西涼の若駒、天水の小龍、皆、お主の良き扶けとなろう」
阿亮は静かに、澄んだ瞳を沸いている人の群れに向けた。
そんな折だった。
「――――⁉」
異変を察したのは、鄷玖だった。
突如、南方より閃光が空を切り裂いた。その一筋の煌びやかな閃光は、眩い光の尾を引いて霊山の中腹に消えていた。
「な、何だ、あれ――⁉」
沸いていた里の者たちも、挙って空を見上げた。
葛玄、文聘、そして、姚光も、その見たこともない不確かな輝きに、眼を奪われていた。
「阿亮よ……」
不意に、戦慄した鄷玖が言った。
「はい」
阿亮は、鄷玖の様子から何かを察したようだった。
「私ひとりでは心許ない」
「…………」
胸騒ぎがした鄷玖は、藜の杖を手にゆっくりと踵を返した。
「出立は、少し先延ばしにして貰いたい」
「はい」
眼を閉じて返辞をした阿亮は、その眼を開けると、にこりと微笑んだ。その肌の白い清雅な若者は、鄷玖の後に続いた。
いつの間にか、南方の空が厚い雲で覆われていた。ゆっくりとこちらに流れている。
嵐になりそうだった。