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file1-Assault record of 2018

メビウス戦争初期の記述です。

本文中は2018年における各国の情勢についてを扱っています。

・メビウス戦争の開始


 2018年3月11日、アフリカ奥地にてPKO活動中であった国連の部隊が、出所不明の戦車部隊を確認したという通告を残し消息を絶った。一般にはこれがメビウスとの初めての接触であると言われているが、7日にもPKO活動中であった部隊が本部に「戦車部隊を確認」という報告を残していることから、こちらをメビウスとの初めての接触であるとする説もある(※1)。

 どちらにしても、3月中旬、メビウスはアフリカにて軍事行動を開始したのは明らかである。戦車などを中核とした機械戦闘部隊であるメビウスは、同月下旬にはアフリカの中央諸国を席巻。航空攻撃と戦車師団による連携攻撃─電撃戦により、軍事力に劣る中央諸国の軍団は溶けるように壊滅していった(※2)。

 状況を静観していた先進国は、その脅威を認知し、直ちに国連安全保障理事会を開催。会議は一ヶ月の長きに渡り、その間にアフリカ南部諸国も事実上壊滅する。

 多数の難民が発生したものの、あまりにも展開が急速に進展していくため、難民受け入れ体制が整っていなかった先進諸国は難民受け入れを一時拒否。

 国際的非難を浴びる中、先進諸国はこの敵性機械戦闘部隊を「メビウス」と呼称することを決議(※3)。同時に「国連メビウス問題対策パネル」を設置し、先進諸国間の利害を調整しながら、アフリカへと軍団が送り込まれることになる。


 5月7日、メビウスの大規模集団が北進を開始。アフリカ南部を偵察したアメリカ第3空軍所属機からの「少なくとも五個戦車師団規模」との報告を受け、在欧アメリカ軍およびヨーロッパの各国の軍団が移動を開始。

 5月22日、エジプトのカイロにて市街戦が行われた。メビウスの大規模戦力に対してエジプト軍は従来の火力集中戦法を取ったものの、敵の機甲戦力に全くダメージを与えることができず、エジプト軍は市民を見捨てる形で撤退。メビウスは市民の虐殺を行ったが、これによりエジプト軍への非難が集まった。


 6月7日、ナイル川沿いに進撃していくメビウス機甲師団に対して、アメリカの派遣軍団およびヨーロッパ各国軍の合同戦力が防衛に当たる(ナイル川沿いの戦い)。

 この戦いにて、アメリカ軍は戦車13両、航空機42機を初めとして、2400名近くの損害を出し撤退。その場に踏みとどまり見捨てられる形となったヨーロッパ諸国からの派遣軍団はほとんど壊滅し、5000余名が戦死した(※4)。


 その戦闘記録アサルトレコードから、メビウスには通常火器による攻撃が殆ど通らないことが判明すると、国連メビウス問題対策パネルでの議論は紛糾した。

 アメリカ軍への非難が集まる中、アメリカ代表は即時核攻撃を提案。それに対して五大国の一つであった中国は拒否権を行使。代案として中国は自国軍の派遣軍への参加を求め、派遣軍団全軍の指揮権を要求した。これをアメリカ代表は不服として拒否権を発動。

 時間を空費している間にもメビウスの進撃は続き、6月19日にはナイル川最下流域であるアレクサンドリアにて戦闘が勃発。立て籠もるエジプト軍を鎧袖一触し、アレクサンドリアは完全に破壊された。


