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7話 ギャップ萌え

 滝凍が練習に参加するようになり、チームの士気も高まりつつある。今日は練習の前に、5日後に控えた常和学園との練習試合に向けたミーティングが行われる。そのためHRを終えた僕が向かう先は体育館ではなく、星咲先生の担当クラスである1年1組だ。


 僕は教科書などの荷物をスクールバックにしまい、隣の1年1組へと席を立つ。


「炎咲。先行ってるぞ」

「はいよ」


 炎咲は練習着やバスケットシューズなどのスポーツ用品を、教室の後方に備え付けられているロッカーから取り出す必要がある。とはいえ先に行くほどの待機時間を要するわけではないので、別に待ってあげてもいいのだが、クラスメイトとはいえ、僕と炎咲は行動を共にするほどの仲ではない。


 教室を出ると、隣の教室のドアから続々と1年1組の生徒が出てきた。どうやら僕たち1年2組とほぼ同時にHRを終えたらしい。次々と出てくる生徒たちを一通り見送り、間隔が途切れた頃合いを見計らって教室を覗く。


 教室内にはまだ数人の生徒が残っていて、その中に滝凍結月と水戸千波の姿が見えた。数人の女子生徒に囲まれて困惑している水戸とは対照的に、滝凍はポツンと1人で席に座っている。同じ容姿端麗、同じ学力優秀な滝凍結月と水戸千波。しかし人望にここまでの差が出てしまうとは……。


 僕が涙を必死に堪えながら滝凍をみていると、彼女は一心不乱にノートに鉛筆を走らせていた。いったい何を書いているのか気になるところではあるが、他のクラスというのは妙な入りにくさがある。数人とはいえ知らない生徒がいるから尚更だ。


 しかしこのままでは滝凍があまりに不憫で見ていられない。恐らく彼女自身は全く気にしていないのだろうが、滝凍が孤立してしまった経緯を高い精度で想像できてしまう僕は、あの光景を見ているだけで悶えてしまうのだ。


 僕は腹を括り、1年1組の教室に足を踏み入れる。

 そして5歩目を踏みしめた瞬間、水戸がいる辺りからひそめきが聞こえてきた。


「誰?あの人……」

「彼は……女子バスケ部のマネージャーだよ」

「……まさか、水戸さん目当てで入部したんじゃないでしょうね」

「……………」


 痛い!視線が痛い!心も痛い!

 僕だって好きで女子バスケ部に入部したわけじゃない。最初に抵抗したのは面倒くさいというのが主な理由だが、このようないわれのない中傷を恐れたというのもある。


 それにしてもなんで女子の陰口って聞き取れてしまうんだろう。声が高くて聞き取りやすいからだろうか、それとも僕が女子を意識し過ぎているからだろうか。確かに、男子からの評判より女子からの評判の方が気になるしな。


 これ以上精神の傷を負わないよう、思考を徐々に逸らしながら滝凍の席に向かう。現状に限り、人口密度が低い滝凍の周りはオアシスだ。


「よう、滝凍」

「…………」


 応答がない。しかし無視されている感じもなく、滝凍は携帯用の鉛筆削りを右手に、無心で鉛筆を研いでいる。恐らく彼女は本当に僕の存在に気づいていないようだ。滝凍の『知覚』『判断』『感情』『欲求』、全ての意識がノートに注がれている。

 僕と滝凍の間には机しかないのだが、この距離から声をかけられても意識が逸れないとは、とてつもない集中力だ。この迫力……これがいわゆるゾーンというやつだろうか。知識としては知っていたが、実際に見るのは初めてだ。


 圧倒された僕は滝凍の顔からノートに目線を移した。するとノート見開き1ページが、直径5センチ程度の正円で満遍なく埋め尽くされている。しかし机の上には、正円を書くための製図器具、コンパスが見当たらない。


 不思議に思った僕は再び滝凍の意識をこちらに向けさせようと試みる。ただし今度は声を掛けるだけではない。女子の体に触れるというのは抵抗があるが、今の滝凍に僕を認識させるには、直接触れる以外に方法はないだろう。


 僕は右手で、滝凍の左肩を軽く叩く。


「おーい。滝っ……」


 ——次の瞬間、僕は反射的に言葉を止めていた。僕の喉に向かって、鋭利な黒鉛が迫ってきたからだ。


 気づくと滝凍は立ち上がり、アイスピックさながらに、鉛筆を僕の喉仏に突き付けていた。

 何が起こったのかと、僕は顎を逸らした状態で視線を下に向けた。するとノートに描かれている複数の正円の中に、ひとつだけ歪んだものを発見してしまった。


「左肩に少し違和感を感じるのだけれど、私の放物線を歪めたのは……あなた?」

「ぅ……ぁ」


 怖すぎて声が出ない。完全に喉が萎縮している。


「私の描く放物線を邪魔をする事は、死に値する蛮行と知りなさい」

「わ、悪かった……もう邪魔しないから、その鉛筆を納めてくれ……」


 滝凍は僕の怯みに怯んだ目を凝視しながら、首元に皮一枚でとどめられた鉛筆をそっとノートの上に戻す。


 シュートだけじゃなく、ノートにまで放物線を描いているのにも驚きだが、こいつ……フリーハンドで正円を描けるのかよ。そんなのもう放物線マニアというより、放物線教の狂信者じゃねえか……。


