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胡綜と弓

 常に、大河は左にあった。

 介象(介象)と元緒げんしょ、そして、胡綜こそうの一行は、陸路で長江を遡上そじょうするように廬江郡ろこうぐん皖県かんけんに向かっていた。

 介象は、黒毛の五花ごかまたがり、栗毛くりげに騎乗した胡綜と並走している。


「船風も良いものだが、やはり馬上の風も良いのう」

 胡綜の頭上に鎮座した元緒が、気持ち良さそうに言った。近頃は、めっきり介象の肩よりも胡綜の頭上が元緒の落ち着き所となっていた。

「せっかく呉の領地にいるのだから、久方振りに船に乗りたいのう」

 元緒の気紛れにより、一行は船旅を強いられることになった。


 曲阿きょくあを北に向かって丹徒たんとまで着くと、胡綜は直ちに船とぎ手を手配した。

 そこから南西にある濡須口じゅすこうまでは、先登せんとうと呼ばれる船で長江を遡上した。 

 走舸そうかより速力は劣るが、二頭の馬を乗せて長江を遡上するには、都合の良い大きさの船だった。本来は多くの兵を運び、敵船に飛び移って乗っ取る。もしくは、快速を活かして敵陣の陣形を乱す役割を担う船だった。


 向かっている皖県は、呉の孫権そんけんが治める領地内だった。そこから一気に北上し、豫州よしゅう汝南郡じょなんぐんを目指すことにしていた。

 豫州は曹操そうそうが治める領地だったが、数多あまたの賊徒が跋扈ばっこし、未だに乱世から治安を取り戻せていない地域と聞いている。

「元緒さま、船旅は満足しましたか?」

 上目遣いの胡綜は、元緒に尋ねた。

「うむ。良い働きであったのう、胡綜」

 元緒は上機嫌で返したが、遠方で発生するわずかな妖しい霊気でさえ探知できるよう、感覚を研ぎ澄ませていた。


 時折、馬に休息を与え、水を飲ませている間に食糧となる獲物を狩った。

 介象は、自然のものを利用して罠を仕掛けるのが上手かった。それよりも前に、獲物の足跡を見付けるのに卓越していた。野兎や野鳥、運が良ければ猪まで生け捕った。これにより、食糧に困ることはなかった。

 加えて、介象は岩塩を携帯していた。そればかりではない。少量の香辛料を複数種持っていた。

 介象は、慣れた手付きでその日の獲物をさばくと、肉を細い枝に刺して焚き火であぶった。てらてらとした脂が肉からにじみ出し、落ちた脂で炎が大きくなった頃合に、塩と香辛料をまぶす。それが美味かった。日々、使う香辛料を変えるため、味に飽きが来ない。

 野草などは元緒が発見していた。肉に巻いて食べると、格段に味が変わった。野宿だったが、次の日には不思議と疲れが取れていた。

 しかし、胡綜はそう上手くいかなかった。

 弓は得手だったが、しっかり獲物に狙いを定めても、幾度も仕留め損なった。不甲斐なさを痛感するばかりか、弓の才の乏しさに悲嘆した。

 そのような折だった。


「古来より、弓という武器は戦況を大きく覆すことがある」

 弓で狙いを定めた胡綜が、ひゅっと矢を放つ。

 野兎の耳をかすめ、見事に逃したところを介象が検分していた。

 胡綜は苦々しい顔でうなずくと、肩を落とした。

太史慈たいしじ先生も同じようなことを申しておりました」

「太史慈? 胡綜の弓の師か?」

「はい」

 腰に手を当て、空を見上げるようにすると、胡綜は続けた。

「幼い頃から様々な武芸を試みましたが、腕っ節が弱く、剣術のたぐいでは同じ歳頃の者に勝ったことがございません」

「ほう」

「しかし、弓術だけは別でした。ゆえに、太史慈どのを先生と慕い、これまで何度か手解きを受けて参ったのですが、ご覧のとおりの腕前」

 胡綜は介象を見遣みやると、淋しそうに笑った。


 すると、介象が手を差し出した。胡綜の弓を催促しているようだった。

 胡綜は素直に弓を手渡した。

 胡綜の弓を手にした介象は、あらゆる角度から検視した。

「弓は好きか、胡綜?」

「好きかと問われれば、好きと答えます……」

 胡綜がぶっきら棒に返すと、介象は弓の弦輪げんわをきつく結び直した。

「矢を」

 胡綜は、介象に一矢手渡した。

 空を旋回していた一羽の鳥が地に降り立つと、介象は矢をつがえそれに狙いを定めた。

「胡綜よ、まずは必中を意識。放った矢が獲物を貫くところを頭の中に描く。そして、矢に気を乗せる」

 きりきりと弓がしなっている。

「それらが定まるとき、矢を放つ一瞬は、自然に体が反応する」

 介象は、びゅうっと矢を放った。

「――――⁉」

 胡綜は唖然とした。

 その鳥に矢が突き立つと、鳥は動かなくなった。

「常人よりかいなが長い。それはお主の天稟てんぴん。誰にでもあるものではない」

 介象は、胡綜に真摯しんしな瞳を向けて続けた。

「獲物を穿うがつ場面を想見し、放つ矢に己の意思を乗せる。その鍛錬を怠らなければ、必中は必殺となり、いずれ剛の矢を放つ弓の名手とうたわれよう」

 微笑した介象は、胡綜の胸に押し付けるように弓を返した。

「さて、今宵こよいも何とかなりそうだな」

 ひとちると、介象は射止いとめた獲物の方へ向かって闊歩した。

「…………」


 それからというもの、胡綜は介象と元緒よりも早く起床すると、的を定めては弓術の鍛錬に繰り返しいそしんだ。介象の言葉を反芻はんすうした。

 木立の枝に掴まっていたのは、元緒だった。

い。胡綜に言霊でも与えたか、介象?」

 弓術の鍛錬をしている胡綜を遠くから眺め、起きたばかりの介象に元緒が聞いていた。

「どうだったかな?」

 介象は、身を起こして胡綜の様子をしばらく眺めた。


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