8話
微動だにしなくなったフェルナンドを見て、エレノアは胸を撫で下ろした。
(これで、フェルナンド様も余計なことはしてこないでしょう)
彼の胸中は複雑な感情でいっぱいになっているが、自分と寄りを戻したいという気持ちは消沈したらしい。
(アーノルド様を侮辱したことはまだ許せないけどとりあえず今はアーノルド様だわ。私を心配してくれたのは嬉しいけど、濡れたまま出てくるなんて…)
嬉しさと心配の中に、少しは自分のことを気遣ってほしいという思いがムクムクと膨れ上がっていく。
けれど、それ以上に自分自身に嫌気が差して、エレノアは顔を伏せて、キュッと唇を噛んだ。
「エレノア?」
(エレノア様?どうなさったんだ?やっぱりこの男に嫌なことされたのか?くそっ!俺がエレノア様を一人にしたばっかりに…この男、やっぱり殴っておけばよかった!!いや、それよりもエレノア様を慰めなくては…ど、どうやって…!?)
アーノルドが困った顔をしながら、エレノアを覗き込もうとしてくる。彼の心の声はどこまでもいつも通りで、だからこそエレノアは胸が痛い。
「アーノルド様、早く部屋に戻りましょう。本当に風邪を引いてしまいます」
戸惑うアーノルドの腕を引いて、エレノアは客室に戻った。
「シャワーだけなんてダメですよ。ちゃんと温まってきてくださいね」
「わ、わかった」
シャワーだけを浴びて出てこようと考えているアーノルドに釘を刺すと、ギクリとしながらもアーノルドは頷いた。
アーノルドが浴室に入るのを見送って、エレノアはソファーに腰掛けた。
(流石に疲れたわ…)
張り詰めた緊張を解き、肩の力を抜く。
座り心地の良いソファーに沈み込み、瞼を閉じると、夜会での出来事が頭を巡っていった。
(今日は、アーノルド様に助けられてばかりだったわ)
アーノルドの助けになりたくて、夜会に参加したのに、結局、何の助けにもならなかった。
それどころか、自分の事情に彼を巻き込んでしまった。
(ナタリーにワインをかけられなければ、参加者と交流できたかもしらないのに)
アーノルドが社交界に馴染めるよう、必死に努力しているのを知っている。
今日の夜会も、参加者の名前や派閥、領土の特徴や趣味嗜好など、色んな情報を集めて、叩き込んで、徹底した対策を講じていたのだ。
そんな、アーノルドの努力をエレノアが無駄にしてしまった。
(私は、アーノルド様の力になるどころか彼の足を引っ張ってしまった)
あまりにも情けなくて、じわりと瞼が熱くなる。
涙が出そうになって、かぶりを振った時、コンコンとノックの音が鳴った。
「は、はい!どちら様ですか?」
驚きながら誰何すると、「バーナード侯爵様がおいでです」と、従者らしき声が聞こえた。
(ばーなーど?…バーナード侯爵!?)
驚きのあまり、涙も吹っ飛んでしまった。
急いで立ち上がり、軽くドレスの裾を直し、髪を整えて扉へ向かう。
慌てて扉を開けると、そこには、執事を連れたバーナード侯爵と侯爵夫人が立っていた。
(いっ、一体何のご用かしら?)
