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日米蜜月 〜戦後編〜  作者: 扶桑かつみ


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フェイズ145「新たな宇宙開発競争(2)」

 通信衛星、偵察衛星、探査衛星、気象衛星など様々なものを打ち上げる傍らで、日本語で「きぼう」と名付けられた軌道基地(宇宙ステーション)の打ち上げが開始される。

 


 最初の打ち上げは1983年。

 

 1981年からはアメリカがスペースシャトル打ち上げを実現しているため、日本が10年以上遅れてアメリカのスカイラブ計画に追いついてきた程度に捉えられただけで、世間ではあまり注目はされなかった。

 

 一方でアメリカが「スターウォーズ計画」という軍拡計画まで発表していたので、日本の新たな宇宙開発計画はそれに連動したものではないかと見られたりもした。

 

 当初は、「E-Iロケット」の最大打ち上げ重量(15トン)で運べるモジュールで建設を開始。

 2隻の宇宙船が2週間空けて続けて打ち上げられ、ドッキングを実施した。

 ドッキングの中核となるブロックと当面の居住区となるブロックが接合され、「きぼう」と命名される。

 

 この時点では2名の短期滞在が限界なので、年内にさらに1隻の居住モジュール(複合目的のモジュール)が当座の補給物資と共に打ち上げられる。

 これで2名の長期滞在が可能となり、東亜宇宙機構による長期滞在実験が本格的に開始される。

 

 ただしこの段階は第一段階とされ、限定的な人の長期滞在のデータ収集が目的の計画で、本計画ではなかった。

 


 その年(1984年)は、アメリカが大規模で斬新な形状を持つ宇宙ステーション建造計画を発表。

 ソ連も最終的には火星を目指すための実験として宇宙ステーション計画の準備を進めており、宇宙開発の新たな時代の幕開けだと世界中で騒がれたりもした。

 米ソの計画は、共に東亜宇宙機構に対抗するものだった。

 

 「きぼう」の建設が進む1986年は、チャレンジャー号爆発事故のすぐ後、ソ連が宇宙ステーション「ミール」の建設を開始し、東亜宇宙機構は4月に大型ロケット「E-Iロケット」の初号機打ち上げに成功した。

 

 結果、東亜宇宙機構(日満)の宇宙開発は、一度の打ち上げ能力で世界一となった。

 そしてアメリカの宇宙開発は一時停滞を余儀なくされたので、アメリカが仕方なく東亜宇宙機構を応援する形となった。

 アメリカが主導できないのは大きなマイナスだが、東西冷戦構造下でソ連に負けるわけにはいかなかったからだ。

 

 そして1987年、ついに東亜宇宙機構が目指す軌道基地の建設が本格化する。

 「E-Iロケット」3号機が、3名の宇宙飛行士と作業用ポッド(小型モジュール)付きの50トン近い大型モジュールを宇宙へと運搬する。

 ソ連の大型ロケットが運ぶ二倍以上の重さだ。

 

 大型モジュールは、本計画の当座の居住区と新たなコアとなる区画で、今までの区画とドッキングする事で一時的に4名の滞在も可能となる。

 またこの時は、一緒に運ばれた作業用ポッドを使い初の船外作業(建設工事)も実施され、軌道基地建設の規模が一気に拡大された。

 この作業用ポッドは、常時簡易接続されるだけで、その都度建設現場への移動が可能なように作られていた。

 またこの計画から、宇宙服を着ての船外作業も一般的に行われるようになる。

 

 そして80年代から90年代半ばにかけては、日満の経済が大きく躍進している時期と重なるため、東亜宇宙機構の予算も大きく膨れあがり、活発な活動が行われた。

 計画も予算増額に伴い前倒しにされ、一時は金より人が足りないと言われたほどだった。

 

 また、一時的であれ6人滞在が可能となると、早くも満州の商業主義が顔を出し、様々な人を「きぼう」に招待するようになる。

 1人当たり1000万ドル以上と言われた宇宙旅行費(※正確な価格が公表されたことはない)にもかかわらず、多くの人が我先に応募して10年待ちとすら言われた。

 

