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日米蜜月 〜戦後編〜  作者: 扶桑かつみ
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フェイズ100「戦後満州の変化」

 戦後の満州では、満州の重心に位置する長春での「新宮殿」、「新都」建設に代表されるように、今まで以上の急速な発展が見られた。

 

 新都の名前は「新京」。

 

 都市名は長春のままでも良いという声も強かったが、国家の新たな出発とする決意として改名された。

 

 もっとも新京の首都としての開発は、土地調査を含めると実は建国の頃から進められていた。

 しかし、日米の影響が強い奉天が首都の方が日米にとっては都合が良いため、遷都は留め置かれたままとなっていた。

 また、皇帝溥儀(康徳帝)が先祖伝来の古都である奉天を気に入っていた事、溥儀に付いてきた満州族の支配層が奉天にこだわった事が、遷都が行われない大きな理由となっていた。

 

 しかし戦争中に遷都が決定し、ソ連にレンドリースを送るための鉄道補強工事の傍らで土地の改修、用地買収、さらには基礎的な土木工事、道路工事が開始される。

 道路工事は1930年代のモータリゼーション到来の頃から実質的に行われており、何もない平原に理想的な区割りが実施されていった。

 

 そして本格的な建設工事は、1947年度から大規模に開始される。

 工事ための人手は動員解除された軍人と、いまだ途切れることなく流れてきている中華中央部からの流民が充当された。

 また当時のアメリカ並みの機械力が投入され、満州で重戦車を量産していた日本の小松製作所が作った土木作業機械が当てられた。

 小松製作所は、当時日本でも大量の受注を受けていたので、戦後不況を受けないどころかさらに事業を拡大した。

 また満州からの受注は、世界的な土建企業として大きく飛躍する切っ掛けともなった。

 しかし小松だけでは足りない事を理由に、アメリカのキャタピラー社からも相応の土木工作機械が輸入され、日米双方の顔を立てる事も忘れなかった。

 


 そして満州帝国は、日本よりも経済発展の速度が早かった。

 

 満州帝国というより満州地域の開発は、20世紀に入ってから始まった。

 それまでは、清朝が先祖伝来の土地の保護を目的に、移民すら厳しく規制していたため、伝統的な放牧のための赤い土の平原が広がるだけだった。

 

 しかし清朝の衰退により移民規制が緩くなり、日清戦争後にロシア人が本格的に入り込んで近代化を始める。

 ハルピン、大連はその時に作られた街になる。

 1905年の日露戦争以後は、日本とアメリカが進出して経済的な開発を急速に進めた。

 満州南部地域の開発速度は、日本よりも早くそして大規模で、アジア随一の成長率となった。

 大連には日本にすらないアメリカ的な高層建築が立ち並び、旧都でもあった奉天も基幹都市として発展した。

 炭坑、鉄鉱山は機械力で大規模に開発され、平原には蒸気トラクターによって開拓された広大な大農場が広がっていた。

 

 1921年の極東共和国の成立も、満州地域の政治的安定化と近在の日本との経済的関係の双方をより一層強める事となった。

 

 1927年11月に満州帝国が建国されると、開発の手は一気に満州全土に広がりを見せる。

 それまでも満州北部はロシア人によって開発が進んでいたが、その後の開発速度は今まで以上だった。

 西部の何もない地域にも、順次開発の手が伸びていった。

 加えて、極東共和国とのつながりが出来たため、東部国境地帯も経済原則に従って発展した。

 

 1932年からは大規模な国家事業である「五カ年開発計画」が始まり、アメリカ、日本の不景気対策緩和を目的に大量の土木機械を購入し、精力的な社会資本の建設が開始される。

 鉄道網が一層充実され、さらに盛り土による高速道路網が全土に広げられていった。

 鉱工業も発展し、1930年代の終わりには油質に多少問題があるも大油田が発見され、満州の開発に拍車がかかった。

 この大油田は康徳油田と呼ばれ、その後21世紀近くまで大規模に採掘が続けられる事になる。

 

