5
ゴールデンウィーク初日。母は私よりもそわそわとしていた。
「ねえ、本当にお友達がくるの? お母さん、変な格好してない? お掃除も十分にしたとは思うんだけれど、おトイレとか、汚くない? 大丈夫かしら?」
そんな母に見送られながら、私は裕子ちゃんと笹森さんを迎えに行った。
ボランティアのときに使用する持ち運びのできるキーボードを貸してもらえたので、私たちは休みの日に集まって体に音を叩きこむための訓練をすることにした。笹森さんちはピアノ教室の邪魔になっちゃうかもしれないし、裕子ちゃんちは音出しがダメな物件らしい。なので、私の家に集まることになった。
私がふたりを連れてくると、母はそれだけでもう泣きそうになっていた。さすがに、ふたりとも呆気にとられていたから、私は慌てて二階の自室にふたりを案内した。そして、再びふたりは呆気にとられた。
「えっ、ちょっと。何よ、これ。何なの、このガチの防音室は」
重たい扉を開ける私のことを、笹森さんはぎょっとした顔で見つめていた。ふたりを部屋に招き入れて、扉を閉じてから、私は苦笑いを浮かべて説明した。
「小学校のころ、声が気持ち悪いってからかわれたのと同じ時期にね。お兄ちゃんからも、ひどい扱いを受けるようになって」
当時、兄は高校受験を控えていた。毎日イライラとしていて、ちょっとしたことでも気に食わなかったら当たり散らしていた。そして、私の声が癇に障ったんだろう、毎日怒鳴られて、ひどいときには殴られた。だから、私は両親に懇願して部屋を防音室にリフォームしてもらったのだ。
「お兄ちゃんが塾の夏季講習でいない時間に工事してもらって。完成してからは、夕飯以外の時間はずっとここに閉じこもってた。今でも、お兄ちゃんがいないときにしか話さないようにしているし、万が一お兄ちゃんが帰ってきたときに機嫌を損ねたら大変だから、しゃべるときはできるかぎり小声にしてて」
「とても悲しくて切ない話のはずなのに、ごめんなさい、何故だか共感できないわ……」
そう言いながら、笹森さんはミニ冷蔵庫を凝視していた。裕子ちゃんも、冷蔵庫の存在が気になっているようだった。私は、気恥ずかしさを紛らわすように頬をかいた。
「お兄ちゃんの顔を見るのが怖くて、キッチンに行くのも億劫で、それで貯めてたお年玉で買ったんだけど……。おかげさまで、とてつもなく快適かつ理想の引きこもり生活が送れました、はい」
実際、この部屋ができるまでとか、自室の外にいるときは恐怖に怯えてビクビクしてはいたけれど、〈音の漏れない部屋〉が完成してそこに引きこもれるようになってからは、すごく気が楽だった。だって、この部屋にいさえすれば、誰からも非難されはしないんだもの。お菓子とジュースさえ買い置きしておけば、ここは天国。この部屋のできたいきさつは思い出すのも嫌だけど、冷蔵庫のおかげで私の義務教育時代は不幸一色というわけではなかったのだ。
私は恥ずかしいのをごまかすように、冷蔵庫のドアに手をかけた。
「あ、ジュース、何飲む!? 新しく買ってきたやつだから、直接口はつけてないから安心して!」
「うわあ、誰も見ていないからって……本当に、理想の引きこもり生活だあ」
裕子ちゃんが、呆れ半分、羨ましさ半分という感じでそう言った。私は、もう、穴があったら入りたかった。今まで友達がいなくて、会話なんて親としかしてこなかったから、こんな恥ずかしいことをうっかり暴露してしまったんだ。どうしよう、どうしよう。――そうパニックになりながら、私はさらに墓穴を掘った。
「あはは、うん、めっちゃ自堕落だと思うけど、洗い物もでないしね!? そのまま飲んで、飲み終わったら、こう、ペットボトルの中の空気を吸いだしてベコベコにしてみたりさ! そういうの、ちょっと楽しくない!?」
「えっ、二リットルのペットボトルを……?」
そう言って、笹森さんが呆然とした。――やっちゃったー! 私、そわそわしてたお母さんのこと、笑えない! 自分が一番、〈友達が来る〉ということに舞い上がって、おかしくなってたよ!!