エレノアが訝しんでいると、バーナード侯爵が口を開いた。
「エレノア嬢、休んでいたところをすまない。今は君一人か?」
「ええ。アーノルド様は浴室に入っていて、今は私一人ですが…」
「そうか。なら、丁度良い。少し話をできないか?」
何故?と疑問を深めて、バーナード侯爵の意図を読もうとする。その心中は複雑に入り組んでいて、明確な心は読めない。しかし、こちらに害意を向けている感じではなく、エレノアは少し逡巡してから、バーナード侯爵を部屋に入れた。
暖炉の前に設置されているソファーの一つに座ってもらう。エレノアは向かいのソファーに腰掛けた。
品よくソファーに座るバーナード侯爵と侯爵夫人をチラリと伺う。
侯爵夫人は貴婦人らしいにこやかな笑みを堪えているが、バーナード侯爵は苦味の走った顔がさらに渋く見えるほど難しい顔をしている。
「……エレノア嬢、今日のことは本当にすまなかった。いや、今日だけではない。今までのことも全て…」
数泊の時を置いて、バーナード侯爵は頭を下げて謝罪を始めた。それに続いて、侯爵夫人も頭を下げる。
「あ、頭を上げてください!!もう、謝罪はいただきました。お二人が謝ることなんて何もありません!!」
本日二度目の謝罪にエレノアは慌てて、頭を上げるように懇願する。
二人はのろのろと顔を上げる。その沈痛な面持ちと、流れてくる罪悪感の重さにエレノアは息を呑んだ。
「いや、今日だけのことではないのだ。今まで、フレデリックが君に冷たく当たっていたことを知っていながら何もできなかったこと、君が家族にどんな扱いを受けていたのか知っていたのに、何も手助けできなかったこと…私達は罪深い。謝って済むことではないが、改めて謝罪をさせてくれ、本当にすまなかった」
そう言って、再び、バーナード侯爵が頭を下げる。バーナード侯爵夫人も「あなたが苦しんでいるのを知っていたのに、何の力にもなれなくてごめんなさい」と頭を下げてきた。
その姿にエレノアはしばらく呆けていた。まさか、自分のことを心配していた人がいたとは思ってもいなかったのだ。
(私のことなんて誰もが嫌っていて、思い遣ってくれる人なんていないと思っていた)
けれど、それは違った。多分、自分が気づかなかっただけで、この二人はずっとエレノアを想ってくれていたのだろう。
ただ、その声は他の人間が向けてくる負の感情に呑まれて、エレノアが知ることはなかった。
(でも、そうだったわ。私が火傷をする前はここに来るたびに二人は私を可愛がってくれていた)
本当の娘のように可愛がってくれた二人を思い出す。火傷が出来てから、二人に関わることも少なくなって忘れていた。
(今も私を想ってくれているなんて…)
温かな感情が少しずつ広がって、全身を巡っていく。
「お二人ともどうか頭を上げてください」
今度は焦りでも、申し訳なさでもなく、心から感謝をしたくてそう告げた。
顔を上げた二人をしっかり見据えて、エレノアは言葉を紡ぐ。
「私をそうやって想ってくれる人がいた…それだけで私はすごく嬉しいんです。ですから、どうかそんな風に頭を下げないでください。家族のことも、フレデリック様のことももう過ぎたことですから」
二人が大きく目を見張った。
「…強くなったんだなエレノア嬢。私達の方が慰められるとは」
目尻を柔らかく下げて、バーナード侯爵がそう言った。その言葉に侯爵夫人が頷く。
「ええ、本当に。エレノア様がここまで強くなっているとは思っていなかったわ」
気のせいか、そう微笑んだ侯爵夫人の目尻には涙が浮かんでいるように見えた。
目尻を軽く拭って、侯爵夫人が悪戯っぽく笑みを作った。
「エレノア様がそこまで強くなられたのも、彼のおかげかしら」
そう言って、ここにはいない夫がいる、浴室の方に目を向ける。
「そ、それは…」
気恥ずかしくて、エレノアが頬を赤らめて小さくなる。二人はそれを微笑ましく見つめた。
「ふふっ。彼、すごくあなたのことを大切にしているのね。ただの爵位目当ての結婚ならどうしてやろうかと思ったのだけれどそんな心配はいらなかったみたい」
「ああ。咄嗟に愛する女性を庇えて、私のことも睨みつける気概のある青年だ。あの若さでここまで名を上げているのも納得だ」
にこやかに侯爵夫婦はアーノルドのことを好評する。それが嬉しくて、エレノアは「そう!そうなんです!」と勢いよく同意した。
