6話 水戸千波
水戸千波といえば、県内で名の知れたバスケ選手らしい。私立水成高校の併設校である、私立水成中学の女子バスケットボール部は、大会に出場する度に一回戦で校名が消え、弱小とすら認識されていなかったそうだ。
そんな弱小とすら認識されていなかった女子バスケ部を、彼女は中学の3年間で県ベスト4にまで導くという、唐突な伝説を残した。
警戒すらしていなかった名も知れぬバスケ部が、勃発的に強豪チームにまで成り上がるというのは、他校からすれば恐怖以外の何物でもないだろう。
僕がこのにわかには信じ難い、スポーツ漫画のような伝説を知っているのは、水戸千波本人から聞いたのではもちろんない。中高一貫の高校では、エスカレーター式に中学から高校へ上がる生徒がほとんどで、水成中学で水戸千波の偉業を目の当たりにした生徒がそのまま高校に上がってきているため、噂は嫌でも耳に入る。なにせ1年生ながらファンクラブが存在する程の人気を男女問わず集める彼女のことだ。1日を通して水戸千波の名を聞かなかった日は、入学初日から1度もない。
勉学を売りにする進学校に通う生徒とはいえ、多感な若者である事には変わりない。勉強ができる優等生よりも、部活で超人的な活躍をする生徒の方が憧れの対象になるのは当然だ。と思っていたが、彼女は水成中学に学力特待生として入学し、いまだに特待生の基準となる成績を維持しているらしい。まさに文武両道。これなら常識外れな人気を集めているのも頷ける。
ここまでが僕の知っている、というより、噂で聞いた水戸千波への認識だ。そしてここからが、水戸千波とチームメイトとして3年間過ごしてきた炎咲蓮香から聞いた話だ。
「チナ?」
炎咲蓮香は、紙パックのミルクティーを片手に、ストローの先端を噛みながら眉間にシワを寄せる。
ちなみに『チナ』というのは、炎咲が水戸を呼ぶ際の愛称だ。
「鹿島。チナに興味あんの?」
「興味っつうか……」
僕は変な勘違いをされることを恐れて、慎重に返答する。
「別に水戸自体への興味じゃなくて——ほら、今度の練習試合のことでさ……」
「ああ。そのことか」
「そうそう。そのこと」
僕の本意を理解した炎咲の眉間のシワが薄れていく。
「常和がチナのフル出場を求めてる意図は知らないけど、常和学園とチナに接点がないわけでもない」
「接点……」
「チナ。中学3年の大会で、常和から直接スカウトされたんだよ」
「っ!水戸って、そんなにすごい選手だったのか!?」
学校を通して担任から特待生の話を伝えられる場合が普通だと思うが、大会中に直接スカウトされるなんて、どうやらあの噂は誇張されたものではないようだ。
「そう、チナはすごい選手だった。それなのに、私が弱かったから……」
再び眉間にシワを寄せながら、炎咲は紙パックを握りつぶした。
「……何で水戸は常和のスカウトを断ったんだ?」
「聞いたことないけど。チナは母子家庭だから、経済的な理由かもね。あの子、必要以上に背負い込むタイプだからさ。特待生としてこの学校に通い続けることを選んだのかも」
「でも、常和もスポーツ特待生として水戸を受け入れるつもりだったんじゃないのか?」
「そこまでは知らない。ていうかそろそろいい?鹿島と違って私には、一緒に弁当食べる友達がいるの」
振り向くと、僕の隣の席の青浜瑠璃が、弁当を両手で前に下げ、気まずそうに僕をみていた。
「悪い。邪魔したな」
「全然!私のことは気にしなくていいから」
「そうか。じゃあ炎咲、さっきの話に戻るが」
青浜から許可を得た僕は、炎咲の方に向き直り話を戻す。
「戻すな!お前、今の瑠璃の言葉をそのまま受け取ったのか!?」
「大丈夫だよ炎咲さん。なんか大事な話っぽいし」
理不尽に責められる僕を、青浜が庇ってくれた。優しい女子だ。
「いいだろ。青浜がいいって言うんだから」
「私が嫌なんだよ!これ以上貴重な昼休みを鹿島との会話に費やしたくない」
「ひでえな。チームメイトに向かって」
「うるせえさっさと消えろ」
口の悪い女だ。でも僕より体格がいいので、このように迫られると逆らえない。
僕はおとなしく炎咲の席を離れ、自分の席に戻ることにした。
結局常和学園が水戸のフル出場を条件に出した理由はわからなかった。しかし水戸が中学時代に成した偉業から考えると、常和学園は水成高校も同じように勃発的に強豪校になることを警戒して、うちに練習試合を申し込んだと考えられる。
僕は今までスポーツというものと距離を置いていた。理由はいくつかあるが、自分の運動能力が低いというのが主な理由だ。特にチームスポーツが嫌いで、体育の授業でサッカーなどの球技をやらされた日は、決まって精神が削られた。