 滝凍は席に座り直してから、途中で途切れてしまった円を消しゴムで消し、再び正円を描き始めた。フリーハンドで正円を描くというのは、絵描きの観点から見ればすごいことなのだろう。しかしごく普通の大学ノートでも、全てのページが正円で埋まっているというのは、なんだか呪いの書じみている。


 僕は慎重に滝凍の前の席に座る。その際には、椅子を引きずるのではなく、椅子の足を床から数センチ浮かせることで、滝凍の耳を煩わせないための配慮をした。


 しばらく座っていると、炎咲や先輩たちもこの教室に集まり、残っていた1組の生徒たちはいつの間にか退室していた。残すは星咲先生だけだ。


 遅れている星咲先生の所在を滝凍に尋ねたいところだが、不用意に話しかけると先程の二の舞になってしまう。僕は滝凍の状況を確認するため、恐る恐る振り返る。見ると滝凍は大学ノートを両手で掲げながら『美しい……』と、シュートをしている時と同じ表情で、自らが描いた放物線に見惚れている。


 滝凍が相好を崩す瞬間は、納得のいくシュートを放った時だけだと思っていた。しかし違った。シュートに限らず、納得のいく放物線を自分の手で描くこと。それが彼女にとっては至福のひとときなのだろう。


 1日の大半を無表情で過ごす彼女の唐突な破顔は、理不尽に僕を惹きつける。


「た、滝凍……今いいか?」


 できればもう少し眺めていたい光景だったが、僕は滝凍の顔が鉄仮面に戻ってしまう前に尋ねる。


「あら、こんにちわ鹿島くん。来ていたのね」

「お、おう……今来たところだ」


 ……どうやら先程のバイオレンスは、僕を認識しての所業ではなかったらしい。

 こいつ、僕以外にもあんなことしてるのかよ。クラス内の孤立程度で済んでるのが不思議なくらいだ。いつか危険人物として通報されそうな女子高生である。


「星咲先生は常和学園の試合分析に使う映像を職員室に取りに行ったから、少し遅れるらしいわ」

「……そうか」


 ん? 僕、星咲先生について聞いたか?


「このまま待つのもなんだし、何か温かいものでも飲む?5月に入ったとはいえ、寒さの残る時期だものね」

「い、いいのか……?」

「ええ。遠慮しないで。手間は一緒だから。コーヒーと紅茶があるけど……」

「じゃあ、コーヒーを頼む。……あれば砂糖も少し入れてくれ」

「了解」


 柔らかな口調でそう言った滝凍は、電気ポットが置かれている教室後方に向かった。そして2つの紙コップにインスタントコーヒーを優しく振りかけお湯を入れる。お湯を適量注ぎ終えると、スティックシュガーを指で挟み、両手で紙コップを持ちながら僕のもとへと向かってくる。


「鹿島くん。私はブラックを嗜むからよくわからないの。悪いけど、これであなたの好みに調節してもらえる?」


 言われた僕は、滝凍からコーヒーと、1本のスティックシュガーを受け取る。


「ああ、ありがとう……」

「鹿島くんは微糖が好みなのね。少し意外。……私も今度試してみようかしら」


 滝凍はそう言いながら席に着き、上品に紙コップを口に運んだ。


 ……………………………………誰?


 聞かれる前から相手の意図を察して情報を与えてくれる滝凍結月。

 温かい飲み物で相手をもてなす滝凍結月。

 相手の好みに合わせた細かな気遣いができる滝凍結月。


 暴言と暴力を排した、可愛いだけの滝凍結月。


 本来、『可愛いだけの女子』というのは、悪意で使用される言葉だ。しかしこの場合に関してはどうだろう。外見的魅力が帳消しになる程の精神性を有していた滝凍から、余計な要素が除かれたのだ。これを喜ばないわけにはいかない。


 なんだよ!機嫌がいい時の滝凍ってこんなに可愛いのかよ!

 これはギャップ萌えどころの騒ぎではない。人が変わるというよりは、悪魔が天使に変貌するくらいの変わり様だ。


 僕は緩みそうになる口を紙コップで覆い隠しながら、息を吹きかけてコーヒーを冷ます滝凍を横目で見る。


 しかし、幸せな時間ほど長くは続かない。僕のコーヒーが半分ほどになった頃合いで、教室前方のドアが開かれた。入ってきたのはもちろん星咲先生だ。プロジェクターを脇に抱えながら教卓に着くと、部員全員揃っていることを確認した後、開始の一言を放つ。


「待たせたな。では、ミーティングを始める」

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