チョコレート・キス~死神警視と氷の女王警部~②
ここ最近の警視庁内は大きな事件もなく平和そのものだ。
いつ事件が舞い込んでもいいよう各々フロア内で好き勝手過ごしている中、溜めていた報告書をやっと書き上げた佐々木が荷物を持ち席を立ったのを若手刑事、森尾が止めた。
「どこに行くんすか?」
「柔道場だよ」
「うへぇ・・・真面目っすね」
「真面目ってお前、俺達は刑事なんだからどんな凶悪犯相手でも動ける身体づくりをしておかないといけないだろうが。もしものことがあってからじゃ遅いんだぞ?」
「それは分かるんですけどねぇ」
わざとらしく目線を逸らす森尾は頭の出来はいいものの運動はからっきしで逮捕術もギリギリ合格といったところであり、先日も取り乱した殺人犯相手に尻もちをつき佐々木がフォローしたのだ。
まだこちらに来て日も浅く若いからという理由で今は何とかなるかもしれないがいつまでたってもおんぶにだっこでは話にならないと嫌がる森尾も連れて柔道場へと向かった。
途中真っ青な顔色の女性警官数名とすれ違い森尾は心配そうにしていたが、佐々木は特に気にすることなくさっさと行くぞ、と柔道場へ向かって行ってしまった。この時、森尾はこれから自分が目の当たりにする光景に気付くことが出来なかった。面倒見のよくどんな異変でも気づいて声をかけてくれるこの優しい先輩がなぜああも素っ気無かったのかを深く考えていれば、恐ろしい地獄を見ることはしなかったはずなのに・・・。
柔道場には既に人がいるらしく賑やかな声が聞こえていて、森尾は嫌だなぁと大きなため息をつきつつ佐々木に続いて中に入ったが、自分が想像していた光景とは異なる光景にポカンと間抜け面を晒した。
対戦しているのは先程から姿が見えなかった愛星管理官と氷室警部で、自分も相手も怪我をさせずに制圧する逮捕術とは違い互いの急所も平気な顔して狙っているこれはもう喧嘩とかそういったものである。
2人共御年53歳で中老の域のはずだが衰えを感じさせない動きで攻撃を仕掛け、氷室警部は女性でありながら力強い攻撃に周りも盛り上がる。
「あれ?珍しいね。森尾君がここに来るなんて」
「お疲れ様です、早乙女警部。実は佐々木先輩に無理矢理連れてこられまして」
「佐々木か~なるほどね」
「・・・あ、あの。早乙女警部。氷室警部達のあれって、逮捕術とかじゃないですよね?」
「そうね。あれはただのお遊びだよ」
「遊び?」
ドンッ!と派手な音が鳴り、愛星が氷室を背負い投げして試合が終了した。
氷室は悔しそうに愛星を見つめて何かを呟き、愛星は何が面白いのか笑いながら立ち上がる彼女に手を貸しながらまた何かを話している。
「俺達がまだ森尾君ぐらいの歳だったかな?氷室が犯人制圧の時に怪我しちゃってね。別に大した怪我じゃなかったんだけどそれが心底悔しかったらしくてその時からこうやって自主訓練やってんのよ。んであれはもし自分より格上でしかも自分1人で相手にしないといけないときの訓練って感じかな。俺達刑事は2人1組が基本だが凶悪犯相手にイレギュラーが起こる可能性も十分考えられる。しかも氷室達女性警察官はいくら訓練していても筋力とかウエイトとか体のつくりでどうしても男相手に勝てないときもある。だからああやって訓練してんだよ」
改善点を話しているのだろうか軽い動作を交えながら話す愛星はいつものふざけた感じではなくどこか真剣で氷室もいつもの不機嫌そうな表情でなくこちらも真剣な表情である。
いつもはいい歳したバカップルだの周りを巻き込んだ夫婦漫才を繰り広げている2人だが、やはりこういったところは警察官であり、同期でお互い遠慮する間柄ではないからと本気でぶつかっていけるのだ。
ふと1か月程前に他県ではあるが捜査中に殺人犯に襲われ殉職した刑事の話があがったのを思い出す。森尾より少し上で結婚して幸せの真っ只中に訪れた悲劇に本人もご家族もやりきれない気持ちでいっぱいだっただろう。森尾自身も先日へまをし佐々木にフォローして無傷で済んだが、運が悪ければ自分も殉職者名簿に載り今だ健在な両親や友人達を泣かせていたかもしれないのだ。
「これはあくまで自主訓練だから強制じゃないし帰っても別に怒りはしないよ。というかここに来る途中で見たでしょ?あわよくばあの愛星管理官に愛の稽古をつけてもらおうと下心満載な女の子達」
「そういえばいましたね。皆真っ青にしてましたよ」
「普段人好きのする笑み浮かべてるけどあいつも上に立つ人間だからね。友達の俺相手でも愛しの氷室相手でもこういう時は一切手を抜かないんだよ」
