嘘
『息を吐くように嘘をつく』
朝の7時前。
少しずつ混雑し始めた通勤電車の中で、
何気なく読んでいたネット小説に出てきた
その文章に一瞬、目が留まった。
(俺のことか…?)
表情には出さないが、心の中でフッと自嘲し、
小説のウィンドウを閉じる。
ふと見上げると、電車内の案内表示が、
次が目的地の駅であることを示していた。
徐行する車内ですっと身体を出口に向けて、
停車・開扉と同時に歩き出す。
電車を降りて改札を抜けて、
通勤経路にあるコンビニでいつも通りの買い物をする。
勤務先へ歩を進める中、まだ嘘について考えていた。
俺は、人は誰しも嘘をつくと思っている。
自分のためか、他人のためか。
金銭をだまし取るため、自己保身のため、相手を傷つけないため。
嘘の恩恵を受ける対象も嘘の目的も、様々とあるだろうが、
多かれ少なかれ、人は嘘をついて生きている。
当然ながら、かく言う俺、「空野 頼」も嘘をつく人だ。
考えながら歩いていると、いつの間にか会社へ到着した。
セキュリティゲートに社員証をかざして、出勤記録をつける。
7時21分、ほぼいつも通りだ。
エレベーターで10Fへ移動する。
ちなみに職場は18Fだが、何故ここに降りたかというと
喫煙室に用があったからだ。
窓越しに中を覗くと、目当ての人物が居た。
頭の中で会話をシミュレートしつつ、ネクタイを締めて襟を正す。
中に入って、初めて気づいた顔を取り繕って挨拶した。
「あ!おはようございます、一ノ瀬役員。」
「ん?あぁ、おはよう、空野くん。相変わらず、朝早いね。
というか、まだ本部長でいいよ。2か月後だぞ、耳ざとい奴だな。」
「すみません、失礼しました。一ノ瀬本部長。」
一ノ瀬 輝夫
俺の所属先である経営戦略本部(通称、経略)、
ではなく、その隣にある財務本部の本部長だ。
2か月後、4月1日付で取締役に昇進することが、
来週末の株主総会で決議予定らしい。
現時点での役員呼びは流石に早いが、満更でもなさそうな一ノ瀬を見るに
わざと間違えて正解だったようだ。
「本部長、今、少し相談しても宜しいでしょうか?」
「うん。いいよ、何?」
当社は、主に半導体関連の部材を製造・販売しているが、
その加工技術を応用して様々な産業部材も販売している。
この度、新たに技術開発研究所(通称、技研)で開発した
産業向け部材を量産移管するプロジェクトを立上げようとしている。
俺の所属組織である経略は、その推進役の一翼を担う立場である。
いずれは取締役会で本プロジェクトを上程し、承認いただく予定だが、
その前に、財務本部と握っておく必要がある。
軽く会釈し、一ノ瀬を真っすぐに見据えて口を開く。
「技研で開発が完了し、量産移管を進めたい事業があります。」
一瞬で、一ノ瀬の口元の緩みが引き締まった。
先程までの柔和な雰囲気とは明らかに違う。
「あぁ、財務の高尾課長が、そんな話をしてたかな?」
「経略は技研と連携して、量産移管プロジェクトの立上げを検討中です。
来年度上期に上程を目指しますが、財務本部のご意見を伺いたく。
今週、どこかで1時間程、ご都合いかがでしょうか?」
「まあ、話を聞く分には構わないけど、俺は反対だな。」
一ノ瀬の言葉に少し驚きの表情を作るが、内心は冷静だ。
何故なら、この回答は予想できていた。
財務本部が本プロジェクトに反対する理由は、主に2つある。
1つ目は、収益性は高いが、不確実性も高い点である。
市場拡大の可能性を誰しも認めるが、先行企業が2社あって、
3rdベンダーが、現在描いている収益計画を本当に実現可能なのか、だ。
反対理由の2つ目は、投資額が膨大である点、
もう少し具体的に言うと、操業50年来、最高額である点だ。
それでも内部資金で賄える範囲だが、1つ目の不確実性も相まって、
財務本部は難色を示している。
「反対理由は、やはり投資額でしょうか?」
「まあね。100億円って結構なお金だからね。
それに、量産開始から5か年の損益計画を見たが、3rdベンダーが
2年目であそこまで売上拡大できると、本気で思ってるの?」
「100%確実ではないですが、可能性は十分にあると考えております。」
「ははは。投資額を踏まえると、ほぼ100%じゃないと難しいね。」
丁度、煙草を吸い終わったようで、
話は終わりとばかりに、ささっと吸い殻を始末する一ノ瀬。
そうはさせない。
