4話
それから、エレノアは現実に戻ってきたアーノルドに自分も夜会に参加する旨を再び伝えた。
アーノルドはあまり良い顔はしなかったが、エレノアの覚悟を感じたのだろう。しぶしぶながらも頷いてくれた。
そして、夜会当日。
その日は朝から夜会の支度でバタバタしていた。
(ついにこの日が来たのね…)
エレノアは内心で独り言ちながら、侍女の手を借りて身支度を進めていた。
せっせっとドレスの着付けをしてくれる侍女達はエレノア以上に夜会に対して気合いが入っている。
エレノアは一週間ほど前から、ドレス選びやマナー講座、社交ダンスの練習や美容ケアを受けていた。
夜会の参加に、ここまで準備をしたことがなかったので、エレノアには新鮮で目まぐるしい日々だった。
(夜会に参加したことなんて、片手で数えられるくらいだもの。アーノルド様に恥をかかせないかしら…)
伯爵令嬢として淑女教育は受けてきたが、社交界の経験は少ないため、不安が胸を掠める。
(いえ、私はアーノルド様のお役に立つために夜会に参加するのよ!頑張らなくちゃ!)
内心で喝を入れていると、ドレスの着付けが終わった。次は化粧だと、鏡台の前に座らされる。
鏡に頬のあたりまで引き攣った傷跡を持つ自分が映る。それを見た瞬間、冷水をかけられたように、夜会に対する意気込みが消沈していった。
(こんな私が、アーノルド様と一緒に並んでいいの…?)
鏡は苦手だ。鏡を見るたびに醜い自分を見ることになるから。自分が醜いと自覚せざるを得ないから。
(私と一緒にいて、アーノルド様まで悪く言われたら…)
自分が醜いと罵られるのは耐えられる。けれど、自分のせいでアーノルドが馬鹿にされるのは耐えられない。
どんどん悪い考えが頭を過って、鏡に映ったエレノアの顔が青ざめる。
そんな時、化粧の準備をしていた侍女がムニっとエレノアの頬を触ってきた。傷跡の残る頬を躊躇いなく触られて、エレノアは目を瞬かせる。
「顔の血色と小顔のためにマッサージをしていきますね。まあ、エレノア様はすでに小顔ですが念には念を入れておきましょう」
そう言って、クリームを塗り込みながら、顔を揉みほぐしてくる。それが彼女達の仕事だと理解していても、躊躇なく醜い傷跡に触れられて、エレノアは狼狽する。侍女が不快に思っていないか心を読むが彼女はマッサージに必死で、エレノアに触ることを嫌がっていなかった。
「私に触るのが嫌ではないの?」
思わずそう聞いてしまった。侍女は一瞬、目を丸くしたが、直ぐに微笑んだ。
「どうしてエレノア様に触るのが嫌だなんて思うんですか?エレノア様は私達にとても優しくしてくださっていて、旦那様のために頑張っておられる方なのに」
優しい言葉にじわりと胸が熱くなる。しかし、傷つけられ続けたエレノアの心は「けれど」と声を上げる。
「でも…私の傷跡は醜いでしょう?」
傷跡が出来てから、エレノアに触れようとするものはいなかった。両親でさえ、醜い傷跡を忌避した。アーノルドという例外はいても、エレノアの傷跡を見たら、普通の人は醜いと不快に思う。それが今まで当たり前のことだった。
「……エレノア様の傷跡は醜いものではありません。騎士の傷跡のように誇り高いものだと思います。それに、傷跡というのも個性だと思いませんか?そして、そんな個性を引き立たせたり、彩るために化粧はあるのです」
(どうしてそんな風に思ってくれるの…どうしてこの屋敷の人は皆優しいの…)
夜会の準備中だというのに、涙腺が緩み始める。ここに来てから、エレノアは涙を零してばかりだ。涙なんて、とうの昔に枯れ果てたと思っていたのに。
「ほら、エレノア様顔をあげてください!私、元々舞台化粧をしていたので腕には自信あるんです。ドンっとお任せてください!」
俯いたエレノアの顔を上に向けて、侍女が化粧を進めていく。流れるような動きに見惚れている間に化粧は終わり、髪型へと取り掛かっていった。
アーノルドは居間でエレノアを待ちながら、落ち着きなく部屋の中をウロウロしていた。
支度を終えたアーノルドはいつもは下ろしている黒髪を整髪料でまとめて、上品な光沢感のある黒い生地に銀糸の刺繍が織り込まれている背広姿に着替えている。
(エレノア様…大丈夫だろうか。無理はなさっていないだろうか…うぅ…心配だ……)
アーノルドがエレノアに再開した夜会では、エレノアは周囲の人間の心無い嘲りに傷ついていた。傷跡を持つエレノアにとって社交界は居心地が悪いだろう 。
(あのクソども……エレノア様を笑いやがって……今思い出しても腹立つ…!!)