 なお、主な建設は「E-Iロケット」で行われ、単なる人員の往復・輸送には主に「H-Iロケット」の発展型の「H-IIロケット」(※1991年運用開始)が使われた。

 またこの時点では、補給物資の輸送も「H-IIロケット」によって賄われた。

 打ち上げ費用も高い巨大な「E-Iロケット」は、人が乗ることもあったがあくまで建設のためのロケットだった。

 このため東亜宇宙機構内では、隠語で「H-II」をクルマ(乗用車)、「E-I」をトラックと言った。

 

 その「E-Iロケット」は、当初は1年1機程度の打ち上げが予算と人員の規模から限界と考えられていたが、実際に打ち上げを始める頃には、予算の増額で当初予測の二倍以上のペースで打ち上げできるようになっていた。

 

 このため慌てて建造能力を強化したが、複数回打ち上げが可能となるのは1990年に入ってからだった。

 また、軌道基地ばかり作ってもいられないので、増えた予算の余剰分は他の宇宙開発にも回された。

 

 そして毎年1〜2隻、40〜50トンのモジュールやパーツが打ち上げられていった。

 1988年の打ち上げでは、軌道基地の背骨であり太陽電池区画などを設置するトラスが大きく伸びるように建設され、船外作業による工事の様子が世界中に発信された。

 

 そして居住区と電力も確保されたので、いよいよ本格的な研究区画打ち上げという辺りで、軌道基地建設の話しが政治の色を深めるようになる。

 


 政治の色を深めたのは、アメリカが計画していた宇宙ステーション建設が、何度も計画変更と予算の減額を行っていたからだ。

 しかも1980年代はアメリカ経済が思わしくなく、アメリカの宇宙関連予算も削減されていた。

 そこにきて1986年のチャレンジャー号爆発事故で、アメリカの宇宙開発計画は大きな打撃を受けていた。

 

 その横では、日満が順調に宇宙開発を進めており、宇宙開発全体でアメリカが追い抜かれるのも時間の問題とまで言われた。

 事実、少なくとも軌道基地(宇宙ステーション)建設では、日満の東亜宇宙機構が世界のトップを走っていた。

 

 早々にアメリカへの計画参加を決めていた西欧各国(ESA)も、不景気から計画予算は減り続けていた。

 しかもアメリカの計画の大幅な遅延を受けて、東亜宇宙機構の「きぼう」への関心を深めた。

 

 そうした状況下で、アメリカが西側全体での宇宙ステーション開発計画を持ちかけてきた。

 しかしアメリカの持ちかけてきた話は、東亜宇宙機構の主構成国の日本、満州にとって納得がいかない話しだった。

 


 そもそも日本、満州は、70年代半ばに自分たちの新たな宇宙開発組織を作ると決めた時点で、アメリカに共同での新たな宇宙ステーション開発を持ちかけていた。

 

 だが、アメリカはスカイラブ計画を終えて間もないし、スペースシャトル計画を推進中で余力に乏しかった。

 当時のアメリカのロバート・ケネディ政権も首を縦に振らず、煮え切らない言葉しか返してこなかった。

 

 このため1977年の時点で、アメリカが了承する形で東亜宇宙機構単独での宇宙ステーション計画が決まった。

 


 次に、軌道基地「きぼう」の建設が開始されてから、アメリカのレーガン政権はアメリカ主導によるソ連への対抗としての宇宙ステーション計画を提唱する。

 これが1984年の話しで、その頃既に「きぼう」は一部稼働し、長期滞在実験を行っていた。

 この時点で、宇宙に人を常時滞在させているのは東亜宇宙機構だけだった。

 建設計画も順調に進んでいた。

 

 にも関わらず、アメリカは西側陣営の団結を示すためだと、自らの計画への合流を求めてきた。

 日本、満州としても西側陣営の団結、アメリカとの関係を重視したいが、流石に受け入れられなかった。

 

 このため東亜宇宙機構は、アメリカの計画ではなく自らの計画へ合流する形を求めた。

 何しろ「きぼう」という現物が軌道上にあり、既に投入した予算も段違いに東亜宇宙機構の方が多く、東亜宇宙機構の方が何もかもが先を進んでいたのだから当然の求めだった。

 