 アフリカ連合は難民受け入れを重ね重ね要求し、難民の一部は徒歩でジブラルタル海峡やスエズ運河を渡った。その規模を見た各国は、難民受け入れを完全に拒否。

 バリケードなどを構築して難民の波に対応するなどの動きが見られる中、メビウスはお構い無しに進撃を続け、6月末にはサハラ砂漠を第二波が通過。


 その規模は実に三十個師団規模にも及び、アメリカは国連決議第5210号を、総会「平和のための結集」にて採択。エジプトへの核攻撃を断行した。

 メビウス五個師団が籠もるエジプトへの核攻撃の結果は、攻撃日であった7月9日中に判明し、一切の打撃がないことが確認された。


 これにより、国連は阿鼻叫喚の地獄と化し、いかなる軍事攻撃も意味をなさないことが判明した段階で、アフリカから最も遠い中国などへと国際的資本家が逃走した。


 アメリカ軍およびヨーロッパ諸国軍は、ジブラルタル海峡を封鎖。メビウスの攻勢集団の防衛に回ったが、7月21日、第一波が到着しジブラルタル海峡への攻撃を仕掛けると、瞬く間に防衛軍団は壊滅(※5)。スペインの対岸への渡河上陸を果たした第一波は、8月中旬までに同国南部を完全に制圧する。

 NATO諸国はエブロ河に防衛ラインを引き、主要都市であるサラゴサに戦力を集中した。電撃戦を続けるメビウス第一波の先頭集団は、8月27日にサラゴサへと到着。二個戦車師団に対してNATO軍は十個戦車師団、二個機械歩兵師団、一個航空軍団を投入した(サラゴサの戦い)。

 市街戦に持ち込んだ上で十字砲火を形成したNATO軍は、核地雷を用い、かろうじて戦車三両を撃破したにとどまり、代わりに八個戦車師団を失い、9月1日に撤退に移った。

 メビウスによる追撃は激烈であり、撤退戦の最中でさらに一個戦車師団と、機械歩兵師団のほぼすべてを失った(サラゴサ撤退戦※6)。


 エブロ河の防衛戦略が崩壊したことにより、NATO軍はフランスでの防衛戦を決断。サラゴサの戦いの教訓から、徹底的な火力集中により敵戦力を撃破可能だと知ったNATO司令本部は、塹壕を形成。

 しかし、セーヌ川までを縦深とした防衛戦略はフランス政府の強硬な反対を受け、結果、戦力の集中も塹壕の形成も中途半端に終わった。


 9月19日、メビウスの第二波がジブラルタル海峡を通過。イギリス艦隊による阻止攻撃も虚しく失敗に終わり、メビウス十二個師団が上陸を果たした。

 この時点でポルトガル政府は亡命を決断、9月20日にイギリスに亡命政府を置いた。しかし、この時点で各国はどのような事態が起きても難民の受け入れは行わないという姿勢を決め込んでおり、現地に残るポルトガル国民からは「自分たちだけ安全なところに逃げた卑怯者」と罵られることとなった。


 10月5日、スペイン北部に残っていたスペイン国防軍の最後の残存部隊がサンタンデル市にて壊滅し、スペイン政府は首府をラコールへと移した。

 10月20日にはポルトガルが陥落し、スペインの残存領域はラコール周辺にまで縮小した。メビウスの大規模進行に対してスペイン政府は救援を要請したものの、「防衛戦略上の都合」から救援を拒否。10月24日に行われたラコール攻防戦によりスペイン政府は消滅した(※7ラコールの戦い)。


 11月7日、スペイン国境から避難するスペイン国民に対して、フランス政府は独断で発砲を許可。それに従いフランス軍は難民集団に実弾で発砲した(※8アラヌエ近辺での難民殺害事件)。死者、重傷者だけで六千人に及んだこの事件に対して、国連は追及することさえ無かった。

 これにより、メビウスの攻撃を受けていたエジプト、イスラエル等の諸国は、「自国民の保護」のために隣国への侵攻を開始する(※9メビウス戦争初期における交戦諸国の侵略行為)。

 この時点で国連は機能を喪失したため、代わりに国連メビウス問題対策パネルと国連安保理が常時開催されることとなる。


 11月16日、メビウスの大集団がフランス国境線を突破。同地に駐留していたフランス軍は戦力を瞬く間に減耗し、18日までに前線は国境線から北側へと移った。(※10フランス国境線の戦い)


