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向坂先生から移動ド唱法についての説明を受けた翌日、私は裕子ちゃんと一緒に屋上でお昼ご飯を食べていた。
「裏方志望なのに、まさか歌わされるとは思わなかったよ。今朝、たまたま裏方の先輩と会えたから聞いてみたんだけど、道具の製作作業が発生してそれに専念しなくちゃいけないような事態になるまでは、トレーニングもボランティアも歌唱組と一緒にやるんだってさ。参ったよー!」
しょんぼりとうなだれながら、裕子ちゃんはもそもそとおにぎりを頬張った。そういえば、私、どっち志望だとか、そういうの、決めてなかった。でも、どちらを選んでも歌は歌うのであれば、今はそう深く考えなくてもいいのかな?
裕子ちゃんと仲良くなってからは、こんな感じで二人でお昼を食べている。今まではずっとひとりでお弁当を食べていたから、誰かと一緒に食べるというだけでいつもと変わり映えのないお弁当がこんなにも美味しくなるのかと驚いた。あと、私たちは別々のクラスだから、どちらかのクラスで一緒にというのはお互いに肩身が狭い。だからこうして、屋上で食べているんだけれども。まだ少し寒さが残る日もあるのに、誰かと一緒だと、それも気にならない。寒いと思ってたとしても、「寒いね」って言って笑いあうだけで、不思議と暖かいと思えるのだ。友達がいるって、すごく幸せなことなんだな。そう思うと、何だか、ちょっと青春してるみたいでこそばゆい。
クラスといえば。笹森さんは、朝からずっと暗い表情を浮かべていた。彼女は部活では気が強くて、おっかなくて、とっつきにくいけれど、クラスの中ではその気の強さが〈頼もしいお姉さん〉として捉えられている。だから、結構、笹森さんに話しかける子は多いし、仲よくしている子も何人かいるみたい。だけど今日の笹森さんは、誰に話しかけられてもぼんやりとした返事をするだけで、すごく、すごく内向的な印象だった。昨日は移動ドの話を聞いてショックだったみたいだけど、まだ何か気に病むことでもあるのかな……。――そんなことを考えていたら、階下へと続く屋上のドアが勢いよく開いて。何事かと思ってびっくりしていると、笹森さんが息を切らせながら飛び込んできた。彼女はとても汗だくで、まるでずっと走り続けていたみたいだった。
仮入部期間と昨日と、私は二回も笹森さんを怒らせちゃっているから。だから、裕子ちゃんが気遣ってくれたのか、驚いて声も出ない私の代わりに笹森さんに尋ねてくれた。
「何か、用?」
裕子ちゃんは、少しばかり険悪な雰囲気を出していた。目的がしっかりとあって、一生懸命部活に打ち込んでる笹森さんからしたら、私は遊んでるようなものだもの。だから、そんな私に笹森さんが怒るのもしかたがないと思ってる。でも、裕子ちゃんはそうは思ってはいないみたいで。笹森さんのことを、とても警戒しているように見えた。
俯いてぜえぜえと肩で息をしていた笹森さんは、顔をあげるなり、じわりと目に涙を浮かべた。笹森さんが飛び込んできたときよりも驚いたけれど、でも、それと同じくらいに、私は彼女のことが心配になった。思わず、私は「どうしたの?」と尋ねていた。すると、笹森さんは少しずつ、ぽつりぽつりと話し始めた。
「うちの母、ピアノ教室をやっているって言ったでしょう? その合間に、ママさんコーラスの指導とかも頼まれてやっているんだけれども」
「そうなんだ。笹森さんのお母さん、すごいね」
「全然すごくなかったの! すごく、すっごく、がっかりしたの!!」
叫ぶようにそう言うと、笹森さんはとうとう泣き出してしまった。嗚咽をこらえながら彼女が話してくれたのは、向坂先生が頭を抱えてふてくされていた〈現実〉を目の当たりにしたということだった。
「うちのママ、教育免許も持ってて。教室の生徒さんにも、ママさんたちにも、すごく信頼されてるの。自慢のママだったのに。移動ドの話を聞いたら『何それ?』って顔で首を傾げたのよ。それで、説明したら『あー、なんか、大学で習ったような気がする』って。で、『何度言っても音が取れないママさんがいて、困った音痴さんだなあとしか思ってなかった』って。あっけらかんとした感じで言うの! 信じらんない! 教育指導要領、移動ドで検索かけたら、普通に出てきたのよ。移動ド唱法で指導するようにって。ネットでも、簡単に出てくることよ!? それを、教える立場の人が『困った音痴さんだなあ』って!」
