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文学は芥川賞の事なのか?

 書評家の豊崎由美が炎上しているらしい。次のようなツイートがきっかけとなっている。

 

 【「芥川賞」で検索して、安堂ホセ氏への授賞に怒って「芥川賞なんてくだらない」みたいなことを投稿してる皆さん、安心して下さい、あなたがたは文学から選ばれてませんから。どうか、文学のない世界で頭の悪い愛国精神を発揮なさっていて下さい。

あと批判する際は読んでから、ね……あ、読めないか。】


 この件はその前に、安堂ホセという作家が芥川賞受賞した事が原因となっている。もっともそのあたりは面倒なので深掘りはしない。興味ある人は検索してもらえればよいと思う。

 

 豊崎由美に関しては年間読書人さんが擁護する文章を書いていたので(あ、そういう人なんだ)くらいの関心は持っていた。とはいえ、それ以上の事はよく知らない。

 

 豊崎由美はよく炎上するので、わかっていてわざと書いている気味もあるが、私はそのあたりには目をつむり、この文章においては簡単に豊崎由美のツイートの内容をきっかけに、文学とは何かについて考えてみよう。

 

 私が何を言いたいかと言うと、そもそも「文学とは芥川賞の事なのか?」という事だ。

 

 私が今の文学擁護派も、文学否定派にも、共に属する気になれないのは、たいてい彼らが文学=芥川賞という前提の元に話を進めているからだ。

 

 それは、哲学=東浩紀のような前提で話が進むのと似ている。哲学の話をしていたのに、いつの間にか東浩紀の話にすり替わり、それについて語る事が「哲学の話」をしている事になっている。(哲学ってもっと広くなかったか?)と私などは思う。

 

 豊崎由美のツイートも、芥川賞=文学と読めてしまう。豊崎由美はアンチを煽る為にわざとやっているのかもしれないが、私としてはその区別はある程度つけて欲しいと思う。

 

 しかし今の状況を考えると、文学とはどういうものか誰もわからず、極めてあやふやで、ぼんやりしたものなので、あやふやなものに「芥川賞」というレッテルを貼り付けて、「文学」が存在しているかのようにみせる。それが現在なのではないかとも思う。

 

 文学とは何か、という事をネットで検索してもあんまりろくな答えは見つからない。「文学って自由だよね」みたいなあやふやな事を言っている人が多い。一方で文学を否定する側も「ただの小説(エンターテインメント小説と同じ)なのに威張るな」と怒っている人が多い。彼らもまた文学はどういうものかわかっていない。わかっていないが、「小説の本質は面白さにある」と断じて、そこから「面白くない」文学を否定しにかかる。

 

 文学をやっている人も文学をやっていない人も、文学がどういうものなのかよくわかっていない。誰もわかっていない。ただ芥川賞というレッテルはあるので、とにかくも、そいつを貼り付けて文学があるかのようにみせかけている。

 

 要するに死体に無理やり服を着させ、サングラスと帽子を被せて、落語の「らくだ」みたいに無理やり踊らせて、生きているかのようにみせている。それが今の文学=芥川賞だと思う。

 

 ※

 それでは文学とは存在し得ないのだろうか。文学とはもう過去の遺物であり、これからはエンタメ作品だけが生き残っていくのだろうか。

 

 私自身はこうした事について疑問だったので、自分であれこれと本を読んで考えた。その結論は過去の文章で書いたので、興味のある人はそちらをみてもらいたい。

 

 (「「純文学とは何か」を考えてみる」「文学の本質」をギルガメシュ叙事詩で考える」あたりを読んでもらえればいいだろう)

 

 過去の文章の宣伝で話が終わっても仕方ないので、私なりの結論をここで繰り返す事にする。

 

 私は、文学とは「神との対比において人間を描いたもの」という風に定義している。

 

 こう言うと「神なんていない! そんなの迷信だ!」という人もいるだろう。ただ私の言っているのは、神という絶対者を想定するという事である。そういう存在を想定する事により、人間の相対性があらわになる。