 そして各地に鉄道が引かれた事も重なって、富を求める人々が積極的に移民してきた。

 

 20世紀になるまでは、満州南部に満州族、北部は主にモンゴル系部族、南東部国境に朝鮮系民族がいる程度だった。

 だが華北地域から大量の農業移民が流れ込むようになり、1910年代からは日本からの移民も大きく伸びた。

 アメリカからも、都市部への移民と大規模農業をするための移民が増えた。

 特にアメリカからは、1930年代の大恐慌の頃に移民が増えていた。

 またロシア革命以後は、ロシアからの亡命移民もかなりの数に上っている。

 1920年代になると、毎年50万人以上が移民してくるようになる。

 


 1946年統計の総人口は、約4100万人。

 欧州の大国の本国人口に近く、当時の日本の6割程度になる。

 

 このうち先住民といえる満州族など(他、モンゴル系、土着朝鮮系)の人口は約15%。

 日本人と日系移民が約11%。

 アメリカ系移民が5%。

 その他ロシア系1%、ユダヤ系1%、欧州系1%で、それ以外の全てが漢族系になる。

 つまり全体の約三分の二が漢族系だが、満州の支配者は満州族を名目上とした日米系住民だった。

 経済の90%以上が日米系に牛耳られており、さらにそれぞれの本国と密接につながっていた。

 また、満州南部を中心に広がる広大な農場は、大規模経営者のほぼ全てが日米系か欧州系、ロシア系だった。

 漢族は、着の身着のままの流民が多いという経緯もあるが、小規模農業か小作、もしくは都市部での低賃金労働者だった。

 使用言語も、満州語が一応の公用語とされるも、日本語、英語(米語)が基本だった。

 特に日本語は、戦争中の軍用語として使用された経緯もあって大人の間にも一気に普及していた。

 

 移民、流民として流れてきた者が給食が無償化されていた小学校などに通っても、中華系言語が教育される事は無かった。

 日本語、英語が話せなければ、公共機関、中規模以上の企業では働けなかった。

 そして日系移民が英語を、欧米系移民が日本語を必須学習していた。

 

 しかし戦争により若干の変化が起きる。

 


 第二次世界大戦で、主にロシア戦線に従軍した兵士、軍属、協力者の多く(過半数)が漢族系だった。

 特に戦争序盤で降伏した旧中華民国系兵士の数が多く、彼らは自分たちにまともな市民権を与えるという約束で、満州帝国の旗を仰いで従軍した。

 そして満州帝国も、彼らへの約束を果たした。

 この結果、従軍した兵士とその直系の家族、合わせて500万人ほどが、日米系市民に準じるほどの社会的地位を獲得する。

 これは従軍した者を国が称えて身分を保障した結果で、日米系移民の兵士達も同じような扱いを受けている。

 日米系移民の中には、噂を聞きつけて戦争中に移民した者も数万人及んでいたほどだ。

 この時期の米系移民は、祖国での差別に見切りを付けた黒人系が非常に多かった。

 ロシア戦線で黒人兵を見かけたという話しは嘘ではなく、満州軍の中に一定割合で含まれていたのは事実だった。

 

 また戦争中は、今までよりも遙かに大きな重工業の伸びがあったが、炭坑、製鉄所、各種軍需工場、様々な場所で主に単純労働者として流れてきた漢族が有効活用された。

 さらにシベリア鉄道の一部維持管理を東鉄(東アジア鉄道)が行ったので、戦争中には大量の労働者がロシア各地にも派遣された。

 

 そして、戦争に従事した者に権利を与えるのが近代国家の責務でもあるため、戦前の日米系移民のみによる特権の享受は影を薄めるようになる。

 とはいえ、その後も長らく日米系が満州の政治経済を握り続けた。

 彼らの後ろにいる日米本国の企業にとって、満州は市場であり、さらには経済的な実験場だった。

 本国では出来ないような大胆な事も満州では当たり前のように行われ、国の権限が強いので開発も極めて迅速に進んだ。

 用地買収などの面倒は、都市部を除いてないも同然だった。

 これは、当時の満州で土地が有り余っていた事だけが理由ではない。

 