「アーノルド様は本当にお優しくて、格好良くて、仕事にも熱心で立派な方なんです!!」
ずいっと身を乗り出して、訴えるエレノアに二人は目を丸くした。
少し身をのけぞった二人をよそに、エレノアはアーノルドの魅力について語り始める。
その姿に耐えきれないと侯爵夫人が笑い声を漏らした。
「ふ、ふふっ!!本当に旦那様のことが好きなのね」
「あ……」
ひっきしなしに喋り続けたエレノアはそこで、ぴたりと固まって、じわじわと顔を紅色に染めた。
「本当に仲睦まじいんだな」
「ええ、本当に。…貴方が幸せになれてよかったわ。…いつか貴方にお母さんと呼ばれるのを楽しみにしていたから少し寂しいけど、本当に素敵な人と巡り会えたのね」
「侯爵夫人…」
優しく自分を見つめてくる義母になったかもしれない人を見つめ返す。
もう、そんな未来はありえないのだけれど、彼女を義母として慕う、そんな未来もあったのかとしれない。そう思うと何ともいえない気持ちになった。
「そうだ。エレノア嬢、何か私たちに頼みたいことはないか?今までの謝罪とお礼だ。君が困っているのならバーナード家の名にかけていつでも手を貸そう」
「頼みたいこと…」
そう言われて、エレノアは指を顎に当てて考え込む。
そして、あるものを持ってきたことを思い出し、パーティバッグから取り出した。
「よ、よろしければこちらをバーナード侯爵夫人に使用していただければと思いまして…」
おずおずとエレノアが差し出したのは、瀟洒な小瓶だった。
「これは?」
小瓶を手に取り、しげしげと目を走らせる侯爵夫人にエレノアは口を開く。
「こ、これはクレイジャー商会の化粧水です。最近、開発したばかりのもので市場にはまだ出回っていないのですが、これはお試しようです。私も使っているのですがサラッとした使い心地なのに保湿力がすごくて、翌日の化粧ノリが他のものと比べても段違いなんです。実際に使ってみますか?」
エレノアの売り込み口上に侯爵夫人は「へぇ」と化粧水が気になったようだ。
すかさず侯爵夫人の手の甲に化粧水を数滴垂らして、塗り広げた後、押し込んでもらう。
「あら、本当にもちもちしている。使い心地も軽過ぎず、重た過ぎずちょうどよい感じね」
「そっそうなんです!」
侯爵夫人の反応にエレノアは好感触を感じた。続いて、驚いたまま固まっているバーナード侯爵を標的とし、彼にも化粧水を勧める。
「男の人も髭を剃ったりするときに、剃り負けしたり、乾燥で肌が荒れたりするでしょう?今は、男の人でも化粧をして、身なりを整えることが必要だと思うんです」
「そうだろうか…」
男が化粧水ということに抵抗があるのかもしれない。芳しくない反応のバーナード侯爵に侯爵夫人が囁いた。
「あら、男の人でも肌の綺麗さは大切よ。貴方が触り心地のよい肌をして、身なりを整えてくれるのなら、私としても嬉しいわ」
「むっ…そ、そうか」
妻にそう言われてしまえば、無碍にできないのだろう。バーナード侯爵も化粧水を手に取り始めた。
「確かにこれはつけ心地が良いな。べったりせずサラサラしている。保湿力も充分だ。」
「でしょう?ねぇ、貴方も使ってみたら?お肌がスベスベの貴方はより一層素敵だと思うの」
その言葉でバーナード侯爵は陥落したらしい。
「喜んで使わせていただこう。支払いはいくらだ?」
「はっ、はいっ!ありがとうございます!お試しなのでお支払いは大丈夫です」
「ねぇ、エレノアちゃん。友人にも勧めようと思うの。お試しの分もう少し頂けるかしら」
「…! もちろんです!」
いそいそとバッグから、化粧水の入った小瓶を持ってきている分だけ取り出す。
それを侯爵夫人に渡した。
(よかった!!侯爵夫人に化粧水を勧めることができたわ!!このまま侯爵夫人が気に入ってくだされば、ご婦人達にも広がっていくはず…!アーノルド様のお役に立つことができたわ!)
その場で飛び跳ねてしまいそうなほど嬉しくて、エレノアは胸の前で小さくガッツポーズをする。口角が上がるのが抑えきれずニヤニヤしてしまう。
「エレノアちゃんはもう充分に立派な商人の…いえ、アーノルド・グレイジャーの妻として立派ね。私が心配することはなさそうだわ」
「ああ、正直驚いた。まさか、エレノア嬢がここまで強かになるとは。夫の身を立てようとする妻としてここまで成長しているとはな。立派なことだ」
「……! はい。お言葉ありがとうございます」
侯爵夫婦の言葉に、エレノアは胸を張って微笑んだ。