8話 ミーティング
外側のカーテンが全て閉められた薄暗い教室内で、天井から引き下げられたスクリーンにプロジェクターの光が投影されている。
『ビーーー』
『試合終了!常和学園、ウインターカップ優勝!夏の栄冠を死守しました!』
試合終了のブザーと実況アナウンサーの試合を締めくくる一言が、プロジェクターのスピーカーから聞こえてきた。そしてスクリーンには去年の全国大会『ウインターカップ』の決勝の舞台で、常和学園の選手たちが喜びを分かち合う映像が写されている。ちなみに実況アナウンサーの発言から察するに、夏の全国大会も常和学園が優勝したらしい。
そう、常和学園とは、全国常連どころか、全国制覇常連の高校だったのだ。
聞いていない……県内の強豪校だとは聞いていたが、全国区の強豪校だなんて聞いていない。
映像が終わるとともに、教室に明かりが戻る。
「星咲先生。これって、全国大会の決勝ですよね……」
「? 見せる前にそう言っただろ」
僕は一応の確認を取る。
「僕たち、全国制覇した高校と5日後に試合するんですか?」
「それも随分前に言っただろ……」
星咲先生は呆れたように答える。
僕の確認を皮切りに教室内の雰囲気が暗くなってしまった。心音先輩に至っては小刻みに震えてしまっている。そんな姿も可愛らしい……。
「君たち!なんだその顔は。勝負する前から弱気になるんじゃない」
「それはそうですけど、今の試合を見てたら、実感が湧いてきて……」
「試合できるのは嬉しいですけど、実力差がありすぎるというか……」
星咲先生が鼓舞するも、心音先輩と宇佐木先輩は浮かない顔のまま弱音を吐く。
「全国レベルを体感できる千載一遇のチャンスなんだぞ!?」
「…………」
「…………」
星咲先生の言葉を最後に、秒針の音がしっかり聞きとれる程教室内は静まり返った。
否、僕の耳にはもう一つの音が微かに聞こえる。学校で聞かない日はない、紙と黒鉛が擦れた時に生じる心地のいい摩擦音。
後方からの音だと気づいた僕は、ゆっくりと振り返る。
想像通り、そこには鉛筆でノートに正円を描いている滝凍の姿が。
「ミーティング中に何してんだよ……滝凍」
僕はまた、放物線を描いている最中の滝凍に話しかけてしまった。学ばない僕である。
しかし、襲いかかってくると思いきや、滝凍は鉛筆を持った左手を止めて深々とため息をついた。
「勝てるかどうか悩むより、どうすれば勝てるかを考える方が、建設的なミーティングになると思うのは私だけ?」
「……滝凍。お前って、いいこと言うんだな」
「当然よ。だって私だもの」
意外な人物の正論に、僕たちは驚嘆した。
特に星咲先生は、嬉しそうに目を輝かせながら感心している。
「そう!滝凍いいこと言った。今は勝つために頭を使う時間だ。……これに関しては君たちの得意分野だろ?」
星咲先生は僕たちを煽るようにそう言った。
僕が思うに、進学校に通う生徒というのは、みんなで楽しくトランプゲームをやっていたのに、真剣衰弱になった途端にムキになる人間が多いのではないだろうか。運動ができて頭もいい人間は別なのだろうが、僕のような運動がてんでダメな人間は、自分の頭脳に人並み以上のプライドを持っている。
体力戦で勝てない分、頭脳戦で勝たなければ、僕たちのアイデンティティは崩壊してしまうのだ。
それは僕だけではやはりないようで、心音先輩と宇佐木先輩に闘志が宿り始めた。
「……そうですね。頭を使うことに関しては、私たちだって常和学園に負けない!」
「体力と技術で勝てないなら、頭脳戦で勝つしかないわね!」
先輩たちにつられて1年全員も士気を取り戻し、星咲先生はそれを満足そうに眺めながら口火をきる。
「よし。では具体的な方針を伝える。鹿島、前に出てこい」
「え? はい……」
僕は言われるがまま席を離れ、黒板の前に立つ。そして星咲先生は僕の隣に立ち、肩に手を乗せた。
「5日後の試合では、鹿島に監督として指揮を取ってもらう」
「…………………え?」
ミーティングから一夜明け、僕は今、4時間目の体育の授業を1組と合同で受けている。授業の内容は新学期恒例のスポーツテストだ。
そして今日の種目は50メートル走。今の僕はスピードを試されていた。