 一般的には「国家資本主義」と言われるが、満州帝国自体が複合企業コングロマリットのようなものなので、この表現は最も重要な点を見落としていると言わざるを得ない。

 実質に於いて「国家資本主義」なのではなく、国が企業そのものだからだ。

 しかも満州帝国の場合は、一部の一族などの財閥経営のような形態からはほど遠く、競争の中で選ばれたエリートによる運営という点で進んでいた。

 ユダヤ人の影が常にあった(もしくはある)と言われる事もあるが、モルガンやロックフェラー一族のような存在は満州にはない。

 民族経営、血縁経営、一族経営を嫌うのが満州流だった。

 満州帝国は、国自体を大きくそして富ます事を目的としており、企業はともかく特定個人の権力や利益追求は事実上否定されていた。

 

 ある意味アメリカ以上の移民開拓国家であり、一族として大切なのは国家の体面として必要な満州皇帝の一族とその周辺だけだった。

 日系、米系移民が経済面での支配民族だが、国家として民族主義からほど遠かった。

 

 こうした国家体質のため、一部では資本主義とは逆に社会主義的と言われることもある。

 

 そして戦後の満州帝国は、自らの体質のままその動きをさらに加速させる。

 

 必要な人材、資源、そして資金を、自らにとって必要なだけ世界中から集めた。

 特に重視したのが、当時で満州に不足する社会を構成する為に必要な高度な人材だった。

 満州帝国の本来の支配者と言われる東鉄(東亜細亜鉄道(ER))は、第二次世界大戦の終盤にドイツや東ヨーロッパ、さらには満州軍の派遣先のロシアそのもので、人材獲得のために精力的に活動した。

 水面下では、ロシア人が「真の戦友」とまで言った親密な関係でありながら、ソ連のNKVD(後のKGB)と東鉄調査部が人材確保で暗闘を繰り広げたと言われた。

 また満州帝国自身が、世界中から優秀な人材を集めるための優遇措置も数多く設けた。

 日米からの移民が加速したのも、この影響だった。

 


 満州族の張景恵の後を継ぐ形で、1949年に新たに首相となった日本出身の鮎川義介。

 彼は、戦前は満重コンツェルンを率いる経済人だった。

 

 鮎川は、戦争半ばに満重の前身の日産会長を退き、その後は満州帝国の商工大臣に就任。

 実質的には、戦前、戦中の満州帝国を切り盛りした星野直樹と彼の手によって、満州帝国の合理的な戦争経営が行われた。

 そして本来なら星野の方が次の首相に相応しいし、そうなるだろうと言われていたが、星野は戦争終盤に日本に帰国してしまった。

 このため残った鮎川が、信任投票のような形で首相となった。

 

 しかしこれは、二人の間の政治闘争の結果だとか、戦後の満州の国家運営を巡る考えの違いによるものだと言われる。

 そして戦後満州の企業的経営を見る限り、満州の国家運営の意見の違いの結果、鮎川が首相になり星野が去ったと見るべきかも知れない。

 そして、日本の生え抜き官僚だった星野がその後の満州を治めていれば、資本主義的とは違う国家主義的になっていたと言われることも多い。

 また同時に、満州が日本とほぼ同じ体制となっていたとも言われる。

 (※その後星野は、日本で主に岸信介のもとで活躍して、大臣も何度か経験している。)

 そして特に戦後の満州帝国の統治は、中央官僚制度において顕著だった。

 官僚には減点主義を取るのが世界的に見ても基本だが、満州帝国では企業経営と同様に加点主義も組み込んでいた。

 つまり成果を挙げれば、記録上でも評価され出世や昇進が早まるという、企業では当たり前の制度だ。

 また、中華系国家の悪しき前例を絶対に踏襲しないため、官僚の腐敗を防ぐ制度も徹底していた。

 おかげで、何ごとも賄賂で物事が動くというような、世界中の途上国でよく見られる状態からも遠い状態だった。

 このため漢族系、朝鮮系は、特に官僚になりたがらなかったと言うし、地方は日系、中央は米系、欧系官僚が多かったのは事実だ。

 

