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日米蜜月 〜戦後編〜  作者: 扶桑かつみ


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フェイズ146−2「地域連合の形成」

 「第二次支那戦争」、「アジア通貨危機」で大きな転機が来る。

 

 「第二次支那戦争」の影響で支那共和国の軍事政権が倒れ、「アジア通貨危機」で支那連邦共和国の財政がIMF(国際通貨基金)の管理下に置かれた。

 前者の結果、支那地域中央と近隣地域の政治的、軍事的安定性が大きく向上した。

 さらに日本、満州は、過剰な軍事費の削減をさらにできるようになった。

 

 後者の結果、EAFTAの再編成が決まった。

 

 財政的に支那連邦共和国、韓王国がEAFTAの加盟規約に引っかかり、2国を脱退させるか組織自体を一度解体もしくは再編成するかの選択を迫られる事になる。

 EAFTAは自由貿易の為の組織で、財政破綻した二つの国の財政を組織として積極的に支援できないし、加盟させ続けることも無理だったからだ。

 

 そして韓王国は脱退に強く反発するも、支那連邦共和国は自ら退く姿勢を示した。

 支那連邦共和国は、日満が目指す組織に自らの席が無いことを理解していたし、自らの目指す道の為にも新たな組織に入ることは出来ないからだ。

 

 韓王国は域内で自らの言い分(我が儘)が通らないと分かると、世界中にEAFTA全ての国を悪し様に罵って回ったが、今までの行動から予測されていた事もあって、何の変化ももたらしはしなかった。

 逆に、日満南支からの一層の嫌悪と軽蔑を買っただけだった。

 

 また1990年代からは、支那連邦と日本、満州の間に秘密裏の会合が何度も持たれていた。

 よく言えば「WinWin」を目指す話し合い、少し悪く言えば棲み分けを進めるための話し合いだ。

 そしてそれは、支那連邦の財政危機で皮肉にも短期間での具体化の目処が見えた。

 

 日本、満州は国家連合を作る。

 支那連邦は支那中央の統一を進める。

 これをお互いに尊重、支援する。

 それが話し合いの結論だった。

 そしてそのために、現状のEAFTAは不要になったのだ。

 

 この合意があったからこそ、これ以後も日本、満州と支那連邦の一定程度の良好な関係は続き、支那連邦など支那中央の国々はシンガポール条約機構に属し続けた。

 

 ある意味、東洋的妥協の産物とも言えるだろう。

 これが欧米なら、話しはまとまらなかったと言われることが多い。

 


 そして離脱する二国の顔を立てるという建前で、再編成のためのEAFTA解体が実施され、さらに一気に連合化のための動きを加速する。

 

 1999年初頭の事で、さらに3年後に新たな条約が締結され、その翌年21世紀に入った2003年遂に極東地域の連合化が実現された。

 

 ヨーロッパ連合(EU)成立より2年早いが、ユーラシアの東西での国家連合誕生に、世界は新たな時代の到来、唯一の超大国への新たな挑戦と書き立てた。

 途中、アメリカの明に暗の横やりもあったが、様々な手段と交渉でそれも何とか抑え込み、自らの進むべき道を選択する事に成功する。

 

 しかし当時のEAFTA加盟国のうち、条件をクリア出来る国は日本、満州以外だとシベリア共和国、ボルネオ島の3国しかなかった。

 事実上脱退した韓王国、支那連邦共和国以外だと、内蒙古王国が条件を満たせていないだけだった。

 しかし内蒙古王国は人口が非常に少ないため、連合内で面倒を見ることで合意に至り、そのまま加盟が受け入れられる運びとなった。

 

(※建国から支那戦争頃に国内の漢族を追い出し、さらに流入も厳しく禁じていたため。

 そして域内の地下資源埋蔵量が多い事から、今後の大幅な所得向上が見込まれていた。)


 日本、満州を中心とした新たな地域統合体の名称は、名付ける段階になって意外に紛糾した。

 

 日本と満州が中心なのだから、極東連合もしくは北東アジア連合が妥当と考えられた。

 一方で、今後も拡大していくことを考えるならば、東アジア連合もしくはさらに大きくアジア連合こそが相応しいとも考えられた。

 