 

 簡単に考えて欲しい。人間という存在の全貌を明らかにするには、その外側に別のなにものかを想定しなければならない。そうでなければ人間の全体は明らかにならない。人間が全てであれば、人間が何であるかを外側から見る視点が失われる。だから、人間の外側の絶対者を想像しなければならない。

 

 その絶対者が、万能・不死である神だ。あるいは神に類する観念である。

 

 この観念に到達し得ない存在として人間が描かれる。文学においては人間の「業」が深く描かれる。業を深く描く事によって、人間という存在がどういうものであるのかが明らかになる。

 

 また、文学は宗教的要素を含んでおり、そうした業を世界に対して明らかにする事によって、その業を祓う、祝聖するという機能も含んでいる。洗いざらい罪を告白する事に、どこか官能的な喜びがあるようなものだ。

 

 ※

 近代における優れた文学は何らかの形で宗教の要素を残していた。神の残滓は存在した。しかし今やそれは存在しない。

 

 人間が絶対者になってしまった。それ故に、文学は存在しない。簡単に言うとそんな事になる。

 

 私達のまわりを見回してみよう。どこに人間の限界を描いた作品があるだろうか。エンタメと文学の区別はほとんどつかない。どうしてだろうか。

 

 それは現代の作品のほとんどすべてが、人間の恣意・欲望・感情・行動を肯定したものだからだ。人間に対立するなにものも存在しない。

 

 だから今起こっている事は、一体どういう人達の欲望や行動が肯定されるべきかという、そうした闘争でしかない。その闘争の過程でリベラルやネトウヨといった人たちが闘っているのだ。

 

 エンタメ作品と、文学と呼ばれる作品が今や区別ができないのはそうした理由があると思う。人間の欲望を肯定し、それが成就する事が目指されている。

 

 確かに、優れたリベラル的な作品においては、間違った政治制度、社会制度故に苦しんでいる人が描かれる。ここに優れた文学性がある程度ある事はたしかだ。

 

 だが、これは近代の優れた文学よりも一段劣る作品であると私は思う。というのは、ここでは政治制度や社会制度が、過去の神に近いものと考えられており、それとの対比で一応は人間は描かれるものの、とはいえ政治制度や社会制度は人間集団の恣意によって変更可能なのだから、優れたリベラル作品もまた、結論としては政治的行動の正当化という以上の結論を持たない。

 

 私が望むのは人間が人間であるがゆえの悲劇である。悲劇が喜劇よりも偉大なのは、人間がその限界を突破しようとして、その相対性(神とは違う)があらわになるからである。

 

 しかし今の社会のように人間の恣意が全てである社会においては、せいぜいそれぞれの社会集団の愚痴や不満が部分的に描かれるにとどまる。そしてそれらの愚痴や不満が解消されれば、もう書く事はなくなってしまうのだ。

 

 ※

 整理してみよう。エンタメ作品は知っての通り、個人の欲望の成就が描かれる。低レベルになるほど、欲望の成就に至る障害は漸減する。

 

 エロ作品においては美女は裸で出てくる。女性向け作品では、イケメンがなんの脈絡もなく主人公のぱっとしない女子に言い寄ってくる。現実にある障害は省かれている。欲望の成就の形としては一番わかりやすい。

 

 障害が高まるにつれ、「文学性」もまた高まる。とはいえ、この障害はよくても政治制度、社会といった段階にとどまる。それらは人間の恣意によって変更可能なのものだ。

 

 これは次のようにも言い変えられるだろう。「人間は神となった。それ故に神との対比としての文学は不可能になった」。

 

 人間の恣意や欲望が全てなのだから、それが満たされない事が問題である。例えば格差の問題がある。これは確かに深刻な問題だが、それでは格差が解消され、貧しい人が豪邸に住み、楽しい生活がおくれるようになれば問題は解決するのだろうか?