あの時、傷ついたエレノアを放っておけなくて、つい身体が動いてしまった。ほとんど無意識で動いていたため、我に返ったときには恐れ多さと好きな人と結婚できる喜びと色んな感情が入り交じり、動揺のあまり失神してしまったことは記憶に新しい。
アーノルドはエレノアに妻になって欲しいから求婚したのではない。勿論、夫婦として愛し合うことが出来たら、天に昇る心地になるだろうが、自分にはそんな資格はない。ただ、エレノアを守るためだ。家ではいないものとして扱われ、婚約者に蔑ろにされ、傷ついたエレノアを助けたかった。かつての恩返しをしたかった。真綿の中のような傷つかない場所にいて欲しかった。だから、彼女に愛する人が出来たら離婚するつもりだった。
(それなのに…エレノア様があんなことを言ってくるなんて……)
真っ直ぐに自分を見据えて、とんでもないことを言ってきたエレノアを思い出す。まさか、エレノアが自分の妻としてあんなに覚悟をしていたと思ってもいなかった。
それに罪悪感を抱きながらも、喜びを抑えられない。
(最初はエレノア様に好きな人が出来たら別れるつもりだったのに……)
「あんなことを言われたら手放せなくなってしまうじゃないか……」
熱の篭った声が漏れたその時、居間の扉が開く。
ハッと扉に目を向けると、予想通り、侍女を連れたエレノアが部屋に入ってきた。
侍女に先導されたエレノアがアーノルドの元へ歩み寄る。その姿を一目見て、アーノルドの五感全てがエレノアに奪われた。
エレノアが身に付けているドレスはプリンセスラインのものだ。ラベンダー色の生地には小花柄の刺繍が縫われている。スカート部分にはシアー感のあるレースが折り重なっており、精緻で華やかなドレスはエレノアに良く似合っていた。編み込められた金糸の髪は花を象るように結えられており、髪飾りや宝飾品は同系統の色やエレノアの美貌を引き立たせるもので纏められていた。
まさに美の化身という姿。誰もがエレノアに見惚れるだろう。しかし、アーノルドはそれ以上にエレノアの傷跡が化粧で隠れていること。それに目が奪われた。
傷跡のないエレノアーーそれは、アーノルドがかつて出会った時のエレノアの姿だったからだ。
傷跡があろうとなかろうとエレノアの美しさが変わることは無い。それでも、あの頃のエレノアをそのまま成長させたような姿にアーノルドは言葉を失った。
「アーノルド様?大丈夫ですか?」
固まったアーノルドを前にエレノアは戸惑う。
侍女の手によって、エレノアは見違えるほど美しくなった。鏡を前にして、鏡に写っている女性が本当に自分自身なのかと疑うほど、煌びやかな自分の姿に驚いた。醜い傷跡も化粧によって綺麗に隠されて、まるで魔法のようだと侍女の腕に感服したものだ。
(もしかして、アーノルド様はこの姿を気に入らなかったのかしら…)
微動だにしないアーノルドの心の声は聞こえない。それが余計に不安を掻き立てる。
「アーノルド様……あの……」
おずおずと声をかけると、アーノルドが我に返った。
「ボーッとしてすまない。ただ、君に見惚れていたんだ」
(うわぁぁぁぁ!!!!エレノア様お美しい!!!いつもお美しいけど、今日はいつもに増して美しい!!!夜会の準備頑張ってきて良かった……まさか、あの頃のエレノア様が見れるなんて……)
その心の声を聞いて安心するのと同時に違和感を覚える。
(あの頃の私……?私とアーノルド様が出会ったのはあの夜会が始めてなのに…)
騒がしい内心をおくびにも出さないアーノルドを見つめながら、エレノアは記憶を掘り返す。
しかし、どれだけ過去を辿っても、アーノルドのような少年と出会った記憶はなかった。
「そろそろ夜会の時間です。出発した方がよろしいかと」
執事が声をかけてきて、エレノアの意識が過去から今に戻ってくる。
「そうだな。そろそろ行くか」
そう言って、アーノルドはエレノアに手を差し出してきた。その手に自分の手を重ねると、一歩、一歩、ゆったりとアーノルドが歩き始める。エレノアより大きくて、骨ばった男の人の手。その手の温もりにエレノアはどうしようもなく安堵してしまう。
(昔のことは分からないけど、アーノルド様が隣にいる。今はそれだけで充分)
アーノルドの手を少し強く握ると、握り返してくれる。そんな些細なことが嬉しくて、胸が高鳴る。アーノルドの手に勇気を貰いながら、エレノアは夜会に向かうのだった。