フェイズ101−2「科学の時代」
一方で、日本でのロケット打ち上げは、補助ロケットに固定燃料型を使う以外は、アメリカと同様の一般的な打ち上げ形式で行われ、他国に遅れること数年後の1962年にようやく打ち上げに成功する。
この頃には、既に米ソとも有人宇宙飛行を実現していた。
競争という点では、かなり致命的と言えた。
しかし各省庁の対立、軍内部の対立、企業間の対立、学閥の対立と内部対立だらけの日本でのロケット開発はバラバラだった。
後年の宇宙開発事業団(NASDA)の発足まで、軍事面以外は大きな停滞を余儀なくされてしまう。
この間に日本に見切りを付け、商業的宇宙開発を目指す満州に乗り換えるか二股をかける企業も少なくなかった。
一方の満州は、何をするにしても徹底的に合理性を突き詰めるため、その後も限られた枠内ながら着実な成果を挙げ、徐々に国力の拡大と共に宇宙開発の規模も大きくしていく事になる。
宇宙は先端産業の最前衛でもあるため、満州が目指すべき産業でもあったからだ。
そして、この時期の科学技術の開発で忘れてはいけないのが、兵器としてロケットとの関連がある核関連技術の発展になるだろう。
日本は1950年12月に、中部太平洋上のビキニ環礁で原爆実験に成功。
ソ連を出し抜き、アメリカに次いで核兵器保有国となった。
ビキニ環礁の実験場は、第二次世界大戦後にアメリカが日本に莫大なレンタル料を支払う形で日米共同の核実験場となっていた。
とはいえ、1950年12月まではアメリカの実験を日本は眺めるだけだったのが、ようやく自らも使えるようになったものだった。
同実験場は、1954年から58年にかけての日米の原爆、水爆実験で重度に汚染され、環礁自体の物理的な破壊も進んだ事もあって閉鎖されるまで、主にアメリカの核実験場として有名な場所となっている。
ただし世界初の水爆実験は、ビキニ環礁より前に日本がアメリカに提供した近在のエニウェトク環礁で行われ、事実上この環礁をほぼ一撃で廃墟にしている。
続いて日本の水爆実験は1955年に実施されたが、アメリカばかりかソ連の後を追う形になってしまっている。
ソ連との開発の規模と予算の違いの影響だった。
また科学者、技術者の不足も影響しており、追い抜かれた日本は物理学など科学者、技術者の育成にいっそう力を入れるようになっている。
いわゆる理系分野の育成と支援に、国が非常に積極的になったのにも大きな理由があった。
そして核戦力が「安上がり」な国家安全保障政策という見方が年を経るにつれて広まり、その後の日本軍の兵器体系の多くに核軍備が整備されていく。
米ソ同様に、戦略空軍の重攻撃機、大陸間弾道弾をはじめとする各種弾道弾、海軍の潜水艦発射型弾頭弾、航空機搭載型の各種爆弾、巡航ミサイルなどが多くの兵器が開発された。
いっぽうで日本は、1952年1月17日に世界初の原子力潜水艦「伊401」を就役させていた。
開発は第二次世界大戦中から行われ、途中からアメリカとの共同開発となったが、あくまで日本主導で行われ、日本が世界初の原子力潜水艦保有国となった。
この半年後にはアメリカでも原子力潜水艦「ノーチラス」が就役し、その後はリッコーヴァー博士のもとでアメリカの方が質、量共に大きくリードするが、大型、高速潜水艦を好む日本海軍は、その後も他の予算を削減してでも原子力潜水艦の開発と建造に力を入れる事になる。
この頃の日本の潜水艦開発の目的は、ソ連海軍の撃滅に絞られていた。
開発の柱は大きく二本あった。
一つ目の柱が、核弾頭を搭載した各種ミサイルを搭載すること。
日本の国土の問題から、隠密性及び生残性の高い核攻撃手段の開発は米ソ以上に重要度が高く、場合によっては兵部省の予算以外からも特別会計が出されたほどだった。
「伊401」が最初から核弾頭搭載可能な巡航ミサイルを主武装としたのも、単なる偶然ではなく求められた結果だった。
「伊401」のような核ミサイル搭載潜水艦を、後に戦略型潜水艦などと呼称した。
(※「伊401」の場合は、厳密には巡航ミサイル原子力潜水艦(SSGN)になる。)
もう一つの柱が、ソ連軍艦艇の撃破。
ソ連が大量整備を進めている潜水艦を沈めるための戦術型潜水艦については二系統が必要とされ、待ち伏せによる不意打ちが重視された事もあり通常型潜水艦の静粛性の向上などに重点が置かれた。
それ以外に、機動部隊への海中随伴、水中での長期活動、圧倒的速力が発揮できる事などから、水中戦闘に秀でた原子力潜水艦の整備も行うことになっていた。
また、ソ連が大戦後になって積極的に整備を進める水上艦艇への攻撃も重要だった。
こちらも二つに用途が分かれ、一つが空母機動部隊に随伴して海中から艦隊を護衛する巡航型の潜水艦と、ミサイル兵器により遠距離からソ連艦艇を撃破する攻撃型の潜水艦に分かれる。