 しかしアジアという地域では広すぎるし、当面加わりたいという国もほとんどない状況で、アジア連合は名前が相応しくないという反対も強かった。

 とはいえ、ヨーロッパから見ての極東という名はあまり相応しくないし、北東アジアでは支那地域も含むのでアジア連合同様に相応しくないと言われた。

 (※極東でも支那地域を含む。)

 結局、議論だけではどれを名付けても駄目という事になったので、準備委員会の全役員の投票で決を採ることになった。

 

 結果一位を獲得したのは、意外というべきか「極東連合(ファー・イースト・ユニオン=FEU)」だった。

 

 一般のアンケートでも、日本、満州からは極東連合の評判は良かった。

 また、19世紀のヨーロッパ世界でのアジアの地域分類では現代の東アジアの多くが極東に含まれるため、ヨーロッパ世界にはむしろ分かりやすかったとも言われる。

 


 かくして「極東連合(ファー・イースト・ユニオン=FEU)」が正式名称となり、2003年4月1日に正式発足した。

 

 本部はシベリア共和国のウラジオストク。

 

 第二次世界大戦後のウラジオストクは、極東の重要な国際都市、政治都市として発展していた。

 日本、満州の間にある国家の首都で、シベリア共和国自体が大きな国力を持たない事から、相応しいと考えられたからだ。

 また冷戦時代は、ソ連からシベリア共和国を守る目的を作るという意図もあった。

 

 ロシア人系の国家である点を問題視する者もいなくもなかったが、長らく同盟国としての付き合いがあったし、この頃までのシベリア共和国の構成人口の3分の1はアジア系であり、同じ極東の国という連帯感も育っていたので、反対もごく一部の感情論に止まった。

 当のシベリア共和国も、自らの政治的地位向上につながるので積極的に受け入れた。

 

 もちろんだが、日本、満州のどちらかに本部を置くと角が立つなどの外交問題を回避するためでもあった。

 

 発足時の「極東連合」構成国は、日本、満州、シベリア共和国、内蒙古王国、サラワク王国、ブルネイ王国、ボルネオ共和国、香港共和国の合計8カ国だった。

 

 香港の加盟は意外と見られたが、ボルネオ島の三国が加わるのは第二次世界大戦からの歴史的経緯を見れば自然な事と見られた。

 香港が加わったのは、互いに支那地域との接点を維持する為だった。

 

 他にも参加を希望した国はあったが、条件をクリアできないので参加は許されなかった。

 

 特に同じ極東地域で日満に挟まれた絶好の地理条件という事で最後まで加盟を熱望した韓王国は、通貨危機がなくても一人当たり所得、国家債務、国家制度、国民の教育程度などほぼ全ての項目で条件を満たしていないため、実質面で日満などには相手にされなかった。

 

 それでも日満は、韓王国の近代化促進の援助を条件付きで約束するなど完全に切り捨ててはいなかった。

 国家安全保障上で、朝鮮半島が完全に敵対するのを防ぐためだ。

 


 なお初代議長には、日本の麻生太郎が選ばれた。

 

 日本で議員や大臣を歴任していたが、極東連合設立の話しが進むとそちらに深く関わるようになり、準備委員長を経て議長に就任した。

 就任後は、優れた外交手腕、財政手腕を発揮し、極東連合をEUに並ぶ組織として世界に認めさせていく事になる。

 また、一時期国政から距離を開けていた石原慎太郎も準備委員として活躍し、極東連合成立時は日本代表を務めている。

 準備委員には、もと満州首相の李登輝の姿もあった。

 

 ただ、「極東連合」という日本語名称と麻生議長の20世紀前半風のお洒落な装いから、日本のヤクザやマフィアを連想するとよく言われる事になる。

 


 その頃、日本帝国の総理大臣は20世紀末の小渕恵三の任期中の急死、当時副総理だった森喜郎の総理代行を経て、2001年からは民主党の小泉純一郎だった。

 

 パフォーマンスに優れた小泉純一郎は、「第二次世界大戦後の体制をぶっ壊す!」と獅子吼して国民の人気を博し、極東連合実現に大きなリーダーシップを発揮した。

 

