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翌日、私は学校につくとさもにゃんに「今日は部活を休む」と伝えた。病気由来の頭のくらくらが、昨日の朝ごろは「このくらいなら、まあ気にはならないかな」と思っていたんだけど、一日を通してみたら結構しんどくて。くらくらを抑える薬くらいなら耳鼻科でも処方できると聞いていたから、もう一度病院に行こうと思ったのだ。さもにゃんはそれに了承すると、私にすごく真剣なまなざしを向けた。
「部活が終わったら、あなたの家に行くから」
一体、どうしたんだろう? 昨日言っていた〈考え〉というやつに関係することなのかな?
学校が終わり、私は病院から帰ってくると、ラフな格好に着替えてベッドに寝転んだ。普段私はめったに病気にはならないから、今朝「学校帰りに病院に行ってくるね」とお母さんに伝えたら、すごく心配されて。どうしたのかと何度も聞かれたんだけど、軽い風邪だとごまかして。ちょっと体調が悪いから休むといって、部屋にとじこもったというわけである。
さもにゃん、どうしたんだろう? と考えながら、ゴロゴロとしていて、しばらくするとお母さんが部屋に来て「お友達がお見舞いに来たわよ」と言った。何故か、お母さんは心なしかウキウキしている。私はそれを不思議に思いながらも、上がってもらうようにお願いした。そして、ベッドの上にちょこんと座ってさもにゃんが来るのを待った。――だけど、部屋に入ってきたのはさもにゃんだけではなかった。
「うえええええ!? ちょっと待って、何で圭吾君もいるの!?」
私は取り乱して、上に羽織れるものがないかを探して思いきりキョロキョロした。さもにゃんにならこのくらいのラフな格好、合宿とかお泊り会とかで散々見られているから平気なんだけれど。さすがに、男の子に見られるのは恥ずかしくて。でも、手に届く範囲に羽織れるものが何もなくて。とりあえずお布団にくるまって顔だけ出したら、さもにゃんがブフッと噴き出した。
「琴音、そっちのほうがおもしろすぎるし恥ずかしいから、カーディガンか何か着なさいよ。宮本には、後ろ向いててもらうから」
圭吾君も、口もととお腹をおさえてクックと小さく笑っていて。そのあとすぐに後ろを向いてはくれたんだけど、おかげでとてつもなく恥ずかしかった。もういっそ、布団の底に溶けて消えてしまいたいくらい。
お待たせ、と私が声をかけると、ふたりはようやく荷物を下ろして、カーペットの上に座り込んだ。ゴトンという通学かばんを下ろしたにしては厳つい音がして、そこで私は、ふたりがキーボードを運んできていたことにようやく気づいた。ボランティアに行くのはまだ先のはずなのに、どうして持ってきたんだろう? と思いつつ、落ち着いた状態で宮本君の顔を見たら、私の胸はじくじくと痛みだした。
圭吾君もブリキちゃんの役を立候補したということは、きっと彼も、私が抜擢されたことを快く思っていなかったからかもしれない。今まで仲よく、いつも一緒に練習していたはずのに、本当はそのように思われていただなんて。そう思うと、苦しくて悲しかった。
私が俯いてしまうと、圭吾君はすぐさま「違うから!」と声を張った。そのまま彼は、弁明するように捲し立てた。
「俺、別にお前からブリキを取り上げてやろうとか、思ってねえから! お前ほどブリキを大切にしているやつはいねえと思うし、お前以外のやつにブリキをやってはもらいたくなくて! それで、他の誰かがやるくらいなら、いっそ俺がやってやろうって思ってさ!」
私が顔をあげると、圭吾君はさらに早口になって、目を白黒とさせた。
「だって、お前以外のブリキなんて、見たくねえんだもん! 俺自身がやれば、少なくとも〈お前以外が演るブリキ〉が視界に入ることはないだろ? それでも、セリフも歌もお前の声で聞こえてこないから、十分嫌なんだけど。だって俺、お前の声、好きだし。ていうか、そもそも、お前のことがす――」