 アメリカはスペースシャトルによる輸送能力などの優位を語ったが、打ち上げコストだけで見ればスペースシャトルは東亜宇宙機構の採算には全然合っていなかった。

 

 しかもこの時点で、東亜宇宙機構は軌道基地建設のためにドル換算で10億ドル以上投資していた。

 加えて、行ってきた努力は金には換えられない価値があった。

 

 しかし今度はアメリカが難色を示す。

 アメリカの西側陣営の盟主としての立場が示せないと考えたからだ。

 

 議論と会談は続けられたが、話しはほとんど平行線だった。

 東亜宇宙機構のアメリカへの計画参加は行われず、宇宙ステーション開発はアメリカ、ソ連、東亜と分かれたまま進んだ。

 


 この間も「きぼう」の建設は東亜宇宙機構の計画通りに進められ、その姿を高度400キロメートル近辺に現しつつあった。

 そこにチャレンジャー号爆発事故があり、アメリカは宇宙ステーションの建設能力自体が一時停止してしまう。

 

 この間、アメリカからは主に水面下でアメリカ主導の計画への合流だけでなく、東亜宇宙機構の現行の計画の一時停止を求めるなど理不尽な要求を繰り返し、東亜宇宙機構との間に溝が出来た。

 しかもこの頃は、アメリカと満州の貿易摩擦があったため、さらに両者の溝が深まった。

 

 しかも東亜宇宙機構関連で、疑問点も多い幹部の汚職事件、技術漏洩事件、スパイ疑惑などスキャンダルが相次ぎ、さらにはテロ未遂の事件までが起きた。

 このための主要施設を有する日本が、東亜宇宙機構の警備体制を大きく強化する事にもなった。

 そして一連の事件は、表向きは東側陣営の仕業とされたが、一部もしくは全てにアメリカが関わっているのではないかと言われた。

 

 そして既に計画を進めている東亜宇宙機構としては、施設の老朽化、陳腐化を考えると数年といえど計画の停滞は大きな損失となるので、多少の困難を前にしても自らの計画を推し進めるしか道はなかった。

 

 ここでアメリカも一部妥協し、アメリカ主導の計画が本格的に動きだすまで東亜宇宙機構主導の宇宙基地計画を認め、その間はアメリカの側からの東亜宇宙機構への計画参加を決める。

 

 このため「きぼう」には、スペースシャトルのドッキングパーツが追加される事になった。

 これで西欧各国も動くことができるようになり、まずは「きぼう」への宇宙飛行士派遣が決まった。

 独自の宇宙開発に拘っていたインドも、重い腰を上げて「きぼう」に人を送り込んだ。

 

 その間もアメリカの宇宙ステーション計画は二転三転し、予算規模は減り続けた。

 1990年に「フリーダム」という名前が決まったが、実際は何も決まっていないも同じだった。

 


 そして「きぼう」が各種実験で実働段階に入れる第二期工事を終える頃になると、さらに話しが迷走する。

 

 今度はソ連が極度の財政難に陥り、さらにはソ連そのものが滅亡したので、ロシアを加えてのより国際的な宇宙ステーション計画にしようという話しが持ち上がったのだ。

 

 そして1993年、ついにアメリカは自前の計画の白紙撤回と、国際宇宙ステーションへの一本化を決めるが、1993年は「きぼう」が第三期工事を終え当面の完成段階に達した年でもある。

 

 「きぼう」建設のため、「E-Iロケット」は1987年からは年1機のペースで打ち上げられ、1990年からは計画を拡大して年2機がサイパン島で打ち上げられた。

 巨大ロケットの打ち上げは、スペースシャトルと並ぶ見物と言われた。

 

 「きぼう」建設のため都合11回の「E-Iロケット」打ち上げが実施され、毎回40〜50トンの人工物が加わっていった。

 

 建設のため新型の「H-IIロケット」も打ち上げられ、中小パーツを打ち上げたり補給物資を送り込んだ。

 工事も順調に進み、一度に複数人が複雑な船外作業を行うなど、東亜宇宙機構は多くの経験を蓄積することもできた。

 