 これに対して満州帝国は、2000年に李登輝が引退すると、民主選挙で漢族出身の温家宝(首相在位2000年〜2013年)が首相に選出された。

 

 彼の両親は第二次世界大戦までに華北地域から満州に移民して、その後彼を満州で出産しているので、初の満州世代の首相と言えた(※戦前に満州族出身はいるが傀儡に近いため。)。

 

 温首相は、地質系の技術者だったのを見いだされて政治家となり、その後国民の過半数を占める漢族系の支持を集めて民主化した満州で勢力を拡大し、遂に総理の座を射止めることに成功した。

 漢族出身に日系、米系と言われる市民は警戒感を持ったが、人柄などを武器にうまく国民をまとめ上げることにも成功した。

 

 また温内閣では、複数の黒人系大臣が起用されるなど、人種面で非常に幅広いことでも世界的に話題となっている。

 


 設立当初の極東連合は、麻生議長、小泉総理、温首相の三人が必然的に中心となった。

 そしてこう書いてしまうと、まるで一つの国の為政者のように見えると言われた。

 

 組織としてはヨーロッパ連合(EU)と似ているが、当面は通貨統合の話しは無かった。

 日満が対等な上に、他に同等のゲームプレイヤーが連合内に存在しないので、無用というのが表向きの理由だった。

 しかし日本と満州の間の通貨関係は限りなくフラットにされており、中央銀行が二つあるだけで半ば通貨統合していると言われる事もあるほどだった。

 

 それでも通貨統合を行わなかった事から、議長をトップとした極東議会による、政治を重視した地域統合体と見られやすい。

 しかし域内通過は国内同様となるし、自由貿易分野では完全な無関税となる事を始めとして、様々な自由が保障されている。

 

 通貨統合に関しても、制度と組織を作る構想は初期の段階から存在していた。



 2003年度の各国の所得ドル

 国名    GNP   一人当たりGNP 総人口(万人)経済成長率

日本    5兆1,862億    29,136   1億7,800  5〜6%

満州    3兆8,112億    33,727   1億1,300   3〜5%

(アメリカ 11兆0,041億    37,424   2億9,000) 2〜4%)

※同年の世界全体のGDPは40兆ドル程度。

 


 日満以外の極東連合の人口

ボルネオ(全島)  1,860万人

香港        600万人

シベリア共和国   430万人

内蒙古王国     100万人



 以上が、極東連合成立時のそれぞれの「国力」になる。

 

 日本、満州以外の1人当たりGNPは、内蒙古以外は5000円(※1ドル=1円60銭・約8000ドル)以上ある。

 極東連合の域内GNPの総額は、約9兆2500億ドル(14兆8000億円)。

 総人口約3億2000万人。

 土地面積は、アメリカの3分の1程度。

 

 つまり、アメリカの80%の経済力とアメリカの一割り増しの人口を擁する国家統合体という事になる。

 

 しかもEUと違い二つの国が実質を成しており、歴史的にも関係が深いことから非常に強固な体制を作り上げていた。

 他の国は香港が支那と東南アジアの経済進出のための橋頭堡、シベリア共和国はロシア極東に対する橋頭堡で、ボルネオ三国は量は少ないながらも資源供給地だった。

 

 域内で使われる主要言語は、第一に日本語とされた。

 日本、満州の主公用語であり、北東アジアの一番の経済言語なのだからインフラの面からも当然の選択だった。

 

 いずれ参加国が拡大したときに問題になるという意見もあったが、そもそも大きく拡大するとは考えられていなかったので、大きな問題とは考えられなかった。

 また冷戦時代は、日本が熱心にアジア各国に国際語としての日本語を広めていたので、拡大しても問題は最小限だとも言われていた。

 

 その代わりと言うべきか、英語は第二公用語とされた。

 英語は満州、香港の第二公用語で、事実上の国際公用語ということもあり使われるが、あくまで副言語とされた。

 英語を主公用語などにしたら、それこそ地域性が損なわれるし、いずれアメリカに飲み込まれるのではないかという強い懸念があったからだ。

 

