孫権の憂いと胡綜
呉の英雄、孫策は夭折した。
龍頭人身の刺客に急襲された傷は、確かに快癒へ向かっていた。だが、体に残っていた毒が、大杯を呷ったことで再び活性化したようだった。
覇道を歩めば、それを阻害しようとする者が現れるのが常だった。
君主たる者、いつ何時現れるかもわからない刺客たちの急襲に、日頃から備えておくのも勝者の条件と言えた。
加えて、不遇は于吉の出現だった。ひとりの方士への怒気が、孫策の身を滅ぼすことになった。
その孫策に代わって呉の主となったのは、実弟の孫権、まだ齢十九だった。
曲阿の城、その一室――。
呉の領主、孫権は思案に暮れていた。
孫策の死から、呉の領民は一斉に喪に服した。葬儀は盛大に執り行われ、孫権も兄の死を悼み、時折ひとりになっては哭いた。
父と兄が同じくした大志を扶けるため、己があると信じていた。故に、幼い頃から、政、外交、人材登用などに興味を示し、学んできた。それが今や、父と兄の大志を継承する群雄のひとりに数えられる存在となった。
しかし、喪色に沈んでいた呉は、かえって新たな息吹が吹き込まれたように躍動した。
若い主を頂いた将兵は、孫権をよく補佐した。
若くして父と兄を亡くした新たな領主のためと、民の進取的な気質は孫権の施策を受け入れ、その下に団結した。
そして、河北の袁紹との交流を断絶する。これを当面の国策、その第一とした。
同盟の使者として呉を訪れていた袁紹の使者、陳震は、何の成果もなく河北に帰還していた。
曹操には従順な姿勢を見せながら、国政と国防を強化し、来るべき時に中原へ打って出る。呉が採るべき方針はこれだと、孫権とその将士たちの意は一致していた。
これにより孫権は、曹操の傀儡と化している献帝から、討虜将軍、そして、会稽の太守に封じられた。
呉の主としての滑り出しは順調に見えたが、孫権には気掛かりがあった。
于吉が首を刎ねられた際、不思議な光を帯びて八本の刀剣が四散した。
どこへ散ったのか手掛かりはなかった。
于吉の亡骸も探させたが、市街の何処からも見付からなかった。
孫権は眼を閉じ、ひとつ大きく嘆息した。
「胡綜、胡綜はいるか?」
「はっ」
現れたのは、孫権と幼馴染みの近侍、胡綜だった。頭が聡い儒生の如く澄んだ眼差しで、長身の若者である胡綜は、孫権の前に拝跪した。
「兄亡き後、どうなることかと思っていたが、皆の扶けにより、我らが呉は新生たるに至った。しかし、どうしても気になっていることがある」
「四散した八刀剣のことでございますね?」
孫権の憂いは、常にその近くに侍っていた胡綜も察していた。
「取り戻す方策はあろうか?」
胡綜は、かねてより思案していた対処法を語った。
「此度の件は、方士である于吉の仕業。然もあれば、同職の方士であれば、何か糸口が見つかるやもしれませぬ」
「…………」
孫権は、何かを考えるように口許に手を添えると、胡綜に視線を遣った。
「その同職の方士とやらに、心当たりはあるか?」
「どうやら今、巷ではこの地方に介象という方士が訪れているという噂でございます」
「介象? 聞いたことのない名だ。それは、どんな方士か?」
不思議な術を操る方士では、于吉と同じことが繰り返されることを孫権は懸念した。
「その風貌は侠客宛らであり、腰に三振りの剣を佩び、肩に奇妙な亀を乗せているとか。何でも、あらゆる方術に精通していると聞き及んでおります」
胡綜は、その瞳を輝かせながら、この間に聞き知ったことを伝えた。
孫権は眉間に皺を寄せ、瞑目した。
「胡綜」
孫権は静かに眼を開けると、よく通る声音で言った。
「兄の件もある。公に方士を探し出すような真似はできぬ。ここは、お主ひとりに方士介象の探索を任せたい。どうか、頼まれてはくれぬか?」
こうなることは、胡綜もわかっていた。困ったことがあれば、いつでも自分を使うよう、君主の座に就く直前まで孫権に何度も念押していた。
孫権には、難題をひとりで抱え込む癖がある――。幼馴染みだからこそ、理解していた孫権の癖だった。無理もない。偉大な父と兄、その次子と弟として、計り知れない葛藤と闘っていたことを、胡綜は容易に想像できた。
その幼馴染みが呉の君主、自分の主となった。胡綜は、いつも優しく、度量の大きい幼馴染みの扶けとなりたかった。そのためには、どんなこともいとわない覚悟ができていた。
胡綜は破顔して臣下の礼を返した。
「御意」
「悪いな、胡綜」
孫権は申し訳なさそうな顔をすると、胡綜に頭を垂れた。頭を上げると、笑みを浮かべた孫権は、深く頷いた。
胡綜も微笑を湛え、頷き返した。