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昔捨ててしまったものを、もう二度と失いたくない。――そう思ってはいても。今までできうる限り全てのものを避けて生きてきた私には、何もかもがハードルが高すぎて。せっかく友達ができたんだし、お昼を一緒に……というのも、自分から言うべきか、そもそもそんなこと言ってもいいものかと悩んでしまった。すでにクラスの中に仲のいい子がいて、その子と毎日食べてるんだったら、迷惑になるだろうし。そうやって、お昼休みが始まってから数分ほど、自分の席でお弁当箱を見つめながら考え込んでいたら、裕子ちゃんのほうから誘いに来てくれた。
クラスの子たちが「あの吉崎さんに友達が?」とでも言いたげにざわつき始めたことで裕子ちゃんはいろいろと察してくれて、どちらかのクラスの中ではなく、人がいないだろう屋上でのんびり食べようということになった。
「ねえ、琴ちゃん。私は今日も歌劇部の体験に行く予定なんだけど、琴ちゃんはどうする? ――ほら、昨日、ちょっと嫌なことあったでしょう? だから、今日は、他の部活を見に行く? それだったら、私、今日は他のところに一緒に行こうかなって思っているんだけど」
「今日も行く予定ってことは、もう入部を決めてるの? 三島先輩、『サカゲキが必要な人は来い』って言ってたじゃない?」
箸をとめて私がそう尋ねると、裕子ちゃんはもくもくとご飯を食べながら「裏方志望で入ろうと思ってる」と答えた。何でも、お裁縫が得意で、その技術を磨きたいのだとか。それなら家庭科部のほうがいいんじゃないのかなと思ったんだけど、どうやら歌劇部のほうが環境が整っているらしい。
「歌劇部に入部するって決めてるんだったら、他を見る必要もないのに……。〈私に付き合って歌劇部に顔を出さない〉とかして、大丈夫なの?」
「体験最終日の翌日までに入部届を顧問に出せばいいから、そんなの全然平気だよ! 体験できるのは今だけなんだし、他の部を見に行くことに全然損はないんだから気にしないで」
三島先輩は出会ってまもないはずの私のことを全部お見通しで、先輩についていったら失くしたもの、ずっと欲しかったものが手に入りそうな気もするけれど。でも、人前で歌って踊るだなんて、今の私には到底無理だと思うし。だったら、裕子ちゃんと一緒に裏方を……というのも、不器用な私にできる気はしなくて。
それに、笹森さん。いくら〈前向きで明るい、理想の私〉になりたいからといって、そのために彼女みたいに一生懸命な人の足を引っ張るようなことはしたくない。きっと、私はいるだけで彼女の邪魔になると思うから。あと、昨日の件もあって、正直、彼女が怖いと言うのもあるし……。だから私は、にっこりと優しく笑いかけてくれた裕子ちゃんに、「放課後まで考えてみる」と答えるにとどめた。
「裕子ちゃん、あのね、今日はやっぱり――」
「行け! 高木!! ホシを確保しろ!!」
放課後。背中をしょんぼりと丸めて裕子ちゃんにお断りの言葉を言っている最中に、三島先輩の声が聞こえてきた。思わずビクッとたじろいだ私は、三島先輩に膝カックンをお見舞いされた。
「うえぇ!?」
「今日も、ごめんね」
変な声を出して目を白黒とさせる私に、昨日同様、高木先輩が申し訳なさそうに謝ってきて。それと同時に、膝から崩れ落ちた状態の私を、先輩はお姫様抱っこで持ち上げた。
「よし、いいぞ、高木! そのまま突っ走れ!」
「ひにゃー!!!???」
高木先輩は、三島先輩の号令に合わせて脱兎のごとく走り出して。それに驚いて、やっぱり昨日と同じく変な叫び声をあげてしまって。しかも、「嫌」って言ったつもりなのに噛みに噛んでひどいことになって。もう、本当に、恥ずかしくて恥ずかしくて、穴があったら入りたかった。――ていうか、お父さんにもお姫様抱っこなんてされたことないのに! 人生初の〈乙女の憧れ〉が、こんな形で達成されちゃうだなんて! なんて情けないの、やり直せるならやり直したいよ!
