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翌日から、さもにゃんは本当に私の家に通いつめてくれた。歌おうとすると音が聞こえなくなる私の代わりに、私の声と本来歌うべき音のすり合わせをしてくれた。
「もう少し高く。そこは低めで。きちんと、筋肉を意識して。――ほら、無理に喉を使わないで! 〈上半身はリラックス〉でしょ!? 筋肉で支えて、頭の上を音が通過するイメージを忘れないで!」
少しだけ手厳しくはあったけれど、ドを探す旅をしていたころを思い出して、懐かしくて、がぜんやる気が出た。
裕子ちゃんや圭吾君が差し入れを持ってきてくれることもあった。ふたりは〈音〉を取り戻そうと必死の私を見て、私の声を聴いて、とても喜んでくれた。今まで、私が諦めて、落ち込んで、ひとりで傷ついて暗くなっていたから。それが、明るさを取り戻して、前を向いているから。心の底から、嬉しいと思ってくれているみたいだった。そんなふたりの笑顔が、私にはとても心強かったし、支えにもなった。
練習を重ねていくにつれて、裕子ちゃんが褒めてくれることが増えてきた。そのたびに、私もパズルのピースがはまるような感覚を覚えた。ドを探していたときと同じ、あの感覚。正しい音が出せたときの、あの気持ちのよさ。それが徐々に増えていって、〈音〉が私の中に確実に蓄積していくのを感じて。少しずつ、歌っているときの自分の声も聞こえるようになってきている気がした。
そして、ゴールデンウィーク直前のある日。伴奏を弾き終えたさもにゃんが、何も言わずに固まった。私は、もしかしてまた〈音〉がおかしくなってしまったのかなと恐怖して、じわじわと寒気を感じた。だけど、さもにゃんがポロポロと泣きだして、恐怖も寒気も吹き飛んだ。
「琴音ぇ……。やったねえ……! ちゃんと、歌えてるよ! 〈音〉、ちゃんと戻ってきたよ……!」
「本当に……!? えっ、待って、もう一回歌わせて!?」
さもにゃんはこくこくとうなずきながら、涙をぬぐってピアノを弾き始めた。
すうと息を吸って。さもにゃんの奏でるメロディーに、自分の声を乗せて。歌い進めていくごとに、聞こえてくる音が明確になっていく。歌い終わると、あのドを捕まえることができたときのような、視界が開けて、世界が色づくような、そんな感覚を味わって。――ああ、〈音〉が帰ってきた。私の中に、ちゃんと帰ってきた。今、ここに。私の体のすみずみに。血流に乗って、体の中を〈音〉が巡り巡っている。〈音〉は、私と一緒に、ここにちゃんと存在している……!
さもにゃんは立ち上がると、私のほうにやってきて。そして、力強く抱きしめてくれた。私は彼女に何度もお礼を言いながら、精いっぱい抱きしめ返した。
そのあと何回歌い直してみても、別の歌を歌ってみても、きちんと音は聞こえたままだし、きちんと歌えた。音が聞こえなくても歌えるということが自信になったのか、もう歌に対してプレッシャーもストレスも感じてはいないようだった。
そして迎えた、ゴールデンウィーク明けの部活動にて。久々に歌唱組のほうに顔を出した私に、先輩も二年生たちも心なしか冷たかった。オーディション参加者は、裏方に回された歌唱組の人たちのほとんどと、群衆役のうちの数人。そして、仮入部中にオーディションのうわさを耳にした、意欲あふれる一年生も何人かいて、結構な人数となっていた。
オーディション参加者はひとりずつみんなの前に出て行って、ブリキの歌を歌っていった。参加者全員が歌い終わると、三島先輩が全員を見渡して小首を傾げた。
「これで、全員歌ったね? じゃあ、これから、先生と一緒に審議するから」
「あの、すみません。私も歌っても、いいですか?」
解散と言いかけた先輩に、私は待ったをかけた。先輩は期待に満ちた視線を、私に送ってくれて。私は、それに精いっぱい応えようと思った。
歌い終わってすぐ、拍手をしてくれる人がいた。それは、オーディションの様子を見学していた美澄さんだった。彼女は誰の歌い終わりにもそんなことはしなかったのに、私には拍手を送ってくれた。それだけで、私は十分幸せだったし、力のかぎりやりきったとすら思えた。
私は美澄さんの拍手に、勢いよくお辞儀をすることで返答とした。下げていた頭をあげて、改めて音楽室中を見渡してみると。誰もが、ぼうっと惚けたような顔をしていて。その様子に戸惑っていると、三島先輩が満足げに言った。
「みんな、ブリキ役の変更はなしで異論はないね!?」
誰も、何も言わなかった。すると、見学者側にいた裕子ちゃんが泣きながら拍手をしてくれて、圭吾君も一生懸命に手を叩いてくれて。そしたら、少しずつ拍手の音が大きくなっていって。いつの間にか、その場にいた全員が拍手をしてくれていた。一番後ろのほうでは、先生も泣いてくれていた。普段はケロッとしていた先生だけれど、私と同じような経験をしたことがあるからか、内心ではまるで自分のことのように心配してくれていたんだろう。
私は、私のことを信じて待ってくれていた人たちと、支えてくれた人たち、そして受け入れてくれた人たち全てに感謝した。そして声のかぎり「ありがとうございます!」とお礼を言うと、もう一度、深々と頭をさげた。
大会当日。私は、学校の体育館よりも広くて大きな舞台の中心にいた。たくさんの人々の前で、スポットライトを浴びて。ブリキちゃんの姿をして、思いのたけを訴えるように歌っていた。
私は、他人の好きなこと、他人が興味のあることが苦手だった。そもそも、他人と何かをするのが苦手だった。可能な限り、他人と関わりたくなくて。傷つくのが怖くて。だから、独りぼっちでいることを自ら選択していたはずだった。――――それなのに。今、私は光の中心にいる。スポットライトを一身に浴びて、周りにはたくさんの仲間がいる。私はずっと、この光を待っていた。この青春を待っていたんだ。
過去に感じていた寂しさ、切なさ、悲しさを。素晴らしい友人たちに出会えた喜びを。これからも、その喜びを大切にしていきたいという思いを。ブリキちゃんの歌に全てこめた。そうすれば、ブリキちゃんが〈友達〉に感じた想いの全てが、舞台を見てくれている人たちに伝わると思ったから。
ブリキちゃんの気持ちよ、叫びよ、どこまでもどこまでも飛んでいけ! ひとりでも多くの人に、ブリキちゃんの想いよ、届け! ――そう思いながら、私は会場中に声を響かせた。そして歌い終わった私は、まだ舞台が終わっていないにもかかわらず、割れんばかりの拍手に包まれたのだった。