「あの気迫は確かに怖いですもんね」
「そ。それで淡い期待をした女の子達は早々に逃げちゃうの。んで改めて聞くけど、一緒にやる?滅茶苦茶厳しいよ?」
刑事ドラマに憧れて必死に勉強してやっとの思いで念願だった捜査一課に配属になったが、頭だけではどうにもならず佐々木をはじめいつも先輩方に迷惑をかけてばっかりだった。森尾の存在に気付いた愛星と氷室が静かにこちらを見ている。いつもなら何だかんだと理由を付けて逃げ出していたがあの2人を見てしまったらもう引き下がることは出来なかった。
「俺、やります!」
自分が憧れた刑事は頭も切れてアクションも凄くて捜査一課のエースと呼ばれた男だった。
憧れを憧れのままにしない。必ず超えてみせるんだ。
刑事として何かが変わった森尾の姿に愛星と氷室は満足そうに頷き、佐々木は涙ぐみ、早乙女は漢になってこいとその背中を押した。
森尾はこの日、歴戦の猛者達に100回は投げられ決断を早まったと後悔したという。
「本当にすみませんでした!」
「このくらい平気だ」
「だ、だって俺、氷室警部を傷物に・・・」
「傷物ってお前、誤解を招きそうないい方やめろ」
あれから時間を見て氷室警部達の自主訓練に参加するようになったはいいが一朝一夕で進歩するわけはなく、やっとマイナス評価からスタートラインにたったような感じになりつつある。うさぎとかめのかめのように体術に関しては吸収の遅い森尾であったが、そんな彼を誰一人として見捨てることはせず嫌な顔もせず根気強く教えてくれるのでその期待に応えねばと益々やる気に満ちていった。
そんなある日、事件が起きた。ガイシャは都内の大手商社に勤務する男で同じ会社で不倫相手の旦那にナイフで心臓を差されて殺された。即死だった。ガイシャは身長もあり体格もがっしりとしていたが被疑者はそれを上回る身長と体格を持っていて、その力でいとも簡単に心臓を貫いてみせたのだ。
さて、森尾が氷室相手に必死に謝っていることについてだが、逮捕時に被害者が自分の妻を人質にとり最後の抵抗を見せた。氷室、佐々木の機転で妻は無傷で保護されたがパニックになり身近にいた森尾に飛び掛かったのだ。この時の森尾はまさか反撃してくるとは思わず咄嗟の判断が出来ずに固まってしまっていて、それに気づいた氷室が庇い怪我を負った。腕を切られただけで大したことはなかったのだがあまりのショックで泣き出してしまい、そして今の状況に至る。
「切られたっていってもかすり傷だし仕事に支障はない。だからいい加減」
「俺!責任取ります!」
その言葉にフロア全体が一瞬静かになり、次の瞬間阿鼻叫喚の嵐となった。
「お、おま、何言ってるのか分かってるのか!?」
「責任ってお前、どう責任取るつもりだ!?」
「死ぬぞ森尾!」
「冷静になれ!」
正気に戻そうと躍起になる佐々木達には目もくれず、森尾は怪我をしていない反対の手を自分の両手でがっちりつかみ氷室を見つめ、責任発言から今の行動まで理解が追い付いていない氷室は滅多に見せない驚いた表情で森尾を見つめている。
「ひ、氷室警部!」
「あ、はい」
「お、おれ、責任取ってあ、あなたを・・・」
「何をなさっているのですか?森尾巡査部長」
その声を聞いた瞬間氷室と森尾以外の刑事達が一斉に出口に向かい、フロア内はあっという間に静かになった。
手を離し勢いよく姿勢を伸ばし振り向けば、いつもと変わらない人好きする笑みを浮かべた愛星の姿があり、その表情とは裏腹に全く笑っていない目を見た瞬間ひっ!と悲鳴を上げそうになった。
「あ、ああああ愛星かんい、かん!」
「そんなに動揺して、一体何があったんですか?」
「いえ、なんでもありましぇん!」
所々緊張で噛んでいる森尾をよそにまた一段と笑みを深めると今度は氷室に向き合い、彼女はそんな愛星にすぐに眉間にしわを寄せ胡乱な目で見つめる。
「聞きましたよ。怪我をされたそうですね」
「かすり傷だ。問題ない」
「かすり傷、ねぇ・・・」
「何だその反応。文句でもあるのか?」
「・・・いいえ。別に、何でもありませんよ」
いつもなら笑みを浮かべて小言を言うのに今日は珍しくちょっと不機嫌そうな表情を浮かべて自室へと戻ってしまい、その後ろ姿に首を傾げた。
その後は廊下で事の様子を伺っていた面々を鶴ではなく鬼の一声で連れ戻し仕事をさせて早々に帰宅するのであった。
早々に夕食と風呂を済ませてソファに座り、救急箱の中から包帯を取り出す。
