6話
貴族の館らしい華美な客室には、客人が休憩できるようにソファーやベッドなどの調度品が備え付けられていた。浴室も完備されており、今は湯沸かしの最中だ。
湯沸かしまでの時間、二人は部屋の一番奥に位置する暖炉の前のソファーに腰掛けた。暖炉の中で炎がパチパチと爆ぜて、熱気が冷えた身体を温めてくれる。
そんな、夜会の喧騒から遠のいた静かな空間でアーノルドは濡れた身体が蒸発してしまいそうな出来事に襲われていた。
「え、エレノア……じ、自分で拭くから…」
「駄目です。私を庇ってアーノルド様は濡れてしまったのですから、私はアーノルド様が風邪をひかないように予防する義務がございます。私に拭かせてください」
アーノルドが蒸発しそうな理由ーーそれは、使用人からタオルを受け取ったエレノアがアーノルドの身体を拭こうとするからだ。
ソファーに座った途端、自分の身体を拭いてきたエレノアにアーノルドは動揺を隠せない。普段は商人としてのポーカーフェイスを保っているが、今は見事に崩れ去っている。
(こ、これはどういうことだ!?もう風邪を引いてしまった俺の夢か!?いや、落ち着け俺!!こういう時は頬を摘むんだ!!……痛い…ってことは現実!?え?エッ!?エレノア様が近い!?近すぎるー!?!?これが噂のガチ恋距離というやつか!?刺激が強すぎる!!!)
夢ではないと確認したアーノルドは見事に狼狽えていた。そうしている間にもグイグイとエレノアが距離を詰めて、柔らかなタオルでアーノルドの濡れた髪や肌を拭おうとしてくる。間近に迫ったエレノアの美貌や清廉で花のような良い匂い。暴力的なまでのエレノア成分にアーノルドは風邪を引かずとも熱が出そうだった。
(エレノア様がさらに近く!?あばばばばば……エレノア様の睫毛が数えられる距離だぞ!?!?エレノア様、睫毛すごく長いなぁ…睫毛の先まで美しい……それに花のようないい匂いも……って馬鹿!!こんな時に何を考えている!!煩悩退散!!煩悩退散!!!)
悶え死にそうになっているアーノルドの思考は、必死なエレノアの耳には届いていなかった。
(アーノルド様は私を庇って濡れてしまった。私が責任を持って拭かなくては……!!)
使命感に燃えるエレノアと幸福と混乱の狭間で息も耐えたえなアーノルド。そんな二人の間を割るように、ノックの音が響いた。
ハッと我に返り、「どうぞ」とアーノルドが返答する。浴室の方から、使用人が顔を出し、湯殿の用意が整ったことを伝えてきた。
淀みない滑らかな動作で使用人が退室し、室内に沈黙が流れる。
浴室とは壁を一枚隔てているが、壁自体は薄い。顔にこそ出ていなかったが、自分達のやり取りは浴室まで聞こえていたのだろう。
(わ、私…な、なんて大胆なことをしてしまったの……!!アーノルド様にはしたない女だと思われたに違いないわ!!)
今更になって自分の行動を客観的に振り返り、エレノアは首まで真っ赤になった。あまりの羞恥心に頭を抱えたくなるような衝動に駆られる。
(エレノア様?どうなさったんだ?顔が真っ赤だが、部屋が暑すぎたのか?薪の量を調整するか。)
こんな時でも、アーノルドは自分を気遣ってくれる。だからこそ、余計に気恥ずかしくて、自分ばかり意識しているみたいで落ち着かない。
「わ、私、お手洗いに行ってまいります!!アーノルド様はどうかゆっくりと温まってくださいませ!!」
「え、エレノア!?」
エレノアは勢いよく立ち上がり、驚くアーノルドを振り切って、部屋を後にした。
「ううぅ…咄嗟にいい理由が出てこなくてお手洗いを理由にしてしまったわ。化粧直しって言えばよかった。下品な女だと思われないかしら」
ピカピカに磨き上げられた、大理石の手洗い場に佇んで、エレノアはひとりごちた。
エレノアは一応、言い訳に使った手洗い場まで来ていた。それにしても、もっと良い理由が思いつかなかったのかと、あまりの失態に後悔が押し寄せる。
ただでさえ、はしたない行動をした後なのに、呆れられているかもしれない。
気が重くなり、ため息が漏れそうになる。
(ううっ…部屋に戻りにくいわ)
しかし、お手洗いを理由に部屋から出て、結構時間が経っている。
そろそろ戻らなくては心配をかけてしまう。
エレノアは気の重いまま手洗い場を出て、赤い絨毯が敷かれた廊下を歩き出した。
「エレノア!!」
歩き出して、幾許かしないうちに背後から声がかけられた。
聞き覚えのあるその声に、エレノアの身体がギクリと強張る。
嫌な予感を覚えながら、振り返るとそこには、予想通りの人物が立っていた。
「フェルナンド様…」