 さら満州帝国では、在野から官僚となる人材を募集する猟官制度も有していた。

 試験と派閥によって動く東アジア的統治とは、ほど遠いシステムを有していた。

 特に財務官僚、経済官僚は、官僚には見えないと言われる事もあった。

 


 なお、満重コンツェルンは「満州重工業コンツェルン」が正式名称になる。

 鮎川が実質的に作り上げた新興財閥で、鮎川が経営に関わり始めた頃は当初は「日産」と呼ばれていた。

 それを満州帝国成立の後の日本の国策に従う形で、1930年代半ばに財閥丸ごと満州へと移転の形で進出。

 この時点で、日立など日本に残る日産系企業と実質的に分割され、日本に残った側がその後「日産グループ」などと呼ばれるようになっている。

 

 その後満重は、国の方針とテコ入れもあって東鉄と並ぶ満州の二大コンツェルンとなる。

 第二次世界大戦前までには、流通・情報・金融の東鉄、重工業・軍需の満重と呼ばれるようになっていた。

 そして戦争中の総力戦体制の構築で事業を大幅に拡大し、日本の大財閥に匹敵する巨大企業グループへと躍進する。

 東鉄は帝国主義が生み出した企業グループだが、満重は世界大戦が生み出した企業グループだった。

 

 なお、第二次世界大戦中は、満州での生産を拡大するために満重となった日産以外にも、多くの企業が満州へと進出している。

 その多くは巨大財閥ではなく、むしろ巨大財閥によって商売が難しくなった日本本土に見切りを付けた中小財閥や企業が多かった。

 

 その中の一つに小松重工がある。

 

 小松重工は、小松製作所から分社した企業だった。

 大元の小松製作所は重機メーカーで、軍需企業としての小松製作所は戦前は細々と装甲車を陸軍に納入していた。

 満州帝国成立頃に重機メーカーとなり、急速な開発が進む満州へも積極的に進出。

 そして日本国内では、利権の関係で大きな軍用装甲車両は三菱か陸軍工廠でしか生産出来ないため、満州帝国向けの車両を生産するため満州に軍用装甲車も生産できる巨大工場を新設。

 これが当たり、戦争半ばからは初期はノックダウン、その後ライセンス生産の形で各種戦車、装甲車の生産を大幅に拡大。

 戦争終盤には、三菱に迫る数の重戦車を満州帝国やアメリカなどに納入した。

 海外に供与または貸与された重戦車の殆どが、小松製作所製だった。

 また、重機の生産では満州、日本を含めた他者の追随を許さないようになり、戦争中には「東洋一の重機メーカー」になっていた(※現在でも世界第二位の重機メーカーである。)。

 そして戦後は満州進出部門が小松重工として独立し、そのまま満州帝国の陸軍御用達の軍需メーカーとなっている。

 

 満州の日系企業はこうした形が多く、日本本土でできない事を行う若い世代の企業が、満州帝国ばかりか後に世界の産業や経済を牽引してくようになる。

 九州飛行機(=後の東洋飛行機)のように、戦後に実質的な本拠を満州に移した航空機メーカーも少なくない。

 

 同じ事はアメリカ企業にも見られ、満州政府、東鉄などの地元企業も、積極的に企業誘致を行い、進出を優遇、援助した。

 アメリカや日本で勃興するも既存技術、利権などのために伸び悩んでいた産業が、満州から世界進出した事例も一つや二つではなかった。

 

 トランジスタ事業は有名で、日米特にアメリカの既存企業が真空管に拘っているスキに、満州の企業がいち早くトランジスタ事業を拡大し、一気に世界中に販路を広げた。

 近在で気づいた日本の企業も追随したのだが、初動のアドバンテージは覆しがたく、その後の遼東半島が「シリコン半島ペネンソラ」となっていく第一歩となった。

 