 「H-Iロケット」により運ばれた小型の初期モジュールは、いわゆる「宇宙の飯場」として利用され、完成後も一応は残されていたがもはや予備モジュールだった。

 


 「きぼう」本体は、「E-Iロケット」が打ち上げた大型モジュールなど構造物によって構成されていた。

 総重量は初期の小型モジュールを含めて約600トン。

 当初計画の拡大プランの形で建設が行われ、8名の常時滞在が可能となった。

 居住モジュールも本格的なものが増やされ、一時滞在を含めると最大12名の滞在が可能となる。

 人員輸送の「H-IIロケット」は3〜5名の人員を乗せて平均2ヶ月に1度打ち上げられ、多くの人が「きぼう」に出入りした。

 中には、単なる宇宙旅行者の姿もあった。

 世界初の宇宙結婚式が、世界の話題になった事もあった。

 

 1988年には、東亜宇宙機構以外の宇宙飛行士が初めて「きぼう」で長期滞在し、1990年にはアメリカのスペースシャトルが初めて「きぼう」とドッキングした。

 ロシア用のドッキングモジュール接続の話しも出てきた。

 

 しかし「きぼう」は、あくまで東亜宇宙機構の施設だった。

 どこかの国の実験モジュール接続しようという話しもゼロでは無かったが、計画にない事を追加で行うには手間も経費も時間かかりすぎるため、どこも当面は断念した。

 

 一方、「きぼう」のライバルであるソロシアの「ミール」は、いまだ建設途上(1996年完成)で全体の6割程度の完成度だった。

 しかも1993年時点では総重量約70トンと、かつてのアメリカのスカイラブ程度の重量で、完成しても125トンにしかならない。

 豊富な予算と人材を投入できた「きぼう」とは大きく違っていた。

 

 そうした状態で、アメリカはロシアも加えた形での国際宇宙ステーション計画を持ちかけてきたのだ。

 


 アメリカなどの提案を「きぼう」を有する日・満が断った場合、少なくとも当面の宇宙開発では米ロをライバルとしなければならない。

 

 とはいえ、1993年次点ではロシアの「ミール」が未完成な状態で、アメリカの国際宇宙ステーション計画は、アメリカが打ち上げるコアブロックに「きぼう」と「ミール」をドッキングさせるというものだ。

 当然スペースシャトルとセットのシステムで、最も資金を投じないアメリカが最も利益を得る事になる。

 

 このためアメリカの案は、東亜宇宙機構、ロシアが共に反発した。

 

 東亜宇宙機構は、現行でもスペースシャトルは「きぼう」にドッキング可能なので、このままモジュールを少し増やして形だけ「国際化」すれば最も合理的で低価格の案だというのが、以前からの主張であり提案だった。

 だがそれでは、アメリカもロシアも「従」の立場で、日満に主導権が握られることになる。

 

 一方のロシアは、アメリカの計画実働を待っていたら「ミール」、「きぼう」の老朽化が進むので、いっそのこと新規に建設するべきだと主張した。

 

 そして現状の宇宙開発予算では、アメリカ、ロシア共に単独での宇宙ステーション建設は不可能だった。

 アメリカ単独なら不可能ではないのだが、この時点でのアメリカには東亜宇宙機構ほどの努力をする気が無くなっていた。

 

 こうなると、なぜ東亜宇宙機構は独自で宇宙ステーションを建設できたのかと疑問に感じるところだ。

 だが東亜宇宙機構は、予算が順調に増えた事と、米ロより他の宇宙開発を犠牲にしていた、もしくは犠牲にする事が出来たから達成できたものだった。

 

 その証拠に、東亜宇宙機構は他惑星の探査などで、他国に大きく水を開けられていた。

 独自のGPS網構築でも遅れ、20世紀末まではアメリカに頼らざるを得なかった。

 また予算自体も東亜宇宙機構だけでは足りないので、強引に日満の関係各省庁から拠出されている。

 このため一時期の東亜宇宙機構は、出向ポストが非常に多く見られた。

 

