9話 決意
監督を引き受けたはいいものの、何をすればいいのかすらわからない僕は、放課後に駅ビルの中にある書店に寄った。
入り口から少し進んだあたりで、バスケ雑誌などが陳列されたスポーツ雑誌のコーナーが目に入ったが、有名選手のインタビューや最新のバスケットシューズは早急に覚えるべき知識ではない。僕はそのバスケ雑誌を一瞥で済ませ、バスケの基礎知識を学ぶための指南書を探す。
奥の方まで行くと、『戦術』や『基礎』と銘打ってあるスポーツ本が並ぶ本棚を見つけた。当然その本棚は様々なスポーツの指南書で溢れていたが、目的のバスケ関連の本は容易く見つけることができた。今まで僕はスポーツから距離を置いていたので意識したことはなかったが、今やバスケットは、野球やサッカーに匹敵するメジャースポーツと言っても過言ではないのだろう。書店側が揃えているスポーツ本の充実度を見れば、メジャーな競技とマイナーな競技が一目瞭然だ。その中でもバスケットの指南書は、他の競技に比べて充実している。
しかしこれほどの品揃えを見せつけられては、どの指南書を購入すればいいのかわからなくなってしまう。僕は一歩引いて全ての本の背表紙を見渡す。するとその中に気になる本を発見した。
『バスケの革命 常和学園・女子バスケットボール部の軌跡 高山幸彦』
手に取ろうとするが、その本は棚の最上段に収納されているので、背伸びをしてやっと本の底に指を引っ掛けられる状態だ。仕方なく僕は本の底を指先で撫でることで、徐々に棚から出していく。そして本の表紙が半分ほど露出し、あとは本自体の重量で棚から落下するのを待つだけというタイミングで、背後から何者かの手が伸びてきた。その手は僕が取り出そうとしていた本の背表紙をしっかりと掴んでいる。
雪のように白い肌、細くて長い指からは気品が感じられ、僕はその手から目が離せなかった。……いや、違う。気品を感じたのではない。これは滝凍結月や水戸千波から感じたのと同じ感覚だ。手を見ただけにも関わらずこの武者震い。僕は恐る恐る振り返る。
「はい」
「……ありがとうございます」
落ち着きのある声音で例の本を僕に手渡してくれたのは、身長が170センチは優に超えるであろう女子高生だった。制服の胸ポケットに縫い付けられたエンブレムには、昨日のミーティングの映像で見た常和学園の紋章がデザインされている。
だからと言って常和学園のバスケ部員とは限らないが、なぜかこの人からは既視感を覚える。
……そうか!この人、入り口付近で見かけたバスケ雑誌の表紙に写っていた。確か名前は……。
「雪村氷華」
「え? 君、私のこと知ってるの?」
しまった。つい口に出してしまった。
「いや、さっき見たバスケ雑誌に載ってたので……」
「そっか。……君もバスケ好きなの?」
てっきりこれでおいとまさせて貰えると思っていたが、彼女から予想外な質問が飛んできた。初対面の、しかも書店でたまたま遭遇しただけの人間とここまで会話が続いたのは初めてだ。
「……これから勉強しようと思ってますけど、まだ好きかどうかはわかりません」
僕は少し遅れて質問に答える。
「そうなんだ。……私も勉強しようと思って、監督の本を読もうと思ったんだけど」
言われて本棚を見返すと、どうやらこの本は最後の一冊のようだ。近日対戦するチームの監督が書いた本は、偵察として読んでおいた方がいい気もするが、在庫があるかも知れないし、それに著者の教え子である彼女が読む方が相応しいだろう。僕は棒立ちのまま動かない彼女に本を返すことにした。
「なら、この本譲りますよ」
「大丈夫」
拒否された。一瞬も逡巡することなくきっぱりと断られた。なんなんだ? この本が欲しかったから、会話を続けて僕に譲らせようとしたのではないのか?
「私、本読むの苦手だし、それにやっぱり私には、頭で考えてバスケするなんて考えられないから、その本を読んでも無駄になると思う」
「そう、ですか。じゃあ遠慮なく頂いておきます」
僕は逃げるようにレジカウンターに向かって足を進める。
「待って」
しかしまたもや引き止められてしまい、僕は恐る恐る振り返る。
「君、水成高校の生徒だよね」
「……はい」
やはりバレていたか。制服を着ているから当然だが、せめて練習試合の対戦相手であることは伏せておこう。
「私は常和学園のバスケ部員なんだ。それで4日後に君の高校で練習試合をするんだけど、なんでだと思う?」
「……さあ。練習試合なんだったら、練習が目的なのでは?」
「そうなのかな? 君の高校は偏差値では有名だけど、バスケでは聞いたことない。でも監督が対戦相手に選んだってことは、強いのかな?」
彼女はただ事実を述べているだけで、悪気も悪意もないことは分かっている。しかしなぜか僕は、彼女の言葉を挑発と受け取ってしまった。
「……弱いかもしれない。でも……」
僕たちのチームはまだ一度たりとも試合をしていない。強いか弱いかはまだ未知数のチームだ。それでも僕は、彼女たちに可能性を感じている。嫌いだったチームスポーツ、自分のコンプレックスに向き合ってまで、バスケ部の監督を引き受けたのだ。ここまできたら信じるしかないだろう。
僕は改めて彼女に向き合い、瞼を目一杯開けて——言う。
「僕が強くします!」
果たして、この時の僕の目は輝いていただろうか。