 合わせて日本帝国は自身の国家の地域合併と連邦化を進め、台湾地域、西部太平洋地域をそれぞれ自治地域とした。

 これは国連や諸外国から求められていた事でもあると同時に、日本が1974年の改革から徐々に進めていた事だった。

 ただし道州制の導入には日本各地からの反発が強く、この時点では一部導入に止めざるを得なかった。

 (※これを平成の大合併とも言う。)


 なお、単純に国家連合と言うが、よく議論される通貨統合以外に何ができるのかという疑問も多い。

 結局政府は別だし、外交、軍事も個別に有する。

 では何が連合なのか。

 

 まず第一に、人・モノ・サービスの移動で国境が実質的に無くなり、自由貿易などよりも格段に敷居が低くなる。

 当然だが関税はない。

 また域内居住で有れば、国を跨いでも移民や移住ではなく単なる転居となる。

 他にも、仕事の資格が共通化されているので働きやすく、他国の大学で授業を受けても卒業資格が受けられたりする。

 

 他にも製品の規格の統一があるが、これは日本国内でも家電製品の周波数の違いなどがあったので完全に統一されていない面もある。

 

 一方で、地域国家連合になる事での問題も皆無ではなかった。

 

 ある一つの例として、日本と満州という2つの経済大国があるという事は、2つの大きな証券取引所が有ることを意味していた。

 具体的には大阪証券取引所と大連証券取引所だ。

 さらに域内で見ると、香港証券取引所も世界の証券市場で無視できない存在だった。

 これらを極東連合として一つにするかで、準備期間の間にかなり揉めることとなった。

 結局、ヨーロッパのユーロネクストのような事はせず、特に統廃合などは行わなかったが、アメリカへの対抗という面では問題を残したままとなった。

 

 そうした様々な問題を抱えつつも、一つの地域として人、物、金の動きが自由に行えるようになった利点は大きく、結成当時まだ上向きだった日本経済を中心に、さらなる発展が促されることになる。

 


 そして極東連合成立に際して、一つの巨大計画が提起される。

 

 極東鉄道連結構想だ。

 

 日本列島、北海道、樺太、そしてユーラシア大陸をトンネルでつなぐという雄大な構想だ。

 

 これは第二次世界大戦後に航空機に押されっぱなしだった各国の鉄道関係者による、起死回生の一手だった。

 

 しかも最も工事が難しい津軽海峡は、1990年代に日本独自の開発によって青函トンネルでつながれていた。

 後は宗谷海峡トンネル、タタール(間宮)海峡トンネルを作るだけで、どちらも建設工事費、建設難易度は青函トンネルより下だった。

 

 そして樺太サハリン島は、1980年代より資源の島としてシベリア共和国のドル箱となり活況を示していた。

 島の北東部沿岸で天然ガスと石油を採掘し、特に天然ガスは日満の天然ガス消費量の5〜10%程度を賄っていた。

 現地で採掘され、そこに建設された工場で液化して船で各国に運んでいた。

 このため樺太はかつてない活況状態で、冷戦構造崩壊の頃から2つの海峡トンネル建設の機運も盛り上がっていた。

 

 なお、同じ日本列島と大陸を結ぶのなら対馬海峡だと推す声も、朝鮮半島を中心にあった。

 だが、流石に海峡の幅が広すぎる事、海流が早すぎる事、何より朝鮮半島の発展がいまだ大きく遅れている事から経済性が低すぎて、樺太周りのルートが有望視されていた。

 

 また日本国内では、南樺太を鉄道で結ぶことに一定の意義を感じていた。

 それが大陸と結ぶことにより大きな経済的価値を持ちうる可能性が高まったので、建設機運は高まった。

 

 日本、満州では既に巨大な勢力を有していた飛行機マフィア(航空業界)、船舶マフィア(造船、船舶業界)を中心に反対していたが、当時経済的な躍進が続いていた日本で実質的な計画が動き始める。

 

 そうした状態で極東連合としての団結を求められると、満州としても断り続けられなかった。

 それに満州も、満州産業の基礎を築いた東鉄にとって、日本と大陸を結ぶ鉄道はある意味悲願だった。

 

 かくして2005年、極東連合としての域内事業として「極東連結鉄道計画」が具体的に動き始める。

 同工事は、タタールトンネル、宗谷トンネルの同時工事で、世界最高峰の最新の技術を用いて比較的短期間での完成が目指された。

 