 

 格差問題としては、そうだろう。本来的には文学の課題は、ここで解決したりはしない。しかしながら、現代の文学者と呼ばれている人達の多くは「その先」の問題が何であるか、ほとんど想像もできないだろう。

 

 真面目な彼らは社会の問題を真剣に訴える。それではその社会の問題が解決されれば、すべての問題は消えるのか。文学もまた社会・政治制度の課題にその全てが吸収されるのか。こうした疑問に今の文学者の多くはまともに答えてくれないだろう。

 

 ※

 こうした社会において謎となるのが、人の死である。村上春樹の小説を読んでみて、そこに死の問題への解決が書いてあるとみる人がいたとしたら、それは盲目であろうと思う。村上春樹はその問題を回避する。それ故に村上春樹は、彼の小説を優雅な足取りで統合できるのだ。

 

 根底的に言うと死への解決は宗教に頼るしかない。そこで、先に言っていた神の問題も出てくる。

 

 この問題はわかりにくいので、二つの作品を例に取って説明する事にしよう。

 

 一つはトルストイの「イワン・イリッチの死」。もう一つはミシェル・ウエルベックの「プラットフォーム」だ。前者を近代文学作品、後者を現代文学作品、と考える。

 

 「イワン・イリッチの死」も「プラットフォーム」も共に、主体の解体、主人公の死を描いた作品だ。「プラットフォーム」の語り手、「私」は死ぬ事はないが、最後には死を自覚して作品は終わる。全体的に言って、主体の解体、主体の死を描いた作品と言っていいだろう。

 

 二つの作品の違いをみてみよう。「イワン・イリッチの死」は平凡な役人が病気の末に死ぬという単純な話である。トルストイの偉大さがよく出ている中編小説だ。

 

 「イワン・イリッチの死」のラストにはわずかながら、宗教的な救いが現れる。トルストイの作品は最後には宗教的な救済が現れる。それは当時にはまだキリスト教の雰囲気が社会に残っていたからだ。

 

 一方で、現代作家のウエルベックには宗教的救いは一切現れない。それはまやかしである。それ故に「プラットフォーム」の主人公はただ虚無の死をみつめるだけである。死の向こうには何もない。ただ自分の死、自壊をみつめて、それ以上の何もみる事はできない。

 

 現代の我々において一番の問題は「死」だ。それ以上の問題はない。しかし我々は死の問題から逃避する。というのは我々は宗教を、神を世界から追放したからだ。健全な理性には、死はただ主体の解体でしかない。その後はゼロ。何もない。だから、そんなネガティブな事については考えたくない。考えるはやめよう。これが現在の姿勢である。

 

 政治や社会が健全化すれば死はなくなるのだろうか。老害が消えたり、差別がなくなったり、愛国に励んだり、富を持てば死はなくなるのだろうか。私達が死ぬ事にはなんの意味があるのだろうか。

 

 優れた文学作品は例外なくと言っていいほど、死を描く。それはただの死ではなく、主体の限界を表した死でなければならない。

 

 ウエルベックのような作家が描く人々とは、死が栄光あるものではなくなった現代人なのだろう。死は主体の限界ではなく、ただ主体の消滅なのである。

 

 私が言う神の観念とは、時間の存続という意味を多く含んでいる。死は断絶である。現代の人々にとっては。しかし、理想の為に死に、その死に何らかの意味があると信じている狂信者にとっては死は栄光である。二つの考えには大きな差異がある。

 

 現代の人々は自分が好きだ。自分が全てだ。だからその自分を肯定してくれる何かを探して、あっちこっちうろうろしているに過ぎない。その過程でエンタメが現れ、純文学が現れ、リベラルが、ネトウヨが現れてくる。

 

 しかしこの自分を殺す死が何であるのかは皆目検討もつかない。ウエルベックはそこをあえて覗いて、死の無意味さを晒す事にマゾヒスティックな快感を感じている。しかしこの努力は、逆から考えれば人間に何が足りないのかを示そうとしている、ともみえる。