自分の失敗に、私は泣きそうになっていた。だけど、笹森さんはそんな私のことを「すごい!」と言って褒めてくれた。何でも、肺活量を増やすトレーニングに〈ペットボトルを吸ってベコベコにする〉というのがあるんだそうだ。しかも、そういう訓練は普通、500mlペットボトルで行うらしい。
「それを、二リットルでだなんて! そりゃあ、ふとした拍子に大きな声も出るわよ! しかも、あなた、小さな声で話していても、結構声が通るじゃない。何かしているの?」
「えっと、ただ小さい声で話してたら親に『聞こえない。お兄ちゃんのことなんて気にしないで、普通に話して』って言われて……。でも、そんなの無理って思ったから、試行錯誤して。今は、おなかにちょっと力を入れながら、ひそひそと。こう、頭の上のほうから細く細く声が出てくる感じで……」
「そりゃあ、歌うための筋肉がほぼほぼできてるって言われるわよ!!」
気がつけば、笹森さんはバッグを投げ出して私に詰め寄ってて。キラキラした顔で私の両手を握ってて。どうしたんだろうと首を傾げてたら、彼女は頬を染め上げて興奮気味に言った。
「あのね、あなたのそのひそひそ話のしかた、それ、声楽の人がピアノとかピアニッシモで声を出すときにやるテクニックとほぼ同じなのよ。二リットルペットボトルをベコベコにできるのも、肺活量だけじゃなくて、もしかしたら、呼吸法や筋肉が関係しているのかもしれないわね。――吉崎さん、あなた、音が体に染みついたら、ステージの華になれるかもしれないわよ! その素質が、あなたにはあるわ!」
「私が……? ステージの華に……?」
いやまさか、そんな大それたことを。そう思って、私は戸惑った。だけど、裕子ちゃんは笹森さんと同じく「琴ちゃんなら、なれる」と思ってくれたみたいで、自分のことのように喜んで、そして目を輝かせてくれた。
「じゃあ、そうと決まれば、早く尋ね人ドをひっ捕らえようよ! ピアノの音を聞きながらのハ長調は完璧になってきたし、ポンと音を鳴らされても、同じ音を歌って返せるようになってきたしさ! ドが捕まえられるのも、もうすぐだよ、きっと!」
そんな、本当に、もうすぐ人前で歌っても恥ずかしくないくらい、ちゃんとした音で歌えるようになるんだろうか。そんな、ステージの華とまでは言わないけれど、人に聞かせても恥ずかしくないくらいにはなれるんだろうか。不安はあったけれど、でも、ふたりができるって言ってくれたんだもの、私のドはすぐそこにあるような気がしてきた。私は、もうすぐ尋ね人であるドとどんな場面でも出会えるようになる予感で、心がうずうずとした。
途中、私が本当に友達を連れてきたということに感激したお母さんが、私の部屋にやってきた。わざわざ洋菓子屋さんにまで買いに行ったみたいで、三人分のケーキと紅茶を運んできた。すごく恥ずかしかったんだけど、でも、たしかにこういうの、小学校以来な気がするなと思ったら。私も内心、ちょっぴり感激してしまった。
「その音はもうちょっと高いわよ。ほら、ピアノの音を聞いて。喉で無理やり上げないで。喉の奥は開けて、舌は脱力して。筋肉のひとつひとつで調整して。そう、そうよ。いいわ。――じゃあ、この音は? ……そう、合ってる。次はこの音よ。そう、いいじゃない! この調は何調を弾いてるか分かる? そう、正解よ!」