 満州帝国は間違いなく新規産業、新規技術の実験場であり、政府もそうなるよう努力を惜しまなかった。

 


 そしてその満州帝国だが、産業立国となるために国民の公教育に力を入れるようになった。

 制度の多くは日本を参考としたが、一部革新的な部分、日本より良い部分があればアメリカなど他国の制度も積極的に取り入れ、世界でも先進的な教育制度を短期間で整えた。

 義務教育となる初等教育はもちろんだが、大学、研究所など高等教育についても莫大な政府投資が実施され、国民への教育の普及を拡大、奨励すると共に世界中からも人材を集めた。

 

 問題視されたのは使用言語についてだが、初等教育から教えるのは英語、日本語だけで、満州系言語、蒙古系言語、中華系言語、ロシア語などは高等教育からの選択とされた。

 もっとも国民の多くは、公の場では日頃から英語と日本語を話す事が多いので、少なくとも以前から住んでいる者の大きな混乱は無かったと言われる。

 

 このため日本とアメリカが、北東アジアの言語地図を書き換えたと言われることもある。

 

 そして20世紀初頭から、日米系移民を中心とした基盤作りが一定段階を過ぎていた事もあって、大きな成功を収めている。

 それでも高等教育機関の不足、高度な教員の不足があるため、日米を初めとした海外から積極的に学校誘致や教員募集を行っている。

 この教育面では、ドイツなどヨーロッパから亡命した者、戦争末期に東鉄職員が欧州でスカウトしてきた人々がかなり含まれてもいた。

 


 一方では、近隣から流れてくる移民については、徐々に制限を付けるようになっていった。

 

 戦後も約十年間ほどは、低賃金単純労働者の必要性から流れてくるだけ受け入れ、さらには「満州帝国国民」とするための教育も徹底的に行った。

 アメリカから、民主的でないと非難されたほどだ。

 だが、急速に経済が発展するに従い満州への移民は徐々に制度化され、最終的には流民の大元となっている支那共和国国境、韓王国国境は厳しい監視が行われるまでになる。

 冷戦崩壊後は、ソ連国境にいた精鋭の国境警備隊が、数をそれほど減らさずに両国国境線に移動したほどだ。

 

 もっとも密入国は、1930年代から一定程度は禁じられるようになっていた。

 というのも、共産主義スパイを警戒したからで、この点は日本の制度をそのまま移植した初期の満州帝国らしい対応と言える。

 また流民とはいえ、一定程度の年齢の者も入国すら厳しい制限が付けられるようになっていた。

 高価値労働者である医者や学者、技術者、職人、教師ぐらいまでは例外だが、老人は基本的に社会の負担と考えられたからだ。

 (※ただし、当時の中華社会は人口構造が老人が非常に少ないピラミッド型だったので、問題はほとんど無かった。)

 そしてある意味当然だが、日本、アメリカ、ヨーロッパからの移民は常に優遇された。

 一定年齢以上なら公教育を受けている場合がほとんどというのが主な理由だが、本当の理由が別の所にあるのは明白だった。

 

 そして日本では、野放図な人口の大幅拡大が続いていた為、毎年10万人以上が満州に移民していた。

 そうした移民の中に、戦後すぐの移民として一部の特殊な日本人達がいた。

 


 彼らは主にロシア戦線に満州帝国軍籍で従軍した、もと日本軍将兵たちだ。

 日本からの移籍で、ロシア戦線に従軍した数は5万人に達した。

 一部は日本軍の命令で移籍して従軍したが、そのかなりが新時代の戦争にそぐわないと見られ、実質的にパージされた将校と下士官兵だった。

 戦争中に急速に肥大化した満州帝国軍を編成するために必要だったという理由もあるが、新時代の戦争を戦わねばならない日本陸軍としては、半ば厄介払いをした形の派遣だった。