ちなみに僕たち2組の前に走り終えた1組の滝凍結月と水戸千波は、星咲先生の手伝いとしてタイムの計測とスターターを任されている。
区切られた2つの走路の手前に、1年2組の生徒たちが2列に並ぶ。そして僕は、炎咲から僕を庇ってくれた優しい女子、青浜と共に先頭に並んでいる。しかし別に好きな相手とペアを組めと言われたわけではない。そうだとしたら僕は間違いなく余ってしまう。この組み合わせは単に、席順で決められたものだ。
そういうわけで、教室窓側の先頭で席を隣り合わせる僕と青浜が、必然的に先陣を切るというわけだ。
……困った。僕はできれば陸上部員と走りたいのだ。別にこの考えは自分より速い相手と競うことで、自分を高めようとか、そんなかっこいいものではなく、自分より圧倒的に速い相手と走ることで、僕の鈍足をカモフラージュしようという、消極的かつ惨めな思惑だったりする。
しかしそんなことを今更考えても仕方がない。さすがの僕でも女子より足が遅いということはないだろう。僕はスターターを務める水戸千波の『よーい』の合図に従い、意を決して構えをとる。
次の瞬間——僕は戦慄した。
スタンディングスタートで構える僕に対し、青浜はクラウチングスタートの構えをとっている。その姿は、彼女が陸上選手だと物語るほど様になっていた。それによく見れば、青浜の体はなかなか引き締まっている。今まで制服で隠れていてわからなかったが、走るのに重要な『大腰筋』と『ハムストリング』はなかなかのものだ。
「ドン!」
水戸の合図を皮切りに、僕と青浜はほぼ同時に動き出した。……はずなのだが、僕が一歩目を踏み締めた時点で、青浜は既に2歩目の足を前に繰り出している。彼女のスタート直後の走りには、加速局面とは思えないほどの速度があった。
僕と青浜の距離は見る見る離れていく。僕が50メートルの線を越える頃、既に青浜は星咲先生にタイムを聞きに行っていた。息を整える間もなく、僕も続いて滝凍にタイムを聞きに行く。
「た、滝凍……。ゲホッ、ゴホッ、オエ……タイムは……」
「すごいわね鹿島君、私が小学4年生の時と同じタイムだわ。あと、走る姿がとても気持ち悪かった」
滝凍は例のように無表情のまま、酷いことを言う。
「お、お前の感想なんて、聞いてねえ……。タイムを聞いてんだ」
「8秒8」
タイムを星咲先生に伝えるため、僕は反対の走路の傍に立つ先生のもとへ向かう。すると星咲先生は、親指と中指で両頬を鷲掴みにしていた。
「先生。僕のタイムは8秒8だそうです」
「あ、ああ。わかぁったぁ……」
星咲先生は口元を手で覆い隠しながら、舌足らずに応答した。この教師……僕の走り姿を見て笑いを堪えているな……。バカにしやがって。
僕は星咲先生を睨んでから、青浜に続いて待機場所に向かう。それにしてもあいつ、マジで速かったな……。
「待て、鹿島。話がある」
僕は星咲先生の呼びかけに立ち止まり、再び睨みつけた。
「僕が監督をするって話なら断りますよ。昨日も言いましたよね」
「まあまあ」
星咲先生はにこやかに手招きをしているが、正直気が進まない。僕は訝しみながら先生のもとに向かった。
そして星咲先生の隣で、僕の後続で走る生徒たちを眺めながら話を聞く。
「なぜそこまで拒む」
「先生こそ、なんでそこまで僕を女子バスケ部に関わらせようとするんですか。マネージャーとしてならともかく、生徒が監督なんておかしいでしょ」
「おかしくはないだろう。私より鹿島の方が監督に向いていると思うから任せたいんだ」
「いや、それがおかしいんですよ。会ったばかりなのに、先生が僕の何を知っているんですか」
自制しているつもりが、徐々に語気が荒くなってしまう。
「……君が、鹿島武実の息子だということは知っている」
「!……」
鹿島武実。スポーツトレーナーとしてそれなりに名の知れた、僕の父親。選手生命を脅かす怪我をしたとある有名アスリートを、復帰にまで導いたトレーナーとして一時期注目されていた。しかし、それは僕が小学校低学年あたりのことなので、星咲先生がいまだに僕の父親を認識しているとは思わなかった。
「だからなんですか。別にスポーツトレーナーの息子だからって、運動ができるわけじゃない。さっきの僕の走り見たでしょ……」
「運動だけがスポーツじゃない。選手をサポートすることだって大切な役割だ。君の父親がそうだろ?」