初見で反対されることは、承知の上だ。
お堅い財務は、確度が高い方法で小金を集めたいらしいが、
多少リスクを取ってでも、貴重な商機を提案することが
経略の仕事だ。
「確かに100%は難しいですが、リスクヘッジする案があります。」
「ヘッジ?」
「得意先であるB社およびC社から投資額を前受金としてもらいます。
前受金は量産開始後の3年目から4年分割で売掛金と相殺します。」
「ふーん。それ、投資額のうちいくら出してもらえるの?」
「2社から合計100億円、全額です。」
喫煙室の出口に向いていた姿勢のまま眉をひそめて、
此方に顔を向ける一ノ瀬。
一呼吸待って首を左右に傾げ、身体を向き直すと
2本目の煙草に火をつけて、続きを促す。
「B社とC社、何でそこまで協力的なの?」
「量産を目指す産業部材は、先行2社が市場を2分しますが、
その6割弱はA社へ納入してます。A社が市場の黎明期から目を付けて
納入枠確保の契約で縛りを入れているからです。」
「そのようだね。」
「はい。B社とC社にしてみれば、供給枠の大半をA社に取られており
何とか市場全体の枠を増やしたいところです。
そこで、技研と一緒に試作品を持って両社を訪問し、
本スキームを提案して参りました。」
「先方、どんな感じだった?」
「品質は先行企業の製品と遜色なく、スキームについても、前向きに検討されてます。
うちの社内で量産移管の合意が取れれば、すぐに契約を進められます。」
確かに前向きではあったが、すぐ契約締結という程ではない。
一ノ瀬を説得するため、誇張している。
黙って考えている一ノ瀬に対し、説明を続ける。
「また、今回うちの技研は既存品以外に、
主材料を変更したアレンジ品の開発を進めてます。
具体的には後日、説明しますが、特殊な工法で安価材への切替を目指します。
安価材のコストダウン効果を一部、得意先へもお返しすることが
B社とC社が前受金を了承した決め手の1つでもあります。」
「その安価な主材料への切替の目途は?」
「技研の途中報告を聞いてますが、概ね見えてます。」
「ふーむ。」
切替のプロセス開発は概ね見えているものの
肝心な安価な主材料は、ある条件をクリアすれば仕入れられるものの、
現在、当該条件の交渉真っ最中である。
本来は触れるべき懸念事項だが、伏せた。
勿論、技研含めた関係者にも箝口令を敷いてある。
とはいえ、一ノ瀬の反応を見るに、
やはり投資額がかなりの懸念だったようだ。
畳み掛けるべく、説明を続ける。
「また、投資額を売掛金で一部相殺する件ですが、
B社とC社の発注には数量保証を設けることで、基本合意してます。
仮に半年間の発注が規定数量を下回る場合、単価値上を遡及で反映し、
前受金相殺時にうちが一方的にキャッシュアウトしないことが前提です。
キャッシュフロー計画案も、後日、説明させていただきます。」
火をつけて一度しか吸われていない一ノ瀬の煙草の先から
燃えカスがぽろっと落ちる。
それに気づいた一ノ瀬が、煙草を口に添え、
大きく吸って大きく吐き出す。
溜め息のようでもあり、一息ついたようでもあった。
やがて、ゆっくり視線を此方に向けると、二度、頷いて口を開く。
「わかった。明日の午後なら空いてるよ。」
「ありがとうございます。では、会議案内をメールさせていただきます。」
2本目の吸い殻を火消し壺に突っ込み、
それじゃ、と告げて退室する一ノ瀬に一礼する。
時間は朝7時40分になった。
誰も居なくなった喫煙室に響き渡るくらい、
大きな息をついて、少々高ぶった気持ちを落ち着かせる。
一度吹かしただけの煙草が消えていることに気づくと、
火消し壺に捨て、部屋を出る。
(9割がた、うまく進んだかな。)
満足だ。
仕事面で俺のつく嘘は、万が一、失敗した際、
訓戒どころか、減給・降格、最悪は解雇もありえるだろう。
それでも10年間、このやり方で進めてきたし、これからも変わらない。
どこか、このリスクと成功を楽しむ自分が居る気もする。
(会議案内に報告資料の最終チェック、午前中に最優先で対応しよう)
本日のスケジュールを確認しつつ、
やってきた無人のエレベーターに勢いよく乗り込んだ。
お目汚し、失礼しました。
今まで、何か書こうと思って登録しても、
結局中途半端なまま、保存だけして終わってました。
今回、1個くらい何か残そうと思い、駄文を残させていただいております。