1
サカゲキでの体験入部一日目が終わって、さあ帰ろうと校門を出ようとしたら。私の名前を叫びながら、こちらに向かって必死に走ってくる女の子がいた。ほんの少しだけ、怖いな、逃げちゃおうかなという気持ちが沸いてきたんだけれど、その子がサカゲキの体験入部者だと分かって、逃げちゃだめだと思い直した。――三島先輩が教えてくれたんだ、私は逃げ込んで、閉じこもらなくてもいいんだって。ここで逃げたら、また振り出しに戻ってしまう。
それでも、まだ、足が少し震えてた。笹森さんみたいに、私のことを怒りにきたのかもと思って。だけど、私のところまでやってきたその子は、必死に息をついていて、そしてとても申し訳なさそうな顔をしていた。
「吉崎さん、私のこと、覚えてる? 実は、小学校で同じクラスだったんだけど……」
息切れしながらも、彼女は声を絞り出すようにそう言った。けれど、私は全く思い出すことはできなかった。幼かった私には、耐えきれなかったのだ。あのつらい日々が。だから、友達を失ったきっかけとか、どういう嫌がらせを受けたとかは漠然と覚えてはいるんだけれど、クラスメイトの顔や名前なんかは忘れてしまっていた。それに関連してなのか、私の小学生のころの思い出は全ておぼろげなのだ。
忘れてしまったのは、思い出したくなかったからなんだと思う。思い出したら、壊れてしまいそうだから。ただただつらくて、苦しくて、悲しくて。気がつけば、そういう気持ちがあったという痕跡と、恐怖心だけが残って。それ以外は、何も思い出せない。何も。何もだ。
私が小さく首を横に振ると、彼女は泣きそうになりながら「ごめんね」と謝ってきた。私が戸惑っていると、彼女はぽつりぽつりと話し始めた。
「私ね、吉崎さんがしゃべれなくなったきっかけ、多分間違ってなければだけど、知ってるの。私、そのとき、同じクラスだったから」
彼女によると、彼女は私が仲よくしていたグループとは別のグループにいたそうだ。だから、私とはあまり話したことはなかったらしい。
彼女には年が少し離れたお姉さんがいるそうで、そのお姉さんがアニメオタクなんだそうだ。だから、彼女にはアニメや漫画に対しての偏見がなかった。そして、オタクなお姉さんを通じて声優という職業があるということも当時すでに認識していたそうだ。なのでむしろ、アニメ声な私のことを羨ましいとさえ思っていたという。
「だからね、あのとき、吉崎さんに『アニメみたいなキモい声』って言ったやつに、すごい腹が立ったんだ。アニメはすごいんだぞ、みんなに夢や希望を与えられるんだぞ、って。そして、そのアニメに魂をこめる職業である声優さんになれるかもしれない吉崎さんのその声は、生まれながらの才能で、誰でも持てるものじゃないんだぞ、って」
彼女は、すぐにその場でそう反論したかったらしい。でも、アニメはキモいと思っている人たちの多いコミュニティーだったから、そんなことを言った日には虐められてしまう。――そう思ったら、反論の言葉を中々言い出すことができなかったそうだ。
「私、あのあとすぐに、親が離婚して引っ越したんだ。引っ越してすぐのころは吉崎さんのことが気がかりだったんだけど、新しい生活に慣れるのに必死すぎて。ついさっき、吉崎さんが先輩に泣いて訴えるまで、そのこと忘れてた。あのとき、私が虐めに怯えずに反論してたら、吉崎さん、こんなに苦しんでなかったかもしれない。もっと、笑ってたかもしれない。でも、味方になってあげらなくて、吉崎さんの周りから少しずつ人が離れていくのを黙って見てて、そして今まですっかり忘れてて。私は立派な加害者だよ。本当に、ごめんなさい」
ぼたぼたと涙を流す彼女を見つめながら、私はとても不思議な感覚を覚えていた。私の頭上のさらに上のほうに、もう一人私がいて、この光景を漠然と見ているっていうか。まるで他人事のように、この光景を見ている自分がいるような感じ。そして私は目の前の光景に驚いて頭が真っ白なはずなのに、他人事のように私を見ている私は「あのときのことを、苦しくて悲しいと思っていたのは私だけじゃなかったんだ」と思った。そのことに気がついたら、遠くで俯瞰していた私がどんどんとこの私に降りてきて。ひとつに合わさった瞬間、いろんな気持ちが沸き起った。喜び、怒り、悲しみ、驚き。今まで忘れていた感情の、全てが間欠泉の水蒸気みたいに一気に噴き出した。
私は泣き出していたようで、彼女はいっそう申し訳なさそうな、悲しそうな表情で言った。
「今さらこんなこと言われても、困ったよね。ごめん。私、考えもなしに……」
「ううん、あのね、違うの。ありがとう」
私が唐突に感謝したものだから、彼女は戸惑っていた。でも、真っ先に伝えたいと思ったんだ。私はあのときからずっと、独りぼっちだと思っていたから。私のために心を痛めて、こうやって泣いてくれる人がいるだなんて知らなかったから。あのときにこうしていればとか、今さらとか、そんなものは関係ない。忘れたままでいるんじゃなくて、思い出してくれた。それだけで嬉しかった。そして、今度こそ寄り添おうと思ってくれた。それが嬉しかった。本当に、嬉しかった。
彼女は涙をぬぐうと、遠慮がちに笑った。
「E組の富田裕子です。引っ越す前の苗字は、水瀬。よかったら、今度こそ友達になってください」
差し出された手を、私は握り返した。私の思い出の中にずっと埋もれたまま忘れていた種が、小さな芽を出したような気がした。