 

 しかしその彼らは、ロシア戦線で十分以上の活躍を示し、満州帝国側も十分に報いた。

 また、戦争が終われば、彼らに元の役職や任務が日本で待っている可能性も低く、彼らの多くは家族を呼んで満州へと移住してしまう。

 兵士の多くは、もともとは日本の各地方に住んでいた者たちだったので、満州なら移民する抵抗も低かった。

 しかも兵士達は、日本では望めないほど既に出世していた事も強く影響していた。

 かつての同期が再会すると、満州軍側と日本軍側で階級が二つ三つ違うことは普通だった。

 場合によっては、兵卒あがりの少将と曹長、現役元帥(※元帥位は終身階級)と退役した万歳少将(※「万歳〜」とは、終戦時の実質的な恩賞としての一斉昇進者の通称)などという場合もあった。

 

 ロシアの大地で、満州帝国陸軍遣蘇総軍を実質的に率いた石原完爾(最終階級は元帥)も満州への移民者の一人で、彼は戦後すぐにガンにかかり晩年に日本(郷里)に帰国するも満州帝国人となったし、骨は満州に埋めた。

 満州政府も葬儀は国葬として執り行った。

 

 戦後の満州帝国軍の重鎮となった酒井鎬次、牟田口廉也(最終階級は共に元帥)、後に首相にまで上り詰めた辻政信(最終階級は中将)らも同じだ。

 多くの日本人将校も同様で、戦後も満州帝国軍に属し満州帝国に帰化していた。

 この影響で、日本陸軍では慌てて動員解除の一部を中断しなければならなかったほどで、戦後日本陸軍と満州帝国陸軍の関係も一時険悪化した。

 日本陸軍内で永田・東条の派閥が衰退した理由の多くも、もともと日本軍人だった者達の満州帝国への移住、満州軍への移籍が深く関わっていた。

 

 そして満州帝国軍人となった彼らの新たな任務は、基本的には時代の変化で次なる敵となったソ連軍に備えることだった。

 共産化した支那奥地の勢力(中華人民共和国)への備えもその後付け加えられるが、直接国境を接していないので、それはいつの時代でも二の次でしかなかった。

 

 そして満州帝国軍がソ連極東軍と対峙してくれるおかげで、極東共和国ばかりか日本、アメリカも軍事負担を大きく軽減する事ができた。

 

 戦争中に陸軍28個師団、空軍機1600機をロシアに派遣した満州帝国軍は、戦後の動員解除で1950年までに陸軍12個師団、空軍機600機に削減される。

 日米に比べて軍の解体が緩やかなのは、「自由主義陣営」の最前線としてソ連極東軍と直接睨み合うためだった。

 残された師団も重機甲師団を初めとした精鋭部隊ばかりで、しかも平時でも完全編成師団がほとんどだった。

 陸軍の戦力(※戦闘力で規模ではない)は、アメリカに次ぐ西側第二位と言われたほどだ。

 


 東西冷戦初期は、満州里=ザバイカルを起点とする極東の寒冷な平原地帯は、基本的には世界中の対立状態の中で緊張度は高い場所の一つとされていた。

 しかも平原地帯は、大規模な機甲戦に向いていた。

 

 もっとも、戦後からかなりの期間においては、ソ連邦軍人、満州帝国軍人双方からすればお互いこそが真の戦友であり、戦後も軍に在籍していた人々の多くが第二次世界大戦を直接知っている人々だった為、少なくとも1960年代まで内実は大きく違っていると言われる。

 

 両軍では、将校を中心にお互いを見知っている事が少なくなかった。

 それどころか、戦後も個人的な交流や付き合いを続けた者も多い。

 武官などで中立国で一緒になれば、必ず会って宴会をすると言われたほどだ。

 しかも1950年までは、国境警備で出会えば酒を酌み交わすのが日常ですらあり、ほとんど友好国の関係でしかなかった。

 おかげで満蘇国境は、国が絡まない亡命や国外脱出が最も難しい場所となっていたほどだ。

 何しろ両者が阻止に協力してしまうからだ。

 (※希に真逆の場合もあった。)