圭吾君はハッと我に返ったかのように息を飲み込むと、慌てて口を手でふさいだ。彼の顔はどんどん、耳まで真っ赤になっていって。私もつられて顔が朱色に染まった。
さもにゃんは、しかめっ面で口をあんぐりと開けて、そして圭吾君をこれでもかというくらいに睨みつけていた。少しして、彼女は腹を立てているような雰囲気で声をひっくり返した。
「そういうことは、もう少し計画性を持ってやってよ! せめて、私のいないところで、ふたりきりで!!」
「いや、あの、ついうっかり、勢いで……」
「うっかりで済ましたら駄目なことでしょう! 馬鹿じゃないの!? しかも、何でこのタイミングなのよ! まるで、弱気になったところにつけこんでるみたいじゃない!」
圭吾君は、見たこともないくらいに、しょんぼりと肩を落として縮こまった。そして思考が追いつかなかった私は、うっかりさもにゃんに尋ねてしまった。
「ごめん、えっと、何のこと……?」
「何って、告白に決まっているでしょう! 今、こいつ、琴音のことが好きって――」
「わああああ! 笹森! せっかくノーカンで仕切り直しできそうな感じだったのに、なんで言っちまうんだよ、馬鹿ぁ!」
ようやく理解した私は、さっき以上に顔が真っ赤になった。圭吾君は両手で顔を完全に覆うと、俯いて動かなくなった。彼は真っ赤を通り越して、まるで焼け焦げたみたいになっていて、ぷすぷすと煙があがるのが見えるようだった。
さもにゃんはそんな私たちのことなんか構うことなく、「まあ、それは置いといて」と言った。置いとかれてしまった圭吾君は、俯いた状態のままびくりと身じろいだ。さもにゃんには悪いんだけれど、置いとかれてしまうと、私もちょっと気まずいんだけれども……!
それでも、さもにゃんは気まずい雰囲気をものともせず、真剣な表情で話し始めた。
「ねえ、琴音。ブリキちゃんのこと、諦めずに、歌ってみない?」
さっきまでの恥ずかしさと気まずさは、どこに行ってしまったんだろう。私の頭の中は一瞬で真っ白になって、自分だけ時間が止まってしまったような、そんな苦しい感覚を全身で感じた。
何で、そんなひどいことを言うんだろう。私には、もう何も〈音〉が残っていないのに。私は、もう歌うことができないのに。そんなことを思って、私は耳をふさいでしまいたかったけれど、さもにゃんはなおも真剣に話し続けた。
「あの、いつもあっけらかんとしている向坂先生もね、大学生のときに耳管開放症になったことがあるんだって」
思わぬ話題に、私は目を見開いた。何でも、校歌の伴奏をするたびに「弾けないピアノを弾かされて、死にそうだった」と愚痴を漏らす先生は、実は周りもドン引くくらいの小心者なんだとか。だから、「死にそう」というのは冗談ではなく、毎回本気でそう思っているらしい。学生時代はもっとビビりぐせがひどかったそうで、身内しかいない練習会で歌えなくなって泣き出してしまい、師匠に「あんなに練習したんだし、そもそも練習会なんだから失敗してもいいのに、何で泣くのよ」と呆れられたこともあるという。
その話を聞いて、私は理解した。入学式のあとの自己紹介のときに、先生が私に無理強いをしなかったのは、似たような経験をしてきたからなんだと。人目にさらされる恐怖、苦しさ、つらさを知っているから、まだ準備のできていない私に強要はしなかったんだと。
さもにゃんは呆れ顔を浮かべると、フンと短く息を吐いた。
「そのわりに、舞台に立ちたいという気持ちが強くて、卒業後に散々オペラやミュージカルに出てたみたいだけど。それでも毎回舞台にあがるまえは『もう、無理。死ぬかも』と思うそうだし、今でも全然慣れないみたいで。――おっと、話が逸れたわね」
「先生、私と同じ病気にかかってたんだよね? なのに、ちゃんと大学を卒業して、舞台にも立てたの……?」
恐る恐るそう尋ねると、さもにゃんは力強くうなずいた。どうやら、ここからが話の本題らしくて、さもにゃんは少しだけ身を乗り出すようにして、私に近づいてきた。
