義兄弟
鈴の音が近づいてくるようだった。
川面には靄が掛かっている。
その靄からゆっくりと姿を現したのは、一艇の豪奢な先登だった。
幾人もの屈強な無頼漢が、息を合わせて櫓を漕いでいる。
その船上では、方士の介象と亀を被った胡綜が、腕組みして佇立し、二頭の馬も静かに乗船していた。
「ゆっくりと岸に横付けしろ」
漕ぎ手の無頼漢の指揮を執っていたのは、錦帆賊の頭、甘寧だった。
岸辺に寄せられた先登からは、介象と胡綜、二頭の馬が下船した。
そこは既に豫州汝南郡の地だった。
「世話になったな、甘寧」
言った介象には、微笑が浮いていた。
「どうってことねえよ。それより、何か困ったことがあったら、いつでも言ってくれ」
甘寧は、人差指で鼻の下を擦った。
「また会おうぜ、介象さん!」
「いつでも錦帆賊を頼りなよ!」
漕ぎ手の無頼漢たちが、船上から挙って手を振っている。
「よし、引き返すぞ!」
「へい!」
甘寧の号令が早朝の淮水に響き渡ると、岸辺へ寄せられた先登は、再び対岸を目指し出航した。
先登の船尾が此方を向くと、介象は五花の手綱を取り、馬上の人となった。
「この先、どこまで駒で進められるかわからん。駈けられるところまで駈けよう」
介象が五花を進めようとした刹那、元緒が介象の肩に飛び乗った。
「金輪際、被り物の真似事は、ご免じゃ」
元緒の口調は不機嫌だった。
「仲良くする気はないと、意地を張るからです。気の良い人たちだったではありませんか」
元緒を宥めるように言った胡綜も、栗毛に跨って介象に続いた。
「ふん。胡綜の頭上はもう飽きたわい」
鼻息を荒くした元緒に、介象はからからと高笑った。
向かう先は、なだらかな稜線が東西に連なっている。麓まで駒で行けそうだった。
「一山越えた先から、強い霊気が放たれておるのう」
介象の肩に鎮座した元緒が、蓑毛を揺らした。
一行は麓まで辿り着いたが、騎乗のままでは通るのも難しいほどの狭隘で、足場の悪い山道に至った。
更に、鬱蒼とした木々が、介象たちの行く手を阻んでいるようだった。
介象と胡綜はそれぞれ馬を曳いて登ると、頂き近くに崩れかけた古刹があった。それを横目に過ぎると、介象と胡綜の眼前は、急峻な渓谷の桟道に辿り着いた。
すると――。
「これからだ! これからだ!」
何やら騒がしい三人の男が、こちら側へ渡って来るところだった。
介象と胡綜は、道を譲るように身と馬体を桟道の脇に寄せた。
見れば、露払いのように先頭を闊歩する男は、橙の折上巾を被った身の丈七尺もあろうかという巨漢であり、虎髭の持ち主だった。
これに続いたのは、頭に金輪を被り、秀眉で聡明な瞳、高い鼻梁で紅い唇の顔に莞爾とした笑みを湛えている。どこかその容姿から溢れ出る善良な品性が、人の眼を引き付け、心を打つようだった。
そして、最後の一人も偉傑だった。先頭を歩く巨漢にも劣らない身の丈と胸幅であり、紺の折上巾を被り、眉は上がり、鼻は高く、風雅に長髯を揺らす魁偉の風貌である。
「人はまた集い、兵も集まる。これも兄上の徳によるものですな」
長髯の巨軀が嬉しそうに闊歩している。
「無事に再会できたのも天のお導き。我らの大志は必ずや成らん」
二人の間を歩く男の眼が輝いたようだった。
「応ともよ! これからだ! これからだ!」
介象と胡綜は、その稀に見る三人の偉傑との擦れ違い様に、軽く会釈をして遣り過ごした。再び馬を曳いて桟道を渡った。
桟道の中ほどに差し掛かったときだった。
「ウヒヒ。奇遇にもこんなところで今世の彭越に相見えるとはのう」
元緒が嬉しそうにしたかと思うと、介象にも笑みが浮かんでいた。
「今世では、老龍と玄豹を両翼とし、天へ翔け上がる腹積もりのようだが、楽しみだな」
桟道を渡り切ると、少しずつ道が開け、ゆっくりと下りになっているようだった。
同じように反対側の桟道を渡り切り、しばらく狭隘を進むと、突如として善良な品性が溢れ出る男の歩が止まった。
「どうされた、兄上?」
「あん? どうかしたか、長兄?」
善良な品性の男は振り返った。
「先程擦れ違った襤褸を纏っていた者、何処かで会ったか?」
「そうであれば、向こうから声を掛けてくるでしょう」
「前に戦った賊徒と似ていただけじゃねえか?」
「…………」
豊かな頬に微笑を浮かべると、その男は再び狭隘を歩み出した。
「何だか懐かしい気がしたんだがなあ……」
二人の偉丈夫も、独語した男に続いて歩を進めていた。