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葛玄と姚光

 いくつもの突きをさばくのも、容易ではなくなっていた。

 短槍の柄に装飾されている石が、一度光って見えた。

 乱突――。

 刀身は穂鞘ほざやで覆われているが、穂鞘がなければ、致命傷を負っているかもしれなかった。

 これほど槍術が開花するとは想定外だった。

 

 よわい強仕きょうしの頃。筋骨隆々の壮健な丈夫じょうぶは、額から頬に一筋の冷たい汗が伝うのがわかった。その丈夫、葛玄かつげんは、わずかな気をも緩ませることなく、眼前の娘が繰り出す烈火の如き槍風に応戦していた。


 まゆひいで、唇はあかく、聡明そうな瞳と豊かな頬を持っている。

 長い黒髪を白の緇撮しさつで結ったその娘は、齢十五にも満たなかったが、あと数年も経てば男たちがこぞって振り向くであろう美質の持ち主でもあった。

 姚光ようこう――。

 その娘の名だった。


 七年前、徐州じょしゅう曹操そうそうが侵攻してきた。

 当時、葛玄は徐州のぼくだった陶謙とうけんの長子、陶商とうしょうの食客だった。

 陶商はまつりごとに興味がなく、仕官さえしていなかったが、大きな屋敷を構え数多あまたの使用人や女中が仕えていた。

 恰幅かっぷくの良い陶商は、何不自由ない生活を送っていたが、妻に先立たれ、残された十歳にも満たない子女は、女中たちが代わる代わる面倒を見ていた。

 何を生業なりわいにしているのかもわからなかった。

 行商のようなことをしていると思えば、物流のようなことをしているときもあった。度々、父である陶謙の仕事を手伝っているようでもあったが、出仕する気はないようだった。

 父の威光をかざすことなく、自由人を気取る風変わりな男だったが、気の良い男でもあった。


「良い腕だ。加えて、義気のある顔つき。私の食客になる気はないか?」

 槍術の師範として陶謙に招かれ、彭城ほうじょうの兵たちに指南していたときだった。

 偶然、城を訪れていた陶商に気に入られた。同じようなものだったのだろう。陶商の屋敷では、幾人かの食客が囲われていた。

 一日の大半を槍術の鍛錬に当てる。

 陶商が取引相手を怒らせ、その手下が怒鳴どなり込んで来るようなときは、その相手をする。十人に囲まれようとも、槍一本あれば追い払うことなど造作も無いことだった。

「槍術に専心しているだけで、いっぱぐれることはない」

 曹操が侵攻してきたのは、そんな折だった。


 その侵攻は、人だけではなく、鶏や犬まで殺し尽くす大虐殺だった。

 赤と黒に彩られた甲冑(甲冑)をまとった曹操の兵たちは、餓狼がろうの勢いで陶商の屋敷にもその牙を向けた。

 何が起きているかわからなかった。

 突如、喧騒けんそうが聞こえたかと思うと、その喧騒はたちまち大きくなった。遂には、女中たちの悲鳴も聞こえてきた。


 これは一大事と、槍を手に自室を出た。

 そこにいたのは、纏った袍衣ほういが鮮血にまみれた陶商だった。

 右の脇腹から大量に出血している。右手で槍を持ち、もう一方の手で幼い子女の小さな手を引いていた。

「曹操が侵攻してきた。老若男女問わず、家畜でさえ斬り捨てておる……」

 額に脂汗を浮かせた陶商は、膝を突いて少女の両肩に手を乗せて諭した。

此処ここにいては殺される。この葛玄と共に逃げるのだ」

「と、陶商どの――⁉」

 陶商は立つと、葛玄に少女の手を握らせ、持っていた槍を手渡した。

 槍と言っても、普通の槍より柄の短い槍だった。柄の一部は、石などで豪華な装飾が施されている。

「葛玄よ、陶光とうこうを頼む。それと、我が陶家伝来の槍もお主に託す」

 陶商は、足早に隣の空き部屋まで葛玄と陶光を伴うと、隅の床板を引きがした。

 すると――。


 そこには、人がひとり通れるほどの深い穴が掘られていた。

「さあ、行け。城外まで出られる」

「陶商どのも参られよ」

 葛玄がいざなうと、陶商は静かに微笑み返した。

「私では、陶光を守ってやれぬ。囲っておった食客どもは、皆一足先に逃げおったわい。信を置けるは葛玄、お主しかおらぬ」

