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ゴールデンウィークが終わって二日目のお昼休み。私たちの自主練に宮本君が加わった。
「いやあ、恩に着るよ。高木先輩に教えてもらってたんだけど、ほら、先輩たち、これから忙しくなるし。それに、俺の初めての観客をがっかりさせちまうわけにはいかないじゃん? 自分が歌うべき音が分からないんです、なんて言い訳にしかならないしさ」
勢いよくお弁当をかっこみながら、宮本君は笑った。彼は私が笹森さんにマンツーマンで教えてもらったというのが、とても羨ましかったらしい。別に、この自主練は私たち三人だけの秘密ってわけではなかったんだけど、結果的にはそうなってしまったから。すごく〈ずるい!〉って感じの顔で「誘えよ!」って言われちゃったんだ。だから、みんなも誘ったんだけど……本当にやってきたのは、宮本君だけだった。
バレエ教室の子――美澄さんは、ダンサーとしてオペラに参加することもあるみたいで。そこでお世話になっている声楽家の先生に習いに行き始めたらしくて。しかも部活が終わると教室でのバレエレッスンが待っているそうで、だから、休み時間は授業の予習復習に使いたいんだって。他の子たちは、なんか、何かに遠慮しているような感じだった。別に、遠慮せずにくればいいのに。
「ていうか、〈俺の初めての観客〉だなんて、随分とご大層ね」
そう言って笹森さんが苦い顔を浮かべると、宮本君はしれっとした顔で小首を傾げた。
「何で? 嘘は言ってないじゃん。俺は老若男女問わず楽しませることのできるエンターテイナーになりたいんだ。ボランティアだって、全力でいく」
そんな彼がどうして2.5次元ミュージカルの俳優さんを目指しているのかというと、きっかけはSNSで流れてきた書き込みらしい。彼はゲームが好きで、同じゲーム好きと繋がりを持つためにSNSを利用していたそうなんだけれど、そこでゲームをミュージカル化した舞台のレポートをたまたま見たそうなんだけれど。
「富田とかは、オタク文化に明るいだろ? だったら知ってると思うんだけど、あの人たち、本当にすごいんだ。あれこそがまさに、エンターテイナーだと思ったね」
2.5次元の俳優さんたちは、ミュージカルだけでなく歌謡ショーみたいなこともやるらしい。それで、歌い終わって舞台を去るというとき、彼らは観客から見えなくなるまでずっとそのキャラクターでい続けるんだとか。だから、去り際にうちわを振るファンの人たちに手を振って返すとか、そういうサービスをする際に、いち俳優としてお礼をするのではなくて、あくまでもそのキャラクターとして対応するという。だから、周りのことにさほど興味がないキャラは反応しようとしないでツーンとしたままファンの前を通り過ぎようとするし、そのキャラの近くに世話焼きタイプのキャラがいたりすると「ほら、ちゃんと挨拶しなきゃ!」という感じで塩対応キャラに手を振り返させる……ということが起きるんだって。
宮本君はそういう〈細部まで行き届いたファンサービス〉の様子をSNSでいくつも見かけて、俳優さんたちの役者としての矜持的なものを感じたとともに、素直にすごいと思ったそうだ。そしてそのあと調べてみたら、2.5次元に出てた人たちがそのあと時代劇に出るなどしていたそうで、これまたびっくりしたのだとか。
「まさか、うちのばあちゃんが大好きなあの時代劇のあの俳優さんが、2.5次元出身だとは思いもしなかったよ。そうやって、老若男女問わず楽しませることができるって、本当にすげえなと思って。俺、将来はゲームプランナーとかになって『おれのかんがえた、さいきょうのかっこいいばとる』を披露しちゃったりして、それで〈楽しい〉をたくさんの人と共有したいって思ってたんだけどさ。それだと、同じような趣味の人しか楽しませらんないじゃん? 俺はもっともっと、広範囲でエンターテインしたいんだよ」