 11月24日、メビウスの最先鋒集団がセーヌ川へと到達。あまりの迅速な攻撃により、不十分な塹壕線での戦闘を余儀なくされたNATO軍は、同日中にセーヌ川防衛線を放棄。

 この時、メビウス側には補給線が必要ないことが判明し、これによりNATO軍の第二次戦略が崩壊した。NATO軍はドイツへの撤退を決断したが、フランスの強硬な反対を受けて、一部兵団を残さざるを得なかった。


 11月下旬時点で、メビウスは中東の過半を席巻した。有数の石油地帯を失う形となったため、アメリカはNATO軍を中東方面へと転戦させることを要求した。

 再三の反対を押し切り、NATO軍の主力は中東へと転戦することとなったが、これにより12月中旬までにフランス全土が陥落。

 フランス政府はベルギーへと亡命したものの、ベルギーもまた12月下旬に陥落。NATOの防壁を失ったドイツ軍は、国境線にて核攻撃を実施し、自国の軍団の大半を喪失した代わりに、国境線にてメビウス一個戦車師団を撃破した。


 この時、NATO司令部では、12月19日に行われたアフリカへの偵察により、撃破したはずの戦車が再生していることが確認されていた。

 NATO司令部はメビウスに対して効果的な攻撃法が存在しないことを認めざるを得なかった。


 アメリカは内密に宇宙への避難計画を開始(エジェクションゼロ計画)。アメリカ大統領をはじめとした政府中枢を宇宙空間へと移すことを決断していた。

 2018年末時点で、メビウスはヨーロッパの過半と中東、アフリカ全土を席巻した。国連安保理は「緊急事態宣言」を発令し、国連総会を解散。同時に、各国に対して軍事的支援を強制した。






 ※1 メビウス戦争叢書(published by Mobius Research Pannel 2032)より

 ※2 3月11日から19日までの八日間のうちに、各国の国防戦力は完全に覆滅された。また、国土の大半を奪われた各国は、亡命政府を構築する間もなく壊滅に追いやられた。

 ※3 由来は不明

 ※4 メビウス戦争叢書より。ナイル川沿いの戦いに参加した戦力のうち、大半はKIAないしMIAとなり、正確な損害は不明。ただし、ヨーロッパ諸国の軍団の中でその後にカイロまで撤退できた戦力はおらず、事実上殲滅されたとされている。

 ※5 ジブラルタル海峡に展開していたスペイン国防軍の二個戦車師団は、戦闘開始後40分のうちに全車両が擱座ないし完全撃破に追いやられた。ミサイル基地などは抵抗していたものの、メビウスによる渡河後の一斉射撃により、戦闘開始後1時間のうちに壊滅した。なお、この報告はアメリカ軍の派遣士官によるもの。

 ※6 サラゴサ撤退戦にて残存戦車師団は半壊した。また、残された一個戦車師団も、車両の大半が中破以上の損害を負っており、事実上の壊滅状態だった。(メビウス戦争叢書より)

 ※7 ラコール攻防戦時、スペイン国防軍は戦車四両、機械歩兵千名未満を残すのみだった。市街戦開始後十時間以内にラコールのスペイン政府は崩壊した。

 ※8 アラヌエはフランスの地名。フランス軍にも犠牲者は出ており、兵士2名が死亡、下士官1名が重傷を負った。

 ※9 メビウス戦争初期には交戦国が自国民の安全を確保するために隣接国へと侵攻するという事態が頻発した。隣接国もこれに応戦し、結果としてかなりの市民がこれに巻き込まれて死亡した。また、貴重な軍事力が損なわれる結果となり、中東の陥落を早めたとされる。

 ※10 フランス国境線に展開していた三個戦車師団、二個機械歩兵師団、四個歩兵師団は二日あまりで壊滅した。国境線での防衛は不可能だと認知させる結果となったものの、その後も国境での防衛を行う国家は多かった。

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