 陶商は少女を担ぎ、穴へ押し入れると、真摯しんし眼差まなざしで告げた。

「陶光よ、これからはこの葛玄を父と思え。そして、生きろ。生き延びるのだぞ」

 少女は一度だけうなずいた。眼には涙を浮かせていたが、泣いてはいなかった。このような事態におちいった際の覚悟というものを既に教え込まれているようだった。


 葛玄も無理やり穴へ押し込まれると、陶商は床板を穴に覆い被せようとした。

「行け、葛玄。陶光を頼む――」

 陶商が言い終えるや否や、突如として暗闇が訪れた。

 陶商が残った部屋に、曹操の兵たちが躍り込んで来るのが気配でわかった。

 穴の底からは、城外に向かって抜け穴が続いているようだった。

「行きましょう。中腰にならなければ、頭をぶつけます」

 静かに言った陶光は、手探りで葛玄の手を握ると、先立って奥へと歩み出した。

 明かりはなかったが、陶光の足取りは確かで、何度も通ったことがあるようだった。


「一体、何が起きている? 何故なぜこんなことになった? 何故、俺が選ばれた?」」

 中腰で歩くのが辛くなる度に、何度も土の天井に頭をぶつけながら、そんなことばかりが繰り返し頭をぎった。

 しかし、小さな手に引かれた葛玄の手は、強く握られていた。弱気になどなっていられなかった。

 どれほど歩いたのか、薄っすらと明かりが差し込んでいるのがわかった。薄明かりに向かって進むほど傾斜になっている。

 陶光が先導して、薄明かりに手を伸ばすと、それを避けるように動かした。

 出口の穴は、大量のわらで覆われていたようだった。穴には、まぶしいほどの明かりが差し込んだ。

 陶光は穴から抜け出すと、それに続いて、葛玄も抜け出した。

 眩しくて、まともに眼を開けられなかった。


「父上……」

 陶光の声に、はっとしたような葛玄は、辺りを見渡した。

 通って来た穴の出口は、彭城の市街からも遠方に見えていた、丘陵きゅうりょうの雑木林の中だった。

 彭城からは、方々で黒煙が上がっている。男とも女ともわからない悲鳴のような叫び声が聞こえていた。

 赤と黒の兵団が次々と押し寄せては、また何処どこかへ向けて進軍している。

 しばらくの間、陶光の静かな視線は彭城に向けられていた。

 が傾き掛けていた。


「行こう。此処ここにいては、追っ手が来るやもしれぬ」

 小さな手を引いたのは、葛玄だった。

 葛玄も今の陶光と似たような境遇だった。

 戦乱で両親を亡くし、身寄りもてもなかったが、幸運にも初老の男に拾われた。槍術はその男に習った。厳しかったが、時折、優しかった。

 あるとき、その初老の男は徴兵により出兵した。それっきり帰って来なかった。

 のこされた質素な小屋で、葛玄はひとりで暮らした。槍術が身を助けた。気丈にさえなれば、何でもできそうな気がした。


 今、葛玄の手には二本の槍があった。

 葛玄は、ほぞを固めた。

 それからというもの、銀河が一際冴えわたる空を幾度見てきたことだろう。

 葛玄は、義気を持った丈夫だった。ゆえに、陶光を生き永らえさせるために手段すべを選ばなかった。

 曹操が陶家を根絶やしにすることも考えられた。陶光に差し向けられたかもしれない追っ手を、くぐる必要があった。

 陶光には陶の姓を捨てさせ、母親の姓、姚氏を名乗らせた。そして、自分のことを父と呼ばせ、男として生きることを強い、男として育てることにした。


 父子で戦乱の世を彷徨さまよった。生きることは諦めなかった。

 黄巾で髪を束ね、賊徒のようなこともした。日銭を稼ぐため、用心棒のようなこともした。銭も底を突き、狩猟かりにも失敗し、食に有りつけない日もあった。

 しかし、父子で武芸の鍛錬は怠らなかった。その鍛錬の様子に感心し、仕事を与える者もあった。

 生きるのが辛い。そう思うことも無いことは無かった。

 いつからか姚光には、「おっ父」と呼ばれるようになっていた。姚光の笑顔が、辛いことを忘れさせてくれた。

 そうやって、五年ほどの歳月が過ぎようとしていた。



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