当時の日本海軍は多数の空母、戦艦を保有していたので、旧ドイツ海軍の艦艇と技術を吸収して膨張したソ連海軍とは言え、アメリカと組めば水上戦、航空戦では圧倒的優位と考えられていた。
しかし想定戦場が主にヨーロッパ北部の海域なので、日本海軍は余程の有事でない限り艦隊を北大西洋や北海などに送り込む事が、主に予算の都合で出来なかった。
また地中海でも、アメリカ海軍のような贅沢な運用はしたくても無理だった。
こうした戦術的要請を受けて、日本海軍での「攻撃型原子力潜水艦(SSN)」の開発が進んでいくことになる。
なお、この時期(1940年代終盤から1960年代初頭にかけて)は海軍冷遇の時代とも言われ、第二次世界大戦で活躍した空母、戦艦は実戦力としては無用の長物とすら言われていた。
核兵器が安価な国家安全保障になりうると考えた国は、海軍には潜水艦の整備こそ認めるも、戦略空軍を重視して予算を傾注し、戦争中にあまり活躍していない重爆撃機の整備を熱心に進めた。
このため戦後も何とか生き残った艦艇も次々に予備役、さらには退役・解体となっていった。
しかも、戦場が内陸だった支那戦争では、海軍はほとんど活躍の場がなかった為、海軍の大型艦は予算を食うだけの存在とすら言われていた。
そして支那戦争終戦後はさらに水上艦艇の縮小に拍車がかかり、多くの艦艇が姿を消していった。
それでも、自由主義陣営の主要国としての立場を維持するため、必要最小限の艦艇、見た目に目立つ艦艇についてはそれなりに生きながらえることはできた。
そしてソ連海軍は相応に脅威であり、日本近在でもソ連海軍はカムチャッカ半島の潜水艦基地を軸にして潜水艦の整備にはそれなりに熱心だったため、日本海軍は対潜水艦戦力の整備として航空隊や対潜艦艇の整備を行った。
同時に、平行して金のかかる原子力潜水艦整備にも力を入れたが、その中に他の艦艇の予算をこっそり盛り込むことも行われた。
原子力潜水艦の開発、建造は金がかかるが、国民の理解も得られたからだ。
そして潜水艦への意識が、海軍内はもとより国民の間でも変化した事を受けて、「伊401」のような味気ない名称は1950年代半ばには変更され、原子力潜水艦の艦名は古典(万葉集など)に登場する地名、つまり日清、日露戦争時代の武勲艦の名前を主に名付けるようになる。
「伊401」も、1958年には「千早」へと改名している。
原子力潜水艦に連動する核関連技術の開発によって、日本は世界初の原子力発電にも成功していた。
早くは戦争中の1945年に「原子力基本法」が制定された。
そして戦後すぐの47年に、民間発電を目的とした日本原子力研究所が茨城県東海村に設置され、民間の電力会社が連合した日本原子力発電が設立されている。
日本初の原子力発電は、あくまで実験や試験だが1953年に行われ、これも世界初のタイトルホルダーを得ることに成功している。
全ては大戦中から精力的で広範な開発を目指していたお陰で、非常に先見の明があったと言えるだろう。
しかし原子力発電の商業発電は、なかなか広まらなかった。
開発当初は、見た目上の発電コストの異常な低さから、日本のエネルギー問題の救世主とすら言われたが、建設費、維持費、さらには発電所周辺に対する補償費などが、予想以上に必要な事がすぐにも暴露されたからだ。
しかも日本列島とその周辺部は、世界随一の地震多発地帯であり、沿岸部だと津波を始めとする水害の心配もしなければならず、危険度の高さと危険に対する経費の高さも強く指摘された。
暴露したのは、日本政府の省庁内での対立の結果で、主に軍部と通産省などの対立の影響と言われる。
また軍部は、原子力発電所の危険性についても当初から広め、人口地帯の近在に建設する事は敵に格好の攻撃目標を与えるようなものだと強く警鐘を鳴らした。
このため軍部は、緊急時には移動可能な洋上プラットフォームの建設を提案したりもしている。
この移動発電所については、原子力発電実験船「むつ」という形で実現し、多くのデータを後世に残している。
しかし、日本の官僚組織内での対立の原因は軍部と他の省庁ではなく、東京と大阪に分散した省庁間の対立だった事が数年後に暴露された。
原子力開発で主導権を握ろうとする通産省、建設省などと、内務省、文部省などが対立した結果だった。
軍部は危険性に警鐘を鳴らしたことこそ本当だが、自前の施設などを既に有して安全管理も他より余程厳重にしていたので、むしろ省庁対立の被害者でしかなかった。
このため兵部省などは、主に文部省などを酷く恨むことになった。
しかし有事の際の危険性については事実だった。
何しろ日本は、米ソなどよりずっと国土が狭く、人口も密集していた。