 そして予算面で見ると、1993年の東亜宇宙機構は予算規模でNASAの約80%程度もあった。

 かなりの予算規模なのだが、ほとんど「きぼう」建設組織と化していて「宇宙の土建屋」とまで言われた。

 

 それだけ多くの予算と人員が必要だったからだ。

 このため東亜宇宙機構は、ロシアの言う新規計画に大規模に参加する事は不可能に近かった。

 

 このため「きぼう」を国際宇宙ステーションとすれば、「きぼう」維持のため他からお金が回ってくるので、東亜宇宙機構としても有り難い話しではあった。

 軌道基地建設が一段落したのだから、今まで犠牲にしてきた打ち上げ、研究、開発を行いたかった。

 

 もっとも、「きぼう」を国際宇宙ステーションとする場合、東亜宇宙機構と米ロでは使用期間に大きな隔たりがあった。

 

 「きぼう」の運営維持には大金が必要となるので、東亜宇宙機構としては、それほど長期間使うつもりがなかった。

 最短で5年という計画もあった。

 さらに宇宙での研究開発が主目的となるが、演算装置コンピュータの発達予測から無重力空間や宇宙空間で行わなくても構わない実験が増えると考えられていた。

 

 このため東亜宇宙機構は、一般計画上で10年程度の運用を予定していた。

 打ち上げしたモジュールやパーツの一部も、技術や予算などの都合からその程度の耐久性を見越しているものもあった。

 予定より長期使用するなら、それらのモジュールやパーツも交換しなければならない。

 

 そして世界中の国々が集まる国際宇宙ステーションとなると、色々話しも違ってくる。

 日満以外の国も行いたい実験は山のようにあるし、宇宙に人を送り込みたい国も非常に多くなる。

 さらには国際協調という点から、宇宙ステーションの維持そのものが目的化する可能性も高かった。

 

 そして国際宇宙ステーションの運用を止める時は、次の大きな計画、恐らく再び有人月面探査や基地建設を目指す計画を動かすときと考えられた。

 


 議論は、ソロシアが国際宇宙ステーション参加を決めた1990年から92年にピークを迎える。

 そして出された結論は、「きぼう」の延長使用可能なモジュールを基幹として、モジュール交換と増設で「国際宇宙ステーション(ISS)」を建造開始から5年以内に完成させるというものだった。

 

 名称は一般的には「国際宇宙ステーション(ISS)」だが、「きぼう」の英語名「HOPE」が愛称として認められた。

 


 「国際宇宙ステーション(ISS)」の完成時の規模は、総重量約800トン。

 「きぼう」時代より約200トン増えるが、100トンほどを老朽化、劣化により破棄するので、300トン近く増やすことになる。

 

 常時滞在人員数は通常12名で、「きぼう」より4名増えた。

 もともと「きぼう」は物資補給や資金の関係で8名に抑えていたのもあるが、追加の居住区は小規模な人工重力区画を接続する予定とされた。

 逆に、初期の小型モジュールは老朽化もあり廃棄されている。

 

 実験区画、作業区画も増やされ、トラス(支柱)も増やして故障した人工衛星の修理、宇宙ステーションからの衛星の簡易打ち上げも可能とする大きなプランに拡大した。

 これはアメリカが求めたものだが、様々な事ができるスペースシャトルを有するアメリカにとって有利な要素だった。

 

 また「きぼう」の区画の前側がロシアモジュール、後ろ側がアメリカ、欧州モジュールが追加されている。

 カナダ、インドはモジュールを作るほどの予算拠出は無かった。

 

 主な追加モジュールの打ち上げは、約半分を東亜宇宙機構が行う他、アメリカ(スペースシャトル)、ロシア(プロトンロケット)が加わり、西欧諸国のESAも独自のモジュールを1基用意する事になった(※打ち上げは東亜宇宙機構が行う。)。

 

 参加国は、東亜宇宙機構諸国のうち日本、満州、アメリカ、ロシア、カナダ、ESAから14カ国、そしてインドも加わった。

 他にも参加を打診してきた国はあったが、拠出予算の額などから叶わなかった。

 