「宮本君って、すごいんだね」
私は、そう言うのがやっとだった。笹森さんも、裕子ちゃんも、宮本君も。みんな、やりたいことがちゃんとあって、それに向かって頑張っている。そのことを、純粋にすごいと思った。そして、そのすごさに、純粋に圧倒された。みんな、目標に向かってキラキラと輝いていて、すごい。憧れるし、尊敬する。私も、そうなりたい。
ふと、私は自分の変化に気がついて、こそばゆくなった。少し前までの私だったら、こういうとき、「どうせ私なんて」みたいな後ろ向きなことしか思えなかった。それが、みんなと一緒に前を向こうとしているだなんて。
そんな、ほかほかした気持ちでいたら、笹森さんがにやりと笑った。
「吉崎さん、また表情筋が動いてる」
「えっ、うそ」
「本当。笑ってたわよ、今」
「ていうか、笹森さん、何でそんな意地悪そうな感じで言うの? 三島先輩みたいだよ」
「いやだ、部長と一緒にしないでよ!」
笹森さんとそんな言い合いをしていたら、宮本君が不思議そうに私たちを見つめてきた。どうしたんだろうと思っていたら、彼はきょとんとした顔で私たちに尋ねた。
「あんなに険悪だったのにさ、随分と仲良くなって。なのに、まだそんな堅苦しく苗字さん付けで呼び合ってるのかよ」
「ああ、それね! 私も言おうと思ってた! 笹森さんも、私と一緒に〈琴ちゃん〉って呼ぼうよ! でもって、笹森さんは何て呼べばいい? ゆかりん?」
裕子ちゃんが勢いよく食らいついてきて、笹森さんは苦々しい顔で「それはちょっと寒い」と返した。最終的に、笹森さんは私たちのことを名前呼び捨てに、私たちは笹森さんのことを〈さもにゃん〉と呼ぶことになった。さもにゃんだなんて、もっと寒い! と笹森さんは怒ってたけれど、でも、すごく可愛いと思うし、怒りはしてもそう呼ぶことを拒否はしなかったさもにゃんのことが、私はもっと好きになった。
最近、こそばゆいことがたくさん増えていく。それと同時に、私はどんどんといい方向に変化していっている気がする。この素敵な人たちと一緒に、私はどこまで成長していけるんだろうか。
「というわけで、みなさんにはもっと感情というものを感じて、そして表情筋を動かしてもらおうと思いまーす」
圭吾君が自主練に初参加した日の放課後。部活で、三島先輩が唐突にそんなことを言った。先輩は小さく何度もうなずきながら、私たち一年生が短期間でとても成長したことが嬉しいと語った。大仰に、ハンカチを目じりに当てて泣くような仕草を見せながら話していたと思えば、そのハンカチを力強く握りしめて「しかーし!」と声を張った。
「歌えるようになってきたことは喜ばしい! だが、諸君らがこの先の部活動でやることは、ボランティア先でただ歌うだけではないのだよ! 歌劇をするために入ったんだろう? 違うかね? 歌劇はね、歌声、表情、仕草、あらゆるものを駆使して伝えたいことを表現するんだよ。なのに、歌うだけで精いっぱいで顔が死んでるとか! 駄目だろうが! 顔が死んでると、音もくすむんだよ!」
ついお昼に、もっと成長していきたいなと思っていた矢先に、まさかそんな試練を課せられるとは。一体、何をさせられるんだろう……。
そう、戦々恐々としていたら、先輩は「ふたり一組になって」と言い出した。どうやら、また何かしらのワークショップをするようだ。
ふたり一組になった私たちは、まずはじっと相手の目を見つめ合わされた。私の相手は裕子ちゃんだったんだけれど、仲のいい子が相手でも、これはちょっと恥ずかしいな……。そう思ってちょっとだけ目を逸らそうとしたら、三島先輩はしっかりと見ていたみたいで「目を逸らすな!」と注意された。
そのあとは、見つめ合ったまま、肩をぽんぽんと軽く叩き合いながら笑えと指示されて。作り笑いでもいいから、笑い続けろって言われたんだけれど、私は中々うまく笑えなかった。周りの子たちは、命令で笑わされてたはずなのに、いつのまにか本当に楽しくなってきちゃったのか、ひいひいと声をあげながら笑い転げている。ほっぺたが釣るんじゃないかって心配になるくらい、みんなの顔は最大級の笑い顔になっていて。そんな異様な光景に、私は焦ってますます笑えなかった。