ちなみに、サカゲキに顔を出した一年生は裕子ちゃんと私を含めて十人もいなかった。その十人の中に、笹森さんは残念ながらいなかった。
その光景に愕然とした横溝先輩は、ゆっくりと三島先輩のほうへと視線を向けると笑顔を浮かべた。
「ねえ、キミちゃん。昨日は、一体何をしたの? どうしたら参加者が三分の二も減るの? ねえ、何で?」
横溝先輩、笑ってたけど、目だけは氷のようだった。すごく、怖かった。
本日の活動内容は、内観ワーク以外は昨日と同じだった。終わって、三島先輩に絡まれる前にさっさと帰ってしまおうとコソコソとしていたら、ばっちりと目が合ってニヤリと笑われた。悪い予感しかしなかった。
その予感は的中して、さらに翌日は教室から出て二秒で三島先輩と目が合った。変わりたいし、取り戻したいというのは私の嘘偽りのない本心ではあるけれど、こうも強制的に来られると、やっぱり尻込みしてしまう。気が付けば、私は先輩から逃げるように全力で走っていた。大勢の人目も、はばからずに。そして結局捕獲されて、変な悲鳴をあげてと、この上なく恥ずかしい思いをした。
そのさらに翌日、私はとうとう根負けして出迎えた三島先輩に開口一番「今日も参加しますから!」と宣言した。三日も続けて恥ずかしい思いをして、あれだけ騒ぎ立てたんだもの、もう〈できる限り誰とも話さないで過ごしたい。むしろ、無言で高校生活を終えたい〉だなんて思うだけ無駄だし、そういう自分を変えたいと思っているなら今すぐ変わらないと、いろんな意味で逃げられないなと思ったのだ。これはもう、腹をくくるしかないんだって……。
先輩は少しだけびっくりした表情を浮かべたけれど、すぐに嬉しそうに、そして自信たっぷりに私に向かってうなずいた。
部活が終わってから、私は三島先輩に声をかけようとした。しかし、私が話しかける前に向こうから声をかけてきた。
「吉崎、あんた、宣言通りにちゃんと来たね。偉いぞ」
「ありがとうございます」
そう返すなり、先輩は顔をしかめて大仰に驚いた。私の声が、がっさがさで聞けたものじゃなかったからだ。
「普段、こんなに声を出すことがないものですから……」
「だからって、声帯弱すぎでしょ。部活で、しっかりと鍛えなよ」
「はい。あの……」
私は、言い淀んだ。あれだけ聞こう聞こうと思って、自分から声をかけようとまで思っていたのに。この期に及んで怖気づいた。でも、それは先輩もお見通しだったようで、出し抜けに「あと十秒」と返してきた。
「えっ、あの……!」
「二年はまだ部活動やってるから、戻らないといけないんだよ。ほら、五、四……」
「あ、あの! 私も、花を咲かせられますか?」
そう言ったあとの私は、きっと間抜けな顔をしていたと思う。ぎゅっと握りこんだ両の手は、手汗がひどかったし。なんか、どんどん顔が熱くなってきたし。呼吸をしてるかどうかも、よく分からないくらい、ちょっと苦しかったし。
変な質問をしてしまって、とても恥ずかしくて。私は捲し立てるように、慌てて付け加えた。
「えっと、ステージの華なんて、そんな御大層なものじゃなくてですね。青春の花。そう、青春の花でいいんです。あの、えっと――」
「私が拉致ってまで、あんたをここに連れてきた理由、教えてあげようか?」
先輩の返答が知りたくて、私は即座に口をつぐんだ。そのときに呼吸をすることも忘れちゃっていたんだろう、先輩が呆れ返ってため息をついた。
「息くらい吸えよ、不器用だなあ!」
「あ、はい、すみません……」
先輩はもう一度、ため息をついた。――先輩は忙しいのに、無駄な時間を使わせちゃった。そう思ってすごく気が落ち込んだんだけど、先輩はそんな私に啖呵を切るように「連れてきた理由!」と言ってにやりと笑った。そして、もったいぶるように、ひそやかに、言葉を紡いでくれた。
「華が、あったからさ。その声はまるで、あんたの名前そのものだ。竪琴の弦を、ポンと弾いたときのように軽やかで。華やかで。そして、気持ちがいい。あの日、大丈夫ですかと声をかけられたとき、私は感謝した」
「ぶつかって、謝りもしなかったのにですか?」
「そんなことは些細なものだよ。――とにかく、私は感謝したんだ。そして、いつか、私が作りあげる花束の中に、あんたという花を加えたいと思った」
私が首を傾げていると、先輩は将来、戯曲作家か演出家になりたいと思っていると教えてくれた。
「物語というものはね、花束なんだよ。観客に愛を、希望を、そして喜びを伝えるためのね。私の精一杯の想いを伝えるためには、素敵な花――つまり、私の納得がいく役者を用意したい。あんたはまだほころぶ気配もない小さなつぼみだけど、いつか絶対に大輪を咲かせるよ。青春の花はもちろんだけど、ステージの華もね。私が、そうさせる。そのようにさせてみせるよ。だから、あんたの青春を、サカゲキ……いや、私にちょうだいよ」
正直、そんな遠い未来のことなんて分からない。こんな、しゃべるだけでも恥ずかしくて、いっぱいいっぱいで、ちゃんとできているか不安なのに。だけど、不思議だ。先輩がそう言うなら、そうなれそうな気がしたんだ。だから私は、差し出された手を迷わずに握り返した。どんな色の花を咲かせるかはまだ分からないけれど、きっと綺麗な色をしているんだと信じて。