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ずっしりとした防音扉を慌てて閉じて、静寂の中に逃げ込んだはずなのに。耳の奥ではずっと、お兄ちゃんの迷惑そうな声がリフレインしていた。何度も、何度も「歌なんか歌っちゃって」という言葉がこだまして、頭に、体に重くのしかかった。そこから芋づる式に、忘れていたもの、忘れたかったものがブワッと噴き出てきた。
特徴的な声を大勢の人の前で馬鹿にされて、笑われたこと。そこからいじめに発展したこと。唯一の安全地帯だと思っていた家庭内でも、声のことで暴力を振るわれたこと――。
当時、お兄ちゃんは高校受験に向けての準備で日々イライラとしていた。それから、お母さんが言うには〈思春期だから、子どもっぽいものを恥ずかしいと思うのかもしれない〉というのもあったらしくて。そういう鬱憤の全てが、運悪く私に向いてしまったみたいで。私が何か話すたび、ひどいときにはまだ何も話そうともしてない状態でも、お兄ちゃんは「そのウザい声でしゃべるな」と癇癪を起して私に手をあげた。
正直、私はとてもショックだった。だって、自分の声を子どもっぽいだなんて、私自身は思っていなかったから。同級生からだけでなく、まさか家族からもそう思われていただなんて。悲しくて苦しくて、つらくてしかたがなかった。
嵐のようにやってきた負の感情に押し負けて、私はその日の夕飯時にリビングに降りていくということができなかった。心配したお母さんが部屋までご飯を運んできてくれたけれど、ひとくち食べただけでもどしそうになったから食べるのを諦めた。そのまま死んだように寝て、起きてみたらお昼過ぎ。朝、一度起きたんだけれど、人と話すことの恐怖が一瞬よぎって、そのあとすぐに意識が飛んだのだった。
午前中にさもにゃんから、午後に入ってからは裕子ちゃんからも〈風邪でもひいたの? 大丈夫?〉という感じのメールが来ていた。きっと、お昼ご飯のときにさもにゃんが裕子ちゃんに私が欠席していることを伝えたんだろう。
夕方ごろになると、今度は三島先輩からもメールが来た。〈先日のおでかけが楽し過ぎて、知恵熱的なものでも出したのか?〉という内容だった。たしかに、あの日ははじめてのことづくしで、とても楽しかった。同時に、疲れもした。多分、はじめてだらけだったから変に緊張していたのかもしれない。先輩はそれに気づいていて、だから〈知恵熱的なもの〉と聞いてきたんだろう。
(私なんかのことを心配してくれている人が、こんなにもいる……。でも……)
頭の中をぐるぐると回り続けている恐怖に打ち勝つことができなくて、私は誰にも返信を送ることができなかった。
次の日も、部屋から出ることができなかった。メールに返事ができなかったことで、余計に恐怖が増してしまったのだ。それではいけないと思って頑張ってスマホを手に取ったけれど、文字を打とうとするだけで指が重たくなるように感じて、頭も枕にめり込んでいきそうな気さえした。
さらに翌日。裕子ちゃんから電話がかかってきた。こんなにも、着信音が怖いと感じたことはなかった。それでも頑張って、何度目かの着信で電話に出たんだけれど。
「琴ちゃん、ひどい風邪をひいたって聞いたんだけど。電話、大丈夫だった?」
「あ……。――――ごっ……」
息も満足に吸えなくて、言葉が喉の奥に詰まって出てこなくて。さすがに何かがおかしいと感じた裕子ちゃんが「どうしたの?」と血相を変えたような調子で尋ねてきたんだけれど、私は何も答えることができないどころか、脊髄反射で電話を切ってしまった。
そのあと何度か着信があったんだけれど、私はその音に怯えてスマホをサイレントモードにして枕の下に隠した。しばらくして、もう誰からも連絡なんてこないだろうと思ってスマホを取り出したとき、まるで手に取った瞬間を見ていたのかというようなタイミングでスマホの画面がピカッとついた。――三島先輩からの着信だった。
私は、恐る恐る電話に出た。すると、開口一番に聞こえてきたのは〈もしもし〉でも〈大丈夫?〉でもなく――
「誰だ、私の華を枯らそうとするやつは。今から殴りに行ってやるから、早く教えな」
それは、はらわたが煮えくり返っているとでもいうかのような、怒りだった。
遠くのほうから、裕子ちゃんとさもにゃんの「それは解決するどころか、こじれるだけです」や「先輩、落ち着いて!」といった声が聞こえた。それから、どの先輩かは分からないけれど「君世、放っておきなよ。そんな子、劇部なんて向いてないよ」という声も聞こえた。
私は、その先輩の言う通りだと思った。こんなことで無断欠席みたいなことをする私なんかが、誰かの前で歌ったり踊ったりなんかできるはずながいじゃない。そもそも、こんな恥ずかしい声の私がそんなことしたら、お目汚しならぬお耳汚しもいいところだ。――そんなことを思いながら電話を切ろうとしたら、電話口を押さえるとかそういうこともせず、外野に顔を向けてしゃべったみたいな感じの先輩の声が聞こえてきた。
「向いてるかどうかは、あんたが決めることじゃないだろう」
「ていうか、まず先に後輩の心配をしません? 器量が乏しかったら、心豊かに歌劇なんてやれないと思うんですけど。先輩のほうが向いてな――」