 同トンネルを通る列車は基本的には貨物中心の予定で、通常の貨物列車以外にカートレイン(車をそのまま積載する)の運行も予定されていた。

 また、象徴的意味で限られた数の旅客列車の運行予定で、その中の一つは各国の首都を巡る超豪華列車として鉄道の表看板になる予定とされていた。

 

 完成は2020年夏を予定しており、極東連結鉄道は日本人の悲願の一つの達成であると同時に、極東連合の一つの完成を象徴する計画とされた。

 

 もっとも、当時の日本、満州の経済的躍進の象徴の記念碑と見られる向きが強いと同時に、無駄な社会資本建設の象徴と言われることも多い。

 


 一方、極東連合の結成で大きく揺らぐと言われた「アジア条約機構(シンガポール条約機構)」だが、欧米を中心とする各国の予測とは少し違っていた。

 

 2003年当時、日本からイランかけてのアジア地域を広く覆う安全保障条約として冷戦崩壊後も維持されていたが、もともとNATOほどの安定感はない組織だった事もあり、極東連合の成立で再編成や解散についての議論が起きた。

 

 アジア条約機構は、今までも日本、満州がそれぞれ圧倒的な存在感を持っていた。

 そして、極東連合成立後も軍事力は日、満それぞれが持つが、一段と存在感を増したことは間違いなかった。

 そして日、満の強大化は、冷戦時代なら安定に寄与したが、もはや冷戦時代ではなかった。

 

 東南アジアにはASEANがあるが、一部地域で入り組んでしまったこともあり、日満の強大化に対する不快感こそ示すも解散や離脱、組織の弱体化などマイナス方向には反対していた。

 それにインドネシア人民共和国という共産国を域内に抱えたままだったし、本部がシンガポールにありアジアの東西の真ん中にあるという地理的条件からも、存続と発展、さらには拡大すら望んでいた。

 

 一番西の端のイランは、湾岸戦争以後も安定した統治と発展に努力しており、中近東地域随一の大国として存在感を増していた。

 だが、アラブ的にも世界的にもイランが機構に参加することで一定の安心を得ていたので、機構が揺らいだりましてや解散という事態は避けて欲しかった。

 イラン自身も、自らの発展と安定の為に機構を必要と考えていたし、自らを西の要と捉えていた。

 

 支那地域は、周辺部はほどんどが機構に参加して、支那中央でも支那連邦が参加していた。

 1997年の第二次支那戦争終息後は支那全ての地域が機構に参加することで地域として存在感を増すと言われていたが、極東連合成立でそれも遠いたと言われた。

 一方で、支那連邦がEAFTAを抜けることで支那単体として一体感を強めているので、支那連邦自身は今は力を蓄える時期だと捉えており、そのためにも機構が必要だった。

 

 それに支那連邦は、日本、満州と当面の協力関係を約束していたのだから、余程のことが起きない限り袂を分かつ気は無かった。

 

 インド連邦は1980年代から機構内でも存在感を示していたが、極東連合成立で薄らいだと言われた。

 しかもインドは一国で一つの地域(南アジア)を内包する大国なので、インド以外の国にとって極東連合の誕生は、極端に反発を示すほどではなかった。

 

 しかしインド自身にとっては、機構の中で存在感を発揮し辛い状態は不満が小さくなかった。

 日本、満州と支那連邦の水面下の盟約も薄々知っていた事も、内心の大きな不満材料ではあった。

 

 だが、まだ国力、技術力、軍事力で日本、満州、そして極東連合に並ぶか越えるには長い時間がかかることが明白だった為、機構の中にいて力を蓄える時期だと捉えられていた。

 


 かくして「アジア条約機構(シンガポール条約機構)」は、極東連合成立後も各国の思惑によって大きく揺らぐことなく続いた。

 

 だが極東連合の成立で、アジア地域は極東、支那、東南アジア、インド、イランと分立する向きを強めたのも間違いなかった。

 このため極東連合成立は、シンガポール条約機構崩壊の時限爆弾のスイッチを入れたことになると言われている。

 

 また逆に、次なる巨大国家連合に向けての道標が立ったのだとも言われた。

 

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