事件後すぐに警視庁内にある医務室に寄ったのだが運悪く誰もいなかったため自分で処置をしたのだが、結び方があまかったのか家に着くころには解けてしまったのだ。
意外と不器用なところがあり処置に四苦八苦していたところで突然後ろから抱きすくめられ身を強張らせたが、その息遣いと不本意ながら嗅ぎなれてしまった匂いにため息をついて顔だけ後ろに向けた。
「不法侵入で訴えるよ、このセクハラ男」
「不法侵入とは言いがかりだな。ちゃんと合鍵で入った」
「・・・・・・渡した覚えないんだけど。勝手に作ったわね?」
「さあ?何のことだか」
ジト目で見るのもお構いなしに男はジャケットを脱ぎ氷室の隣に座ると、彼女に変わって手当てをし始めた。
ドアの開閉音すら立てずどこからともなく入ってくるこの男にはもう驚きもしない。初めのうちは不法侵入だ何だと騒ぎ立てたがいたずらっ子の様な笑みを浮かべて右から左に流す男にこちらが諦め、それに味を占めたのか家主がいないのに堂々と寛ぐ姿もあったりする。それがもう何年と続いている。
「はい、終わり」
「・・・ありがとう」
「ん」
不法侵入男こと愛星は今しがた手当てしたばかりの氷室の腕をそっと取り、その包帯の上から傷をなぞるようにゆっくりと唇を這わせていく。
突然の行動に氷室も止めようとするがかち合った愛星の視線に身体が動かなくなってしまい、愛星はただただ唇を這わせた。
この男と出会って30年近い付き合いになるが、警視庁内で行われるじゃれ合いという名のセクハラ行為の時とは違う別の感情が含まれた目には抗えずにいる。
———お前は、私の何なんだ?
そう何度も問いかけた。
キスをするわけでもない。セックスをするわけでもない。愛の告白を聞いたわけでもない。恋人でもましてや夫婦でもない。それなのにこの男はその瞳に熱を宿して隣に居続けるのだ。警察学校での宣戦布告事件からずっと、いや年を追うごとにその熱は温度を上げているのが分かる。
正直に言うとこの関係も嫌ではない。早乙女も含めていい歳した大人達が馬鹿やれるなんてそれこそ貴重だ。ただ同時に定年を迎えて女1人で生きていくとなった時、刑事としての生き方しか分からない自分が果たして残りの人生を歩んでいけるのかと思うと思考がぐちゃぐちゃになってしまう。
あの時何がこの男の火をつけてしまったのかは分からないが、これから先もずっとこの男はその熱を持ったまま傍にいてくれるのだろうか。
「お前、熱があるな」
「ねつ?」
「うん。吐き気とか寒気はないか?」
優しく心地のいい声がだるさを感じ始めた体を包み込む。
「小春?」
思考がぼんやりとする。
「あいほし」
「うん?」
「おね、い・・・ら———」
意識が落ちる瞬間、何かを口走り愛星が驚いたような表情を目にした気がする。
「・・・反則だろ」
熱で意識を失った氷室を抱き寄せ、愛星は情けない表情を隠す様に片手で顔を覆った。
自分以外が付けた傷に嫉妬し上書きするように唇を這わせていると彼女の体温がいつもより高いことに気付いた。負けん気が強く強気な彼女が熱に浮かされ徐々に弱々しく瞳を濡らし、その唇がほんの小さく動いて言葉を紡いだ。
”いなくならないで”
そう言葉にして意識を失った彼女にその表情が見えたかは分からないが、今の愛星は首まで真っ赤に染め上げこれでもかというぐらいどろっどろに甘い表情で彼女を見つめているのだ。悪友がこの現場をみればありったけの強い酒を持ってこいと叫び出しそうだが今はここにはいない。
熱のせいでメンタルが不安定になってしまったことから出た言葉に言われずとも離してやるものかとぎゅっと潰さないぎりぎりの力で抱きしめそしてベッドに運ぶ。
愛星は氷室の事を愛している。なんだったら今すぐにでも婚姻届を役所に出して恋人を通り越して夫婦になりたいし、この真っ白なシーツの海に彼女を組み敷いて子供を腹ませて家に縛り付けて二度と外の世界には出したくないとそう思うほどには愛している。
だがそれではダメなのだ。この女にそんなちっぽけな檻は似合わないしどうせ力ずくで出てくるのが目に見えている。
それにこの女が最も輝く場所は、警察官氷室小春として事件を追っている時なのだ。同じ警察官として負けないと宣戦布告したあの時からずっと彼女は輝き続けている。そんな光を自分の汚れた欲求で失わせてはならない。
「不安にさせてすまない。ただこれだけは信じてほしい。俺は、氷室小春を愛している」
そういって愛星は彼女の額にそっと誓いのキスをした。