笹森さんは伴奏ピアノをしながら、先輩や先生が私たちに指導する内容を頭に叩き込んで、メモをとれるようになったら全てメモに起こしていたそうで。おかげで、的確に私と裕子ちゃんを導いてくれた。笹森さんが「あってる」「いいじゃない」と褒めてくれるたびに、私はパズルのピースがはまっていくような感覚を覚えた。
ゴールデンウィーク中、先輩たちは大会に向けての準備に集中するということで、一年生の部活動参加は強制ではなかった。だけど、裕子ちゃんはお裁縫の腕を買われて、二日目以降は先輩たちに呼ばれて部活のほうに顔を出すことになった。私はというと、笹森さんとふたりでひたすら音を体に馴染ませる特訓をしていた。
自分のピアノの練習もしたいだろうに、毎日付き合ってくれる彼女に、私は感謝するとともに申し訳ないとも思った。だけど、彼女は「どうせ家にいても、母がピアノ教室をやっている間は、私は満足にピアノが弾けないし」と笑っていた。一応、自室に電子ピアノがあるそうで、弾くときの感触とかは普通のピアノと遜色ないらしいんだけれども。やっぱり、完全に同じとは言えないし、音色も違うんだとか。
「もちろん、それでもないよりはマシだし、それのおかげで練習はできはするけれど。でも、今は部活動も一生懸命やりたいし。それに、吉崎さんとこうやって練習してるのだって、立派に部活動でしょう?」
そう言って肩をすくめた笹森さんが、本当に心強く見えた。ちょうどそのとき、笹森さんのスマホがポコンと音を立てて。彼女は、その音を聞いて苦い顔を浮かべた。
「げ、部長からLINEだわ。富田さんから、吉崎さんと私が特訓してるって聞いたみたい。成果はどうだ? って、そんなの、私じゃなくて吉崎さん本人に聞けばいいじゃない。ねえ?」
ポコポコと鳴り続けるスマホを、笹森さんは面倒くさそうに自分から遠ざけた。何度もやり込められてるからか、笹森さんは三島先輩のことが苦手のようだ。いつも強気な笹森さんでも、苦手なものはあるんだと思うと、何だかほほえましいと思った。
「吉崎さん、表情筋が動くようになってきたわね」
ムッとしながら、笹森さんはそう言った。どうやら、私は今、笑っていたらしい。
「えっ、あっ、ごめん……」
とっさに謝ったけど、笹森さんは「何で謝るの?」と言ってフッと笑った。
「それだけ笑えるようになったのは、とても良いことじゃない。胸を張りなさいよ。――さ、尋ね人ドは、もう目の前よ。捕まえちゃいましょう」
笹森さんにそう励まされて、私は今なら何でもできそうな気がした。
――そう思えたのは、思い違いではなくて。音階を上り下りするたびに、ボランティアで歌う曲を歌ってみるたびに。パズルのピースがパチリ、パチリと埋まっていって。〈初めての音楽〉というパズルが完成に向かうにつれて、まるでおぼつかない足取りで暗い階段を行ったり来たりしていたのが、明るい道を歩いているような感覚になっていって。今まで、何となくでしか見えていなかったものの色形が、はっきりと見えるようになったみたいな。そんな感じがして。
「やったわ! どの曲も、ちゃんと歌えているわよ! 途中で転調する曲も、ちゃんと音が掴めてる! やったわよ、吉崎さん!」
笹森さんが思わず立ち上がってそのように喜びを爆発させたのと同時に、私は底抜けに清々しい気持ちになっていた。
「すごい……。歌うって、こんなに気持ちがいいんだ……。音が分かるって、こんなに気持ちがいいことなんだね……。音楽って、すごいね。笹森さん、教えてくれてありがとう……!」
私と笹森さんは肩を抱き合うと、嬉しさで泣きに泣いたのだった。