次に、泣けと言われた。本当に泣けなくても、精いっぱい悲しみを表現しろって。〈悲しい〉なら、今まで散々思ってきたはずだから、これはできる。そう思っていたのに。私は悲しくなるどころか、段々と落ち込んできてしまった。落ち込んで、駄目だなと思って顔を俯かせてしまって。それでも、やらなきゃと思って裕子ちゃんに視線を戻したら。
「裕子ちゃん!?」
思わず、私は叫んでしまった。何故なら、彼女は本当に泣いていたからだ。三島先輩は彼女を見てヒュウと口笛を吹くと、裕子ちゃんに歌唱組転向を促した。裕子ちゃんは、きっぱりと断った。
「何でよ。泣けって言われてすぐさま泣けるのって、すごい才能なのに。もったいない」
「私は、裁縫に生きるんです」
「ちなみに、どうして泣けたのさ? みんなも参考にしたいだろうから、教えてよ」
先輩がそう尋ねると、裕子ちゃんは胸を張って堂々と答えた。
「推しキャラが、死亡シーンも描かれることなくナレ死で済まされるという悲しい出来事を思い出せば楽勝です」
大半の人が理解できないという顔をしていたけれど、さもにゃんと圭吾君には通じたようで、ふたりともウッとこみ上げる嗚咽をこらえて目をうるうるとさせていた。――えっ、そんな楽勝なことなの!? うそぉ……!
最後に、お互い抱きしめ合って「大好きだよ」「愛している」と言えと言われた。すごく照れくさくて、恥ずかしくて。どうしようかともじもじしていたら、裕子ちゃんがとびきりの笑顔で抱きついてきて、大好きって言ってくれた。しかも、ただ大好きって言うだけじゃなくて。私の、どういうところが好きかを話してくれて。周りに人がいるっていうことを気にもせずに、一生懸命に大好きを伝えてくれて。私は、思わず座り込んで泣いてしまった。
「度胸もあるなあ。ねえ、富田。あんた、やっぱり舞台に立とうよ。ね?」
「いえ、私は裁縫で生きていくんで」
「そして、あんたはいい加減に泣きやみな」
「だって……すごくありがたいな、嬉しいなって思ったら、止まらなくて……」
先輩は、半ば呆れてため息をついたけれど、にっこりと笑って、私の頭をわしわしと撫でてくれた。先輩はみんなを見渡して言った。
「いいかい、諸君。ただ漫然と生きるんじゃなくて、その場そのときの感情を感じて。そして、それを己に刻み込むんだ。そして、見つめ直せ。当たり前だと思っていることも含めて、全てを。それらは、演技をするにあたっての感情作りに大いに役立つ。ついでに、人生を豊かにもしてくれるからね」
私は、先輩の言葉をゆっくりと噛み締めた。先輩と出会ってから今までのこと、全部大切で覚えておきたいから。色あせることなく、鮮やかなまま、いつでも思い出したいから。そして、ダメダメだったころの私にはもう、戻りたくないから。ずっと前を向いて、成長し続けられるように。――ああ、やっぱり先輩は、ここぞとばかりに良いことを言ってくれるな。そう思いながら、私はいろいろな思いに浸っていたんだけれど。先輩が、不意を突いてデコピンをしてきて。さらに私を見下ろして、口を尖らせた。
「あんたは今週末に、このワークの補習でーす」
「えっ、何でですか!?」
「いやだって、今、泣くことしかできてなかったでしょ、あんた。もうちょい、表情筋を動かすことに慣れてもらわないと。というわけで、毎日、ほっぺむにむに揉んで備えとくんだね!!」
成長してきてると思ったのに、いきなり補習を言い渡されたのは、やっぱり、ちょっとはショックだった。でも、思いきり笑うって、まだよく分からないのも事実だし。しょんぼりとうなだれながらも、私は先輩が何を企んでいるのかということに恐れをなした。――今週末、一体私は、何をされちゃうんだろう!?