 常時滞在者は12名だが、施設の半分以上が東亜宇宙機構のものになるので、日満の発言力が非常に強い状態とならざるを得ず、滞在者の半数は東亜宇宙機構所属もしくは招待者となった。

 

 そして「きぼう」改め「HOPE」としての運用は、1998年(※実際は1年遅れた1999年)にスペースシャトルが追加パーツを運び、「きぼう」の老朽化モジュールと交換するときから始まる事とされた。

 そして建設開始から6年後(※1年遅延した。)、「きぼう」は完成する。

 

 東亜宇宙機構は、「HOPE」への移行は(自らの予算面から)もっと早くても問題ないと回答したが、準備その他でどうしても5年程度が必要だった。

 このため1999年まで、東亜宇宙機構で「きぼう」として運用される事も決まった。

 しかし1993年以後は、各国が予算(と滞在員)を出すことになり、アメリカはスペースシャトルで人員と物資も運ぶので、実質的には1995年頃から国際化が始まっている。

 

 「HOPE」の運用予定は、当初は完成から10年間の2014年までとされた。

 1983年に「きぼう」の建造が始まったので、あしかけ30年という長期間運用される事になる。

 当然ながら、これは人類が作った宇宙の人工物運用のギネス記録になる。

 


 なお、「きぼう」改め「HOPE」とする際、一つ問題が起きた。

 

 と言うのも、東亜宇宙機構を構成する国々の中心は日本と満州だが、どちらも日本語を主な公用語(第一公用語)としているので、必然的に東亜宇宙機構内での主な使用言語は日本語とされていた。

 

 満州や構成国の一部が英語を使用していたし、国際通信などの必要性から英語も併用して使われていたが、あくまで補助的でしかなかった。

 そして「HOPE」に変更する際に主使用言語は英語とされたのだが、「きぼう」内の表記の多くが日本語だったことが少し問題となったのだ。

 しかも設備や道具に彫り込まれた文字の場合は英語に変える事も難しく、「HOPE」滞在員は英語だけでなく限定的ながら日本語も覚えなくてはならなくなる。

 

 この事をもって、20世紀終盤の宇宙開発競争は日本人が勝者だったと言われることがある。

 


 1993年以後の東亜宇宙機構(EASA)は、今まで「きぼう」建設に全力を傾けていた力を、他の開発に多くを回すようになる。

 引き続き「HOPE」建設や運営維持に多くの予算が必要だが、今までと比べると一気に半減した。

 しかも主要構成国の日満の経済的発展と参加国の増加に伴い、さらに予算は増えていた。

 

 このため東亜宇宙機構は、主に満州が求めていた商業路線での宇宙開発と衛星事業に大きく傾いていく。

 だから科学的見知に立った宇宙観測は、相変わらず低調だった。

 満州に引きずられる形で、東亜宇宙機構全体が宇宙にあまりロマンを求めていなかった。

 

 惑星探査、小惑星探査などは行うには行ったが、それも必要だから行ったに過ぎない。

 知りたいからという理由は、あまり理由とされなかった。

 

 そして新たな宇宙計画として、「H-IIロケット」はより安価で安定した「H-IIAロケット」が開発された。

 大型の「E-Iロケット」は軌道基地建設以外に使い道が少ないと見られていたが、一度に多数の衛星を打ち上げるだけの需要があれば、かなり割安で打ち上げが可能なので、その後も意外に使い続けられる事になる。

 

 しかも「E-Iロケット」は、21世紀に入ると「E-IIロケット」として後継機の開発までが決まる。

 

 開発は現行の低コスト型と発展型の2種類で、低コスト型は安定性の向上と低価格化を求める以外で大きな変更はなく、「HOPE」の増築と運用の末期から利用された。

 発展型は、初期加速の補助ロケットを大型化することで打ち上げ能力を大幅に高めるものだが、運用は2010年代からとなった。

 

 もっとも20世紀が終わる頃の計画では、「きぼう(HOPE)」の建設終了で月ロケットのように役目を終え生産終了を予定していた。

 