「さもにゃーん! 火に油、注がないのー!!」
三島先輩に続いて、他の先輩と喧々囂々のさもにゃんと、それを止める裕子ちゃんの声。殴り合いにでも発展しそうになっているのか、さらに高木先輩と圭吾君の焦り声が重なった。
そんなやかましいBGMをバックに、三島先輩が私に再び話しかけてきた。
「いいかい、吉崎。よーく聞きな。私は、あんたという華を絶対に諦めない。手折ったり、枯らしたりしようとするやつがいるのであれば、喜んでぶん殴りに行く! あんた自身が、諦めない限りはね。――で、どうする? 誰を殴ればいいの?」
そのまま、私は答えることもできずに泣き出してしまって。気がつけば、通話は終了していた。きっと今度こそ呆れられてしまったんだと落ち込んで、私はまた泣いた。
泣いて泣いて、泣き濡らして枕に染みができて。泣き疲れてうとうととしてきたころ、突然部屋の扉が開けられた。
「うわっ! おっも! 防音室の扉って、こんなに重いの!?」
開いた瞬間に聞こえてきたのは三島先輩の声で、驚いてそちらに顔を向けてみると、先輩だけでなく裕子ちゃん、さもにゃん、圭吾君、そして何と高木先輩もいた。
予想外のできごとに私がぽかんとしていると、三島先輩はにっこりと笑って握りこぶしを振り上げた。
「で? あんたが今、そんな状態になっているのの原因は、多分だけど兄だよね? 何時ころ帰ってくる? 私に任せな、ぼっこぼこにしてあげるから」
「だから、キミちゃん。そういうのは、こじれるだけだからやめようね」
苦笑いを浮かべながら、高木先輩が三島先輩の腕を掴んで力ずくで降ろさせた。高木先輩はどうやら、三島先輩が宣言通りに暴れ放題しないための見張り役として来たらしい。とても申し訳なさそうに「毎度ながら、本当にごめんね」と謝ってくる高木先輩に「こちらこそ申し訳ない」と思うと同時に「毎度ながら、本当に大変ですね」とも思い、少しだけ同情した。
一年生組は先輩たちの後ろに並んで立っていたんだけれど、その中で、ぷんすかと腹を立てて高木先輩の脇腹にジャブを入れている三島先輩をよそに私に近づいてきた人がいた。――さもにゃんだった。
さもにゃんはムスッと怒ったような表情を浮かべていたけれど、そのまま私に抱きついてきて。私が声も出せずに固まっていると、表情そのままの声でさもにゃんが言った。
「大好き!」
「さも――」
「大好き!!」
どうしたらいいか分からないまま、私は固まっていた。すると、裕子ちゃんも近寄ってきて、私をさもにゃんとサンドイッチする形で抱きついてきた。
「だーいすき! 愛してる! 愛してるー!!」
裕子ちゃんの可愛らしい〈大好き〉に対抗するように、さもにゃんがまた〈大好き〉と言った。でも、やっぱりどこかムスッとしてて。でも、だんだん必死になっていって。二人に挟まれて〈大好き〉を言われ続けて、私はようやく「これは、あの喜怒哀楽ワークだ」と気づいた。
気づいたけれど、返せなかった。拒絶の二文字が脳裏をよぎったから。そしたら、私の心でも読んだのか、さもにゃんが怒りっぽく言った。
「あのね、ただワークのためだけに抱きつくのって、かなりハードルが高いのよ。相手のことを少しでもよく思ってなかったら、できないんだから。こんなことは」
「もお、さもにゃん。素直に〈大切な友達だから〉って言えばいいのに」
ニタニタとした裕子ちゃんの声が聞こえてきた逆側から、さもにゃんの殺気にも似た何かが立ち昇る気配を感じた。――これは、どう返すのが正解なんだろう。そう悩んでいると、圭吾君がしょんぼ顔で尋ねてきた。
「なあ、それ、俺も加わっていいやつ? 俺も一応、お前らと同じ思いでここに乗り込んできたわけなんだけどさ」
私に抱きついたまま、さもにゃんが勢いよく振り返った。きっと、圭吾君のことをギッと強く睨んだんだろう。圭吾君は顔を青くして、口をパクパクと動かした。それに同情したのか、裕子ちゃんと三島先輩が声を揃えて「お気持ちだけで結構」と言った。
さもにゃんと裕子ちゃんが私から離れると、三島先輩が自信たっぷりにニッと笑った。
「好きだよ、吉崎」
一瞬、本気で愛の告白をされたのかと思うほど、胸が高鳴るような言いかたで。思わず耳まで真っ赤にした私に、先輩は続けて「吉崎は?」と聞いてきた。答えに窮していると、先輩はさらに続けた。
「ここにいる全員、みーんな、あんたのことが好きだよ。向坂先生や、横溝先輩も。あんたのこと、好きな人だらけだ。――家の中で嫌なことがあるなら、そんなところで巣ごもりなんかしてないでサカゲキに逃げてきな。あんたのことが大好きなやつら総動員して〈大好き〉してあげるから。嫌だムカつく言われるよりも、大好きって言われるほうが心にもいいだろう?」
「わ……私……。サカ、ゲキに……いても……」
涙ぐみながら、切れ切れだけれど、何とかそう尋ねて。そしたら、三島先輩は満面の笑みで「もちろん!」と胸を張って。
「〈あんたの青春、私にちょうだい〉って言っただろう? 責任もって青春を謳歌させてあげるからさ、私に信じて、ついてきなよ」
私は、ボロボロと泣きながら「はい」と答えた。そして泣きじゃくる私に、裕子ちゃんとさもにゃんが再び抱きついてきたのだった。