第十五話 あの夜の出来事(井ノ上と娘の結美、伊藤誠の悲劇)
駅前のケンカ騒ぎが起きていた時間、1人の女性が駅のそばにある立体駐車場で性的暴行を受けた。場所が裏通りであり、人が少なかったため、女性の叫びは届かなかった。その後、女性は転落。駅前の騒ぎを止めるために向かっていた警察官に発見された。犯人の佐藤はその場で逮捕。すぐに救急に電話がかけられた。その女性は井ノ上の娘の遠藤結美だった。
井ノ上の病院に消防から連絡が入った。病院には急性アルコール中毒の患者が何人か送られてきていた。井ノ上は「二人なら受け入れられる。」と伝えた。
駅前に救急車が到着。谷中と酔っ払いを乗せた。
「二名です。二人とも意識がありません。」
「わかった。こちらに運んでください。」
井ノ上の病院にはこの救急車が向かうことになった。
同じ頃、結美のところに救急車が来た。乗っていたのは救急隊員の伊藤誠だった。その時点ではまだ結美は息をしていた。
「近くの病院は?」
「だめです。別の救急車が向かっていてベッドの確保の保証がありません。」
「じゃあ、その次に近いところは?」
「そこなら大丈夫です。」
「じゃあそこだ!急いで!」
救急車は現場から大通りへ向かう道を進んだ。しかし、その直後、目を疑う光景があった。大通りは交差点の方向へ大渋滞だ。しかも車間が狭すぎて救急車が進入できない。原因は駅前の事件のせいで交通整理の警察官が持ち場を離れてしまったこと。さらに大量の野次馬が信号を無視してぞろぞろと移動したせいだった。
「救急車が通ります!道を開けてください!」
いくらアナウンスしても車が移動する気配はない。車の運転手たちはそれぞれが道を譲ろうとはしているが、車間が狭すぎて動くこともできない。
「ダメだ!引き返して別の道だ!」
伊藤の指示で救急車は方向転換。裏路地を走り病院の方向へ曲がった。しかし、ここにも人の群れがあった。メイン通りの延長線だったため野次馬が信号無視して駆け抜けていく。
「救急車が通ります!」
すると人だかりが救急車を塞いだ。
「あっちで人が倒れているらしいぞ!」
「何で向こうに行かないんだ?」
酔っ払いたちは口々に叫ぶ。どうやら向こうの事件で呼ばれた救急車と勘違いしているらしい。
「そっちには別の救急車が向かっています!道を開けてくださいは!」
伊藤が叫ぶがなかなか道を開けてくれない。
「向こうには救急車来たって!」
誰かが叫び状況を理解した酔っ払いたちはようやく道を開けてくれた。救急車は急いで病院に向かった。しかし、結美の状態はどんどん悪化。脈拍も落ちていった。
「もう少しです!もう少しで…、」
伊藤は祈るように声をかけ続けた。しかし、やっと病院にたどり着いたときには結美の呼吸は止まっていた。病院内に運ばれていく結美を伊藤は呆然と見送った。
「伊藤さん、次の救急要請が!」
別の隊員の声に伊藤は我に返った。
「わかった。すぐ行く。」
伊藤たちを乗せて救急車は夜の町へ走っていった。
「な、何でだ?何で…、何で…、」
井ノ上が結美の遺体の前に立ったのは日付が変わった頃だった。携帯に別の病院から着信があり、かけ直して事実を知った井ノ上は、他の医師に事情を説明し急いで病院に向かった。しかしたどり着いたとき、結美は冷たくなっていた。
「何があったんだ?教えてくれ!」
井ノ上が叫んだ相手は救急隊員の伊藤だった。伊藤もあの後仕事を別の人に代わってもらい病院に来ていた。伊藤は井ノ上に状況を説明した。
「僕も助けたかった。まだ、息があったんです。あの騒ぎさえなければ…、酔っ払いが邪魔さえしなければ…。」
伊藤はそう叫んで泣き崩れた。目の前で救えたはずの命が失われていくのを目の当たりにした。しかも、仕方ないと諦められるには程遠い状況だった。
「何で…、何で私のところに運ばれなかった…。何で、私は家族を、愛する人を助けられないんだ!私は、私は…。」
井ノ上もまた、その場で泣き崩れた。最後の家族を失った。しかも、自分の病院に運ばれたのが、その事件を起こした酔っ払いだった。
「私は…、もう医師でいたくない…。」
井ノ上は数日後、辞表を提出した。