 しかし21世紀に入ると、今度は月軌道基地、月面基地建設という国際目的が浮上してきた為、そこで東亜宇宙機構が重要な役割を果たすべく、改良型の開発が行われる事となった。

 

 また、1970年代に断念された往還型ロケットの開発も、21世紀に入ってから再び始められている。

 開発は豊富に予算を投じて熱心に行われており、他国より一歩リードしていた。

 2010年代には、中型ロケットほどの規模のクラスター型ロケットの噴射着陸実験が行われるようになっている。

 東亜宇宙機構では2020年代の実用化を目指し、月面基地建設および運用で主導権を得ようと野望を燃やしている。

 


 人工衛星の方は、従来通りの軍用、民間用衛星に加えて、1990年代半ばから衛星測地網構築のための人工衛星打ち上げが活発に開始されるようになる。

 

 衛星測地網はアメリカの「GPS」が有名だが、東亜宇宙機構(もしくは日満の前組織)でも1970年代から計画は持ち上がっていた。

 だが開発力、予算などの面から、当面は断念された。

 しかも軌道基地開発を最優先とした事で、さらに先送りされていた。

 しかし、軌道基地開発で打ち上げをはじめ様々な技術の大幅な向上に成功した事もあり、日満政府も関係各省庁から大きな予算を割り当てることで、1990年代半ばから打ち上げを開始。

 21世紀初頭には20機以上の打ち上げを成功させ、実質的な運用を開始している。

 

 そして同システムの構築は、時期的に3段階からなっている。

 

 第一段階は、試験運用と本格運用前の各種技術、情報の獲得。

 このため小規模で限定的な規模が構築され、打ち上げられた衛星も耐用年数の短い廉価版だった。

 第二段階では、GPS同様に全世界規模の衛星測地網を作った。

 そして21世紀に入ると、別個に限られた地域でのより正確な測地を可能とする局地システム用の衛星が追加で打ち上げられる。

 限定地域は主に日満上空で、非常に細かい数値での測地が可能となった。

 

 全地球規模の方を「やまびこ」、局地規模の方を「みちびき」と呼んだ。

 


 なお、東亜宇宙機構の人工衛星などの命名は、日本語(かな文字表記)とされていた。

 日本語名は満州から不満が無くもなかったが、英語ばかり使うのも憚られるし、脱支那を一つの標榜としていた満州としては漢字の使用もしたくはないし、これと言った歴史上の人物もあまりいないとあっては、それらしい日本語(かな文字表記)というのは、妥協できる名付け方ではあった。

 


 「HOPE」完成以後の宇宙開発は、再び月に焦点が当てられるようになった。

 

 「HOPE」完成前の2004年には、東亜宇宙機構は各国に先駆けて「かぐや」を月上空に送り込んで、月面のより正確な探査と地図作製を行った。

 この「かぐや」は、ある意味新たな号砲だった。

 

 その前年の2003年は、日本、満州を中心とした国家連合が結成された年であり、21世紀に入る頃にはNASAに匹敵する予算を運用するようになっていたEASAは、月面へと強く傾倒していくようになっていたからだ。

 

 2003年のEASAは、2020年までに人を月面に送り込む計画を発表。

 

 これは、恒久的な月面基地の第一歩になるだろうと宣言を放った。

 この発表は、またも足並みを乱すのかとアメリカなどから批判もあったが、東亜宇宙機構にしてみれば他国の足並みが遅すぎる不満の現れであり、発表によって他国も歩みを早めざるを得なかった。

 

 一方で月を目指すということは、「HOPEきぼう」はEASAにとって主から従へと変化した瞬間ともなった。

 

 一方で、そして月面に再び関心が向けられると、「HOPE」は月に行くための中継基地に使えないかと考えられるようになる。

 このため、初期施設のさらなる交換などの改装工事計画も持ち上がり、日満の行動に焦ったアメリカ主導ながら、月軌道と月面に有人基地を置く計画が2010年代から本格的に動き始めることになる。

 

 そしてアメリカでのロケット開発が遅れる中で、大型の「E-II」を擁する東亜宇宙機構(EASA)の存在感は再び大きな高まりを見せつつあった。

 

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