良く言えば、チームスポーツは仲間同士で互いの欠点を補える助け合いのスポーツだ。しかし悪く言えば、足を引っ張るだけの人間が迫害されてしまうスポーツでもある。チームスポーツは運動神経が悪い人間に優しくない競技なのだ。
それもそのはず、『真に恐るべきは、有能な敵ではなく無能な味方』という格言もあるくらいだ。小学生の頃、僕がミスする度に腹を立てるサッカー少年の山本。僕がエラーする度に睨んできた野球少年の菊池。僕に対する彼らの態度も今は納得できる。たかが学校の授業とはいえ、真剣に勝利を目指していたのだろう。トラウマとして刻まれているので一生忘れることはないと思うが、別に根に持っているわけではない。
このように、どんなに有能な選手がいたところで他がそうでなければ、チーム戦において勝ち目がないということは、僕の経験と世界の歴史が証明している。
にも関わらず、彼女はその常識を覆した。
弱小とすら認識されていないバスケ部を、たった3年で強豪チームに。
水戸千波は——選手の能力を最大限に引き上げる。
この事実に気づいたのは、昨日の部活での出来事。水戸千波はこの能力で、試合に出る気のない滝凍結月の説得に成功した。
「滝凍。私が君のボール拾いをしてもいいかな」
水戸千波はゴール下で小刻みにバウンドするボールを、指先で軽く突くことで器用に拾い上げた。
「別に構わないわ。誰がボール拾いでも、私の描く放物線の美しさは揺るがない」
「そうか。じゃあ——いくぞ」
水戸から合図を受けた滝凍は、宣言どうり僕からボールを受け取る時と同じく、何も期待していないと言わんばかりの構えをとった。それは僕がボール拾いの機械だと錯覚してしまうほどだ。
しかし水戸から放たれたパスは、吸い込まれるように滝凍の手元に届いた。そのボールはまるで、運動エネルギー以外の何らかの力が加えられているようだった。滝凍はパスを受け取った時点で既にシュート体勢に入っていた。そして次の瞬間、滝凍の放ったシュートは、傍目からでもわかる変化があった。
「美しい……」
滝凍が自分の放ったシュートの軌道に見惚れながら漏らした言葉。
それもそのはず。パスを受け取ってボールを手放すまでの一連の動作は、川の水が流れるように、なめらかで自然な動きだった。少なくとも、僕からボールを受け取っていた時の滝凍のシュートより、水戸からパスを受けて放った滝凍のシュートの方が、僕も美しいと思った。
それはシュートを放った本人が1番感じているのか、パスを受け取る前の態度から一変、水戸を見る滝凍の目が輝いていた。
「気に入った。あなた名前は?」
「水戸千波」
「そう……。私は滝凍結月。これからもボール拾いよろしくね」
出会って2週間以上経つのだが、まだチームメイトの名前を記憶していなかったとは……。
僕が手を差し出す滝凍を苦笑まじりに見ていると、水戸から起死回生の一言が滝凍に告げられる。
「それは無理だ。私は金輪際、君のボール拾いをやるつもりはない」
「……え?どうして?」
滝凍はキョトン顔で返した。だから、他人が自分に対して助力願望がある前提で考えるなよ……。
「チームに貢献する気のない人間に協力する義理はない」
「そんな!あんまりよ!」
滝凍にしては珍しく感情的に嘆いているが、なんでこいつ被害者面なんだよ。
「パスは相手の特性や癖を理解することで精度が上がる。だがこのままだと私は、滝凍のことを理解するどころか嫌いになってしまう」
「……そんな脅しに私は屈しない」
だから、お前は被害者じゃなくて、どっちかというと加害者だからな?
まあそれはいいとして、微動だにしなかった滝凍の自我が揺らいでいる!このチャンスを逃す訳にはいかない。僕は水戸に追随する。
「いいのか?逆に言えば、滝凍への理解度が高まる程、水戸のパスは滝凍のシュートに最適化される。悪い話じゃないだろ」
「…………」
あと一押しだ!あと一押しで難攻不落の氷瀑を落とせる。
僕が攻めあぐねていると、水戸からダメ押しの一言。
「放物線が好きなんだろ? 滝凍。私が君に、最高の放物線を見せてあげるよ」
「承知しました。水戸千波様。私は貴方に従います」
青天の霹靂。
本当に背骨を沿うように電撃が走った。
天上天下唯我独尊を地で行くあの滝凍結月が、他人に従うと口にした。
奇跡の瞬間を目の当たりにした僕は、空いた口が塞がらずにいた。滝凍にとって放物線が、自分のプライドよりも大切なものだったとは。
そんなこんなで、僕たち女子バスケ部は、最初の問題を乗り越えたのだった。