 流石に両国の諜報組織はこの状況を利用しようとしたし、実際利用もしたが、軍に対する働きかけはほとんど空回りだった。

 アメリカなども満州帝国軍を利用しようとしたが、ほとんど相手にされなかった。

 両国の軍人達が利用したりされたりしても、敵側の軍人が命がけで窮地を助けるという事もよくあった。

 亡命の際にも、互いに便宜を図り合う事が普通だった。

 

 また、1953年に没したソ連の独裁者スターリンが、ソ連国内の軍人への当てつけもあって満州軍に対しては甘い態度をとり続けたのも、両者の関係を良好にしたことは間違いない。

 1966年の牟田口廉也元帥死去の際にも、ソ連は書記長を始めとして多くの政治家、軍人が弔意を贈ったりもしている。

 

 そうした状態は、第二次世界大戦に従軍した将校達の多くが現役だった1960年代ぐらいまで続いた。

 

 両者の対陣状態も、お互いの表面上の戦力はともかく実際の緊迫度合いは低かった。

 ソ連軍内では「最重要演習地域」とすら内々で言われていたほどで、一種の休暇配置ですらあった。

 満州帝国の方は、自身の組織維持のためにもそこまで暢気ではなかったが、支那戦争では一定程度までなら平然と兵力を引き抜いている。

 国境沿いでの軍事演習では、お互いにしか分からない暗号で冗談をやり取りしたり、スクランブルした戦闘機同士が暢気に挨拶を交わすという事も日常だった。

 国境警備では、共産主義陣営では禁じられている文物の密輸まがいのことすら、満州軍はソ連軍と示し合わせてしていたほどだ。

 

 ただそうした暢気さは、対陣するお互いのみが知りうる事で、満州帝国の同盟国である日本軍、アメリカ軍は両軍が真剣に向き合っているとしか考えていなかった。

 しかも対陣する両軍は、「真の戦友」に自らの恥ずかしい姿を見せないため装備、練度は常に高く維持され、特に相手に見せる演習は実戦よりも気合いが入っていると他国からも見られていた。

 

 実態が判明するのは東西冷戦が解消して以後で、満州帝国政府の中枢は軍のある種の暢気さに気付いていない筈がないのだが、他国への体面や外聞もあるので判明後も知らなかったとしか公式コメントをしていない。

 

 しかし見た目には、当時の両者は激しく対立しているようにしか見えなかった。

 互いに最新装備で身を固めた精鋭部隊を向けあい、示威を目的とした大規模演習も常に気合いが入っていた。

 この背景には、どれだけ本気を見せても、決して実戦にならないと言う安心感があったからだった。

 そしてソ連軍としては、本当に世界中を巻き込んだ殲滅戦争でも起きない限り、満州国に向けた部隊は兵力の温存とも考えられていた。

 

 

 ただし、ソ連が満州に対して本気では無かったのは、単純にロシア人達の心情が影響しただけではない。

 ソ連の言う極東方面では共産主義陣営が軍事的、戦略的劣勢で、余程のことがないかぎり覆すことが不可能だったからだ。

 

 しかも満州帝国は、近隣の日本を大きく上回る速度で年々経済発展、国力の拡大を続けた為、年を経るごとにソ連の不利は強まっていった。

 

 また一方では、軍の世代交代が進むとお互いの意志疎通が難しくなった。

 そして冷戦の激化に伴い、1970年代には対立が本当の対立へと変化していく。

 ソ連が極東軍備を大幅に増やしたのが1970年代以後なのは、表面上の情勢だけでなく満州軍とソ連軍のそうした世代交代の変化が強く影響していたのだ。

 

 満州軍の場合は、急速な経済発展とインドネシアでの戦争介入で軍の規模拡大が可能になったという背景があるが、やはりソ連同様に軍の世代交代が影響していた。

 


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