「先生もね、プレッシャーに押し負けて、歌うのがストレスになって病気になってしまったんですって。当然、レッスンもボロボロだったそうなんだけど、師匠が病気のことを受け入れてくれて、一緒に音を筋肉に覚えこませる作業をしてくれたんですって」
とても懐かしいフレーズに、私は思わずきょとんとした。それはドを探す旅を始めることになったときに、先生が言っていた言葉だった。その教えを守って、私たちは音を体に刻み込む作業をしていたのだ。まさか、それを今またここで聞くことになるだなんて。
「先生は固定ドさんだったから、自分が苦手な音域のときしか筋肉を意識して来なかったそうでね、楽に歌える音域のところはほぼ無意識に声を出していたんですって。だから、その作業をするのはとても苦行だったみたいなんだけど。めげずに覚えこませる作業をして。ある日、ようやく師匠から『ちゃんと歌えている』って褒めてもらったときに、自分の中に〈音〉が戻ってきたって言っていたわ」
私は、声が出しにくい音域で音が下がり気味だったそうだ。それは、体が慣れて、そこまで筋肉に集中しなくても歌えるようになった分、耳に頼って音の微調整をするようになっていたからだそうだ。また、声の出しやすい音域で音が行方不明になっていたそうなんだけれど、それは、無意識にでも歌えるようになっていたから。ある意味、慢心して、筋肉の使い方を忘れてしまったと言ってもいいかもしれない。
私は少しだけ、そんな自分を恥じた。でも、それよりも、しおしおになって枯れようとしていた心に、みずみずしさが戻っていくような、そんな気持ちのほうが大きく感じた。
「じゃあ、私、また歌えるようになるの……?」
「琴音が望むならね。あなたには、すでに苦行の経験がある。学生時代の先生よりも、アドバンテージが大きいわ。だから、もしかしたら、オーディションまでに〈音〉が戻って、ブリキを誰にも譲らなくてよくなるかもしれない。もちろん、さらにプレッシャーになって病気が悪化するかもしれないから、私は無理強いできないけれど……」
私は、気がついたら泣いていた。私が望めば、〈音〉が戻ってくる――その言葉が、何よりも嬉しくて。やっぱり、神様はいたんだ。私は、見捨てられてなんかなかったんだって。心の底から、感謝した。
「私、病気のせいで歌うことを諦めるほうが、よっぽど苦しい。私、もう一度歌えるようになりたい……! 〈音〉を、取り戻したい……!!」
ボロボロと泣きながら必死に訴える私に、さもにゃんは安堵の笑みを見せた。
「じゃあ、このキーボード、ここに置いていくわね。明日からの部活は、歌唱組には顔を出さなくていいわよ。また先輩たちに絡まれても、ウザったいだけだしね。裕子と一緒に、家庭科室で衣装でも作っていて。――部活が終わったら、ここで特訓しましょう」
さもにゃんの提案に、私は戸惑った。だって、それだと、さもにゃんがピアノの練習をする時間がなくなってしまうから。それは、とてつもなく申し訳ないと思った。だけどさもにゃんは、ちょっとだけ怒ったような表情で、口を尖らせてぶっきらぼうに言った。
「私のピアノの練習時間なんて、いくらでも作れるわよ。うちの電子ピアノ、消音モードが付いてるし。そんなこと、気にしないでよ。私は、いくらだって琴音の耳になるわよ。だって、琴音は私の大切な友達で、本当に大好き――」
さもにゃんは、ハッと我に返ると、慌てて口を手でふさいだ。その横では、圭吾君が愕然とした表情でさもにゃんを睨みつけていた。
「何だよそれ! 人のことは散々なじっておいて、自分はいいのかよ!」
「うるさいわね! 私はあんたとは違うからいいでしょ! だって、あんたのは愛のこくは――」
「わあああああ! 馬鹿、やめろ、蒸し返すな! 勘弁してくれよ!」
ついさっきも見たような気がする光景に、私は思わず笑いだした。ふたりは私の笑顔を見て安心したのか、それとも恥ずかしくてたまらなくなったのか、そのあとすぐに帰っていった。
――諦めなければ、〈音〉が帰ってくる。私は、優しいふたりが残していったキーボードを見つめながら、希望に胸を膨らませたのだった。