笹森さんは誰からも信頼が厚いお母さんの姿を誇りに思ってて、そのお母さんが教える〈音楽〉というものに魅了されて。そして、そのお母さんが〈本当はピアニストになりたかったけれど、技術が足りなくて諦めた。ピアニストになれなくても、大好きな音楽を広めることはできると思って音楽教室を開いた〉と話していたそうで。それで、だったら自分が母親のなれなかったピアニストになろうと思って音大を目指してるんだとか。
「だから、ただ技術だけを磨くんじゃなくて、ママみたいに教育者に転向することがあった場合にきちんと指導できるように、しっかりと知識も身に着けて。ママみたいな、誰からも尊敬されるような音楽家になろうって思ってたのに! すごく、裏切られたと思ったの。信じてたものが、全部なくなってしまったように感じたの。そう思ったと同時に、気づいたのよ。私、吉崎さんに、ママと同じ……ううん、もっとひどいことしてたって。そんなんで尊敬されるような音楽家になるんだとか、勘違いも甚だしい。すごく、恥ずかしいって。自分の傲慢さや無知を棚に上げて、吉崎さんに当たり散らして。本当に申し訳ないなって。――本当に、本当にごめんなさい!!」
笹森さんは、謝罪を繰り返しながら、ずっと泣きじゃくっていた。立っているのもつらくなってきたみたいで、座り込んで過呼吸気味にひっひと声をあげて泣いていた。
裕子ちゃんが小学生のころのことを謝ってくれたのが、私の初の〈他人が真正面から気持ちをぶつけてくる〉という体験だと思っていたんだけれど。思えば、笹森さんが最初に私に腹を立てたときから、彼女は私と向き合っていたんだ。彼女は、そのことを八つ当たりだと表現したけれど、すごく真剣で一生懸命だったからこそ、そうやって感情をぶつけてきたんだろう。自分の目的をつつがなく達成するためだけだったら、歌おうとしなかった私のことなんか見ないふりすることもできたはずだ。だけど彼女は正直で真面目だったから、私を無視しなかったんだ。そして今も、こうやって思いのたけをぶつけてくれている。私と向き合おうとしてくれた最初の人は、実は笹森さんだったんだ。
私は、笹森さんに謝った。そしたら、彼女と笹森さんが声を揃えて「何であなたが謝るのよ!」と怒ったけれど、でも、もう一度謝った。
「私も最初は態度が悪かったし、笹森さんが怒るのもしかたないと思う。それとね、恥ずかしいのは〈知らないこと〉じゃなくて、〈知ろうともせずに逃げること〉と、〈せっかく知ることができたのに、情報を更新しないで無かったことにすること〉だと思う。だから、笹森さんは全然恥ずかしくないよ。昔のトラウマを引きずって、ずっと逃げ回ってた私のほうが、よっぽど恥ずかしい。笹森さんは、とてもかっこいいと思う」
私はもう、この向き合おうとしてくれている人から絶対に逃げないと心の中で誓った。だから、私も思ったことを正直に伝えたわけだけど。そしたら、笹森さん、また泣き始めちゃって。まともに人付き合いした記憶のない私には、これ以上何をどうしたら笹森さんを泣き止ませることができるのか分からなくて。戸惑っていたら、裕子ちゃんが〈いいこと思いついた!〉という感じの顔で私たちを交互に見つめた。
「ねえ、笹森さん。ピアノの練習がしたくてたまらないだろうけどさ、お昼休みだけ、私たちにくれないかな?」
笹森さんは、状況が飲み込めないという感じで目をしばたかせていた。すると、裕子ちゃんがにこやかな笑顔で話を続けた。
「せっかく〈知る機会〉があったわけだしさ、みんなで試行錯誤しようよ。私と琴ちゃんは、無事に尋ね人を見つけたい。で、笹森さんは、私たちに尋ね人への道案内をすることで、〈指導する〉ということの練習をする。……どう? win-winじゃない?」
宮本君がみんなに共有してくれた音源を聞いたり、小学生のころに使ってたピアニカを引っ張り出してきて吹いてみたりしたけれど、正直、自分一人だけの力で移動ドをマスターできる自信はなかった。だから、裕子ちゃんの提案は名案だと思ったし、とても楽しそうだと思った。だけど、果たして笹森さんが承諾してくれるんだろうか――
そんな不安は、杞憂だった。笹森さんは、今まで見たこともないような、とても晴れやかな笑顔を浮かべていて。そして、すこしはにかんで小さくうなずいた。
「私なんかでよければ……。第一音楽室は常に、吹奏楽部の誰かしらが使用していて。第二音楽室は、横溝先輩が使っているの。だから、体育館のピアノで練習することになるけれど。それでも大丈夫?」
笹森さんは、私をちらりと見た。お昼休みの体育館はボール遊びしている人たちがいるから、気を遣ってくれたんだろう。私はそんな彼女の優しさに、必死にうなずくことで答えた。そして、明日から三人でドを探す旅が始まるということに少しわくわくした。