そう、僕の父親は、たくさんのアスリートに頼られていた。父の指導を受けた選手は次々に調子を上げ、中には世界で活躍するまでになった選手もいる。
そんな父親を、僕は誇りに思っている。そしてだからこそ、僕は今までスポーツと距離を置いて生きてきた。自分の思い通りに体を動かせないことが悔しくて、父の教え通りに体を動かせないことが——苦しかった。
親の七光りどころではなく、光を浴びて尚——僕は輝けなかった。
「私はお前にも、そういう才能があるんじゃないかと思っている」
星咲先生は真っ直ぐ僕の目を見つめながら言う。
「そういうって、どんなですか……」
「初対面の頃から、鹿島は滝凍のシュートに付き合っていただろ。あれは、滝凍のシューターとしての実力を見抜いたからじゃないのか?」
「それは……」
滝凍との邂逅の瞬間、僕は彼女から目を離せなかった。それは女子の下着を見たかったという気持ちも皆無ではないが、しかしそれ以上に、バスケットボールを携えた滝凍の姿に可能性を感じたのは確かだ。いったい彼女はどれ程の時間、バスケットボールに触れていたのだろう。そう思うほど、滝凍とボールは一体化しているようだった。
僕はこの感覚は直感でしかないと思っていたのだが、しかし言われてみれば不思議な感覚だった。あの時の滝凍に感じた武者震いはなんだったのだろう。全身の皮膚が戦慄くような、あの感覚は。
「先見の明……があるんじゃないか?」
星咲先生は、走り切った生徒のタイムを記録しながら言う。
「……あの時は、滝凍に強引に手伝わされたみたいなものですし、それはないですよ」
俯きながらそう言うと、僕の視界は地面で埋まり、走路を区切る3本の白線が横切っている。その白線の間を誰かの足が駆けていくが、どうにも見上げる気分にはなれない。
「君の目はいつも淀んでいるな。鹿島」
度々暗くなる僕に、星咲先生は呆れたようだ。
僕も自分の目が好きじゃない。死んだ魚の目のようだと、鏡を見るたびに思っているし、瞼に覆い隠された黒眼の全容は見たことがない。
「はは。なんでですかね。一重だからかな?」
「違うよ。下ばかり向いているからだ」
星咲先生は両手を僕の両頬に添えた。そして瞼を静かに閉じて、優しく僕の頭部を持ち上げる。
「下を向けば瞼が下がる。瞼が下がれば眼球に影が落ちてしまう。でも、上を向けば瞼は上がり、眼球に光が灯される。だから、上を向いている人間の目は輝くんだよ」
開いていく星咲先生の目が、徐々に輝いていく。まるで日の出のようだ。それに対して僕の目は、星咲先生にどう映っているのだろう。気になるが鏡のないこの場では確認のしようがない。
「暗くなった時こそ上を向け。光源はいつでも上にあるからな」
星咲先生は満面の笑みで空を指差すと、雲の隙間から日光が差し込んだ。その光はスポットライトの如く、星咲先生を照らしている。
眩しいなあ……。まったく。
この人みたいに生きられたらと思わずにはいられない。存在がもう眩しすぎて、光に慣れていない僕は、思わず目を逸らしそうになる。
——憧れ。大人に対して、教師に対して、こういう感情を抱くのは初めてだ。
なんなのだろう、この人は。子供がそのまま大人になったみたいだ。なんでもできると信じながら、何も諦めずに生きている。
世の中には、こんな大人もいるのだと、その事実が何より嬉しかった。
今思えば僕は、つまらない人生を、つまらないと思いながら、それでも死なないでおこうと、そういう覚悟をしていたのかも知れない。
誰もがそうして大人になるのだと自分に言い聞かせて、つまらない大人になる準備をしていた。
高校生。子供から大人への変遷の時期。人格形成がまもなく終了し、人間が完成する直前。
星咲雪ノ下という教師との出会いは、もしかすると、僕の人格を覆す最後のチャンスなのかも知れない。既に色々と捻くれてしまった僕だけれど、まだ間に合うと信じたい。
固まりかけていた人格が——否、心が揺らぐ。
期待と不安。どちらが僕の心を揺らしているのかはわからないけれど。退屈が希望に変わるのか絶望に変わるのかはわからないけれど。この衝動に従えば何かが変わる。
僕はそう確信した。
「先生。僕、やります。僕に監督をやらせてください」