若者と誤算
吹いた風は、潮の匂いを孕んでいた。
曲阿より東に位置する毘陵県、その沿岸部に介象と元緒の姿はあった。
向かったのは、于吉が起居していると覚えにあった草庵だった。
僅かな民が暮らす閑散とした里、その外れの丘に于吉の草庵はあった。
もの静けさが、草庵に誰もいないことを物語っている。
そこからは、規則的に波打つ海辺が見渡せた。若者がひとり、舟を修繕しているようだった。
「想定どおりじゃのう」
介象の肩の上で、辺りを見渡しながら元緒が言った。
介象も同じように周囲を眺めていた。
ふと、視線を草庵の門前に落とすと、そこには人型をした小さな薄汚れた白紙が落ちていた。数えると五枚あった。
海は、暖かな陽射しを照り返している。
介象は、その海に眼を向けた。
「僅かだが、霊気を感じる」
「ほほう。成るほど、やはりそうか」
元緒が同じると、介象は海辺へと踵を返した。
その海辺では、ひとりの若者が額に汗しながら、小さな舟を修繕していた。よく見れば古い舟だが、修繕すれば海に出られないこともない。
若者は、細身に白い袍を纏い、白巾で黒髪をひとつに束ねた稟性賢明な顔の持主だった。
介象と元緒が近づくと、それに気付いた若者の表情が、ぱっと明るくなった。
「これはこれは、介象さま。お久しゅうございますなあ」
親しげに言った若者に、介象は笑みを返した。
「久しいな、于吉」
「元緒さまもご健勝で何より。今は亀のお姿なのでございますね?」
若者の姿の于吉が、元緒をまじまじと見ていた。
「なかなかの霊亀っぷりに見惚れたか?」
「あはは。見惚れましてございます」
若者の于吉は、莞爾として笑った。
「それにしても、よく此処がわかりましたね?」
「何を言うておる。三十年ほど前に一度訪ねたことがあろうが」
元緒の言に、于吉は首を傾げた。
「そうでしたか? 一昔前のこと故、もう憶えておりませぬ」
屈託のない笑みを浮かべ、于吉は、ぽりぽりと頭を掻いた。
「一体、呉の領主とは何があったというのだ?」
介象の問いに、于吉は不貞腐れたように返した。
「私は、介象さまと元緒さまがこの地方を訪れたことを耳にした故、呉の街道を通って、迎えに上がろうとしていただけでございます」
「ほう。好い好い」
元緒が蓑毛を振って褒めると、于吉は続けた。
「私の姿に気付いた領民は、皆、礼を施しました。その様子を介象さまと元緒さまにも見ていてほしかったものです」
「見ておったぞ。よくぞ、民草にまで尊敬される方士へと成長したものじゃ」
元緒は、満足げに何度も頷いていた。
「見ておられましたか! これは幸い」
于吉は瞳を輝かせたが、その顔はすぐさま暗転した。
「それを呉の領主、孫策は、快く思わなかったのでございましょう。突如、大衆の面前で雨を降らせよとの命が下ったのでございます」
「降雨にはしたが、呉の領主からは、更に怒りを買ったというところか」
溜息を交えて言った介象が、やれやれ顔になった。
「まあ、そのような塩梅でございます」
寄せる波の音は静かだった。小さな蟹が音もなく砂の中に潜っていった。
「それで、刀剣を腹いせに散らせたと?」
ああ、と詰まらなそうな声を発して、于吉は返した。
「あれは恐らく、孫策の父、孫堅が命じて造らせていた刀剣かと。城内に連れて行かれた折、宴席に陳列されておりました。あの日は、完成の披露目だったのでございましょう」
「霊獣を召還し、刀剣に宿したな?」
介象は、于吉を睨んで質した。
「流石は介象さま。遠くへ飛ばすには、より強い霊気が必要ですから。お陰で私も、これまで蓄えていた霊気が霧散してございます」
「その姿を見ればわかるわい。何十年も蓄えた霊気を、怒り任せに一気に放出しおって」
呆れた調子で言った元緒に、于吉は再び頭を掻いた。
「若返ってしまったせいで、使える術も限られましょう。また、時を掛け、霊気を練らなければなりませぬ」
「霊獣のほかに、何か刀剣へ施したか?」
介象の問いに、于吉は怪訝の色を浮かべた。
「刀剣には、鍛冶師たちの強い念が込められておりました。それが霊獣を宿し、霊気を帯びたことで、何か発動するやもしれませぬ」
「ふむ」
介象と元緒が深刻な面持ちで頷くと、于吉は明るい調子で返した。
「大丈夫でございます、介象さま。腹いせに八本の刀剣を全土へ散らせただけ。霊山巡りでもして霊気を辿れば、造作もなく見付かりましょう」
于吉は、屈託のない笑みを浮かせた。
「不死の術は、唱えるに時を要す。唱え終わった拍子に計蒙を召還し、雨を降らせた。見ていて絶妙な間だったな」
介象が褒めると、気を良くした于吉は、その後の経緯も語った。
「よくぞ言ってくだされた、介象さま。首を刎ねられることは覚悟しておりました故、その折には急ぎ体を此処へ運ぶよう、予め巫支祁どもに伝えておったのです」
巫支祁とは、巫女の姿をした妖しのことだった。
于吉は多くの人前に己の姿を晒す折、危急の事態に供え、機転の利く妖し、巫支祁を必ず五体侍らせていた。
「しかし、于吉よ、八振の刀剣を散らせたのは良いとして、それを見つけた者によっては、大変なことになるやもしれぬぞ」
「…………!」
深刻な様子で告げた介象に、于吉は、はっとして押し黙った。
「やらかしたのう」
冷やかすように元緒が言った。