有事に攻撃を受けたらどうなるかは、考えるまでもないほどだ。
そこに日本独自の自然環境の危険度についての話しが加わり、日本での商業原子力発電については、政府は長らく安全基準の調査や原子力発電所建設予定地の説得に時間を取られた。
建設予定地への実質的な補償費、安全対策費についても鰻登りで、普及が他国に比べて大きく遅れることになる。
また、あまりにも厳格な基準作りをしていったため、安価な発電を目指していた西側世界各国から非難に近い苦言を何度も言われる事になる。
だがそのお陰で、世界一と言われる安全基準が早々に制定されて、これは後に世界各国でも規範とされていった。
また、地震や地形、自然災害の研究が副次的に大きく進み、全般的な点での地震などの自然災害時の対応についても大きく進歩する事になる。
一般を含めた建造物の耐震基準についても、関東大震災後の過剰さはなくなり、より科学的で安全性を求める基準が設けられている。
実際の原子力発電所建設に際しても、人が多く住む場所から極力離れた場所、地震、津波など自然災害に対して可能な限り安全な場所が選定された。
だが、そうした事がいっそう建設予算、運用費を高騰させる事になり、原子力発電の商業利用を遠ざけることになる。
原発(原子力発電所)普及遅延の副次効果として、火力以外の発電、戦前のかなりの時期まで発電の主力だった水力発電が大幅に計画拡大されている。
この結果、富山の黒部渓谷のダム群など多くのダムと、大規模な水力発電所が日本全国で精力的に建設されている。
中でも最大規模なのが「沼田ダム」だった。
関東平野奥地の利根川水系に作られた日本最大の多目的ダムで、今後の関東平野の人口増加に備えた貯水池として、沼田周辺の開拓、そして発電と複合的な国土開発を目的としていた。
まさに国家プロジェクトだった。
建設は短期間のうちに精力的に進められ、人工湖に沈む多くの村落への莫大な補償と、主に満州帝国への移民斡旋、周辺への補償を強引とも言える短期間で終えると、1958年には建設が開始され6年の歳月をかけて1964年に完成。
一時は完成の是非を問う反政府的な運動にまで発展したが、1973年のオイルショックで再評価され、現在では必要な事業だったと理解されている。
また現在に至るも、関東の水瓶として無くてはならない存在になっている。
水道事業関係者などは、関東の守護神と評するほどだ。
そして多数の大規模水力発電を建設したことで、その後も水力発電に対する研究や投資が続けられ、日本の電力の重要な一翼を担い続ける事になる。
特に夜間に安価な余剰電力を使って揚水し、そして昼間に放水して発電する方式は1970年代に一気に拡大している。
また火力、水力、原子力以外の発電についても早くから注目され、中でも日本の特殊な自然環境に合致した地熱発電が、1960年代くらいから精力的に開発されるようになっている。
要するに地熱が生み出す水蒸気を利用して発電する方法で、多くは火山の近くの温泉の湧く場所に建設された。
この建設では、もう5年か10年開発が遅ければ、温泉観光とぶつかり合って地熱発電の発展と拡大が大きく遅れたと言われている。
とはいえ1960年代に入る頃の日本では、極端な燃料資源獲得の危険性はないと判断されていた。
最重要の資源とされる石油は、満州、北樺太、さらに1960年代に入って開発の始まった黄河河口域の油田も利用できた(※採掘コストの面から本格採掘は1970年代。)。
ブルネイの石油などは、実質的に日本のものだった。
開発と増産の進むインドネシア地域からの輸入もあった。
さらにペルシャ産の良質で安価な石油が安定して供給されていた。
加えてペルシャ湾岸での、極めて安価な石油も望めば望むだけ手に入れることが可能だった。
それだけあれば、当時の日本では十二分な量だった。
まだ1950年代は石炭が燃料の主力の時代で、その石炭は日本の各所でかなりの量が採掘されていた。
露天掘りがないなど採掘コストの問題から、国内産の石炭が安価に採掘できる時代は残り少ないと考えられていたが、石油の需要も極端には伸びていないし電力についても同様なので、様々な電力確保手段の開発はこの頃はまだ後の時代のためという側面が強かった。
加えて、日本でのモータリゼーションはアメリカや西欧諸国、さらには満州よりも遅れているため、ガソリン需要もそれほど伸びていないため、石油単体で見ても資源確保面での深刻度合いは低かった。
そして国民の多くは、ようやく戦争中の借金返済の目処が見えて「戦後」というものが終わりつつあると感じ、その象徴として科学技術の発展を見ていたと言えるだろう。
また別の視点で言えば、個人が豊かと感じる時代は到来しておらず、国の発展などに目を向けなければいけなかった時代と言えるかも知れない。