 

 死の後には虚無しかない。我々はこの虚無に耐えられるだろうか。ウエルベックのような作家はそこにわずかに、現代において文学というものが存在しうる可能性を見出していると言ってもいい。

 

 ※

 話が長くなったが、私は昨今の芥川賞作品で上記のような文学の課題が追求されているとは思わない。

 

 最近の芥川賞はリベラル思想への配慮がみられる。外国人との文化的差異とか、障害者の問題とか。そのうちLGBT問題絡みの作品も受賞するかもしれない。

 

 私はそれだったら小説書くよりも政治活動したほうがいいんじゃないの、という気もする。書店の文学コーナーをみても、文学というのは高級なオブジェのように扱われている。(なんか意味わからないけど高級そうなので家に一つ置いておこう)といった具合である。批判者は(そんなの高いだけで何も良くない! 必要ない!)と怒鳴る。あるのはそうした対立である。

 

 文学は本来的に人間の業を描くものだ。しかし、業というのは、神といった絶対者との差異によってその存在が浮き彫りにされる。

 

 「人間を描くのが文学だ」というのは答えとしては正解ではあろうと思う。しかしそれだけで言えば、例えばある男がひたすら爪を切っているのを描くとか、全くくだらない生活の細々した細部を描くだけでも文学だという事にもなりかねない。


 (もっとも現代の状況なら「これこそ文学だ! これがわからない奴は馬鹿だ!」と叫ぶ逆張りの評論家が出てこないとも限らないが)

 

 偉大な近代の文学作品は何らかの形で宗教性を抱いていた。近代文学は欲望抑制を基礎とする封建社会と、個人の欲望を肯定する近代思想との激突によって生まれた。ただ全体の枠組みとしては封建社会の倫理観が採用されている。つまり、個人の欲望を追求するのは「悪」なのである。

 

 今は近代のような過渡期ではない。個人の欲望追求は「善」である。この欲望を肯定してしまえば、それと対立するものはあまりない。

 

 外国人差別の問題、格差の問題、女性差別の問題、障害者の問題。現代の慧眼な人々はそうした問題の山積を指摘するであろう。…それではこれらすべての問題を解決してしまおう、と仮に、全能の神が言い、実行するのであれば、全ての課題は本当に解決され、文学もまた完全にこの世から消えさるのだろうか。

 

 私としてはドストエフスキーのようなつむじ曲がりがいる限り、文学が消える事はなかろうと思っている。すなわちそれは「天国への切符を返上する」ような事だ。我々に必要なのは障害である。労苦である。苦痛である。死である。

 

 それは何故だろうか。我々は人間として生き、人間として死にたいからだ。それでは人間とはなんだろうか。

 

 人間とは神とは違い、不完全で、相対的な存在である。完全になろうとして不完全にしかなれなかった存在だ。そしてそういう存在を描くのが文学である。

 

 我々は我々の限界を知っている、と言う為には我々は我々の限界の外側を想像しなければならない。

 

 しかしその外側を想像する力は、理性によって抑えられている。それ故に、死は我々にとってただの虚無でしかない。だが、現代の文学と呼ばれている多くの作品は死の問題を回避し、生の肯定に走ろうとする。

 

 それ故に人間の卑小な部分が部分的に肯定されるにとどまる。私はそれは文学だとは思わない。文学とはギルガメシュ叙事詩がそうであったように、人間存在が神と分離し、死を自覚したところからはじまった。


 そういう観点から言うと、私は死の問題、人間の実存の問題を回避した作品に無理やり芥川賞という衣装を着せて、踊りを踊らせたとしても、それはやっぱりもう既に死んだ存在であろうと思う。



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同感です。 芥川賞はある頃から(気付かなかっただけで元々そういうものだったのかもしれませんが)特定イデオロギー宣伝コンクールの最優秀新人賞のような立ち位置になってしまいました。 ノーベル文学賞は…
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