フェイズ144−1「新たな宇宙開発競争(1)」
1978年4月、日本帝国の「宇宙開発事業団(NASDA)」と満州帝国の「満州宇宙局(MSA)」は発展的に合流し、新たに「東亜宇宙機構(EASAもしくは東宙)」が成立した。
単体の宇宙開発組織としては、アメリカ合衆国の「アメリカ航空宇宙局(NASA)」に次ぐ規模の組織の誕生だった。
(※ソ連は多数の開発グループに分散していたし、西欧のESA設立は1975年だがEASAが予算規模で勝っていた。)
東亜宇宙機構(EASA)には、設立時からどこを目指すのか、何を行うのか明確なビジョンがあった。
突き詰めてしまえば、宇宙の商業利用でトップに立つ事。
これに尽きた。
日本には軍事利用以外であまり明確な目標は無かったが、満州は商業の宇宙利用が常に第一の目的だったからだ。
それに二国で行う事業なので、米ソのようにイデオロギーや国威発揚は目的として相応しくなかった。
また、正直なところ米ソのイデオロギー競争、プロパガンダ競争に付き合いきれない事は、月レースを傍目で見ているだけで思い知らされていた。
軍事用衛星は国家安全保障も関わるので別だが、それでも米ソの3分の1にも及んでいないのが実状だった。
だが新たな組織として、単なるロケット打ち上げではそれぞれの国からの支持が得られないので、何か華やかな表看板が必要だった。
そして西側第二位、第三位の経済力を持つ日本と満州が中心となった組織は、それ以上の成果をそれぞれの国民と世界に見せる必要があった。
しかも既に有人宇宙飛行も果たしたので、それ以上でなければならないが、月は目指せない。
そうした中で選ばれたのが、自力での宇宙ステーションの建設だった。
本当は月に人を送り込みたかったが、それに必要な予算、人員、技術を考えると不可能なのは分かり切っていたので、実現できそうな事業を目標に据えたのだ。
日本は、NASDA設立の1年前に自力での有人宇宙飛行を実現した。
そのために日本はかなりの無理をしたが、米ソに次ぐ快挙には一定の価値があると考えられていた。
冷戦構造下のイデオロギー対立の時代下では、力を示す必要があったからだ。
自前で技術を確立した事も、大きな価値があった。
そして1960年代の時点で軍事衛星と月レース以外で米ソが目指そうとしていたのが、低高度軌道での所謂「宇宙ステーション」だった。
道のりはそれなりに遠いが、研究自体はロケット自体の打ち上げが成功するより前から始められていた。
しかし米ソは、イデオロギーの赴くまま月面を目指したので、宇宙ステーションは次の課題だった。
そしてそこに、1960年代の日本が付け入る事ができる隙があると見られた。
このため1968年に有人宇宙ロケット打ち上げに成功すると、その後も主に低高度軌道への人と物の投入に力を入れた。
これを米ソなどは、遅ればせながら日本も月レースに参加するのではないかと観測されたりもした。
日本の宇宙開発も、有人宇宙ロケットの実験を繰り返したからだ。
行ったことは米ソの後追いに近く、違っていたのは目指す場所の違いだけだった。
1968年中に1日以上の宇宙滞在を実現させ、翌年には3人乗りの宇宙船打ち上げを行った。
宇宙遊泳も1972年に実現し、74年には2隻の宇宙船のドッキングにも成功する。
この間、ロケット打ち上げの失敗があったし、他にも危険な場面もあったが、宇宙では一人の死者を出すこともなかった。
(※地上実験の失敗で死者は出ていた。)
ロケットも改良され、より大型のロケットも開発中だった。
この時点で、初期の宇宙ステーションまで後一歩で、月レースを終えた米ソにかなり追いついていた。
その間、月に無人の小型衛星を送り込んだことはあったが、それはNASDAではなく文部省=東大系の宇宙科学研究所が行ったものだった。
また日本は、人が月面に行けるほどの大型ロケットは、小規模な研究止まりで開発していなかった。
しかも1974年の改革で、宇宙開発予算も軍事関連分を中心にかなりの削減を受けて、日本の宇宙開発は足踏みを余儀なくされる。
それを経ての東亜宇宙機構(EASA)設立だった。
東亜宇宙機構(EASA)が目標に定めた宇宙ステーション建設には、幾つかの目的がある。
最低限の目的は、人類の宇宙での長期滞在実験だ。
これは1972年から1974年のアメリカが、スカイラブ計画でかなりの成果を挙げていた。
自前のデータとしてはともかく、表看板とするからにはアメリカ以上が望ましかった。
またソ連も、さらなる高みを目指すための前段階として宇宙ステーション計画を進めているので、少なくとも負けないだけの計画規模が望ましかった。
幸いと言うべきか、アメリカはより広範で先進的な往還型宇宙船、いわゆる「スペース・シャトル」計画を進めているため、当面は競争相手では無かった。
そして長期滞在以外の目的となると、やはり宇宙でしか出来ない実験になる。
特に満州は、大きな利益が得られる可能性が高い宇宙実験に強い意欲を見せていた。
しかし宇宙で様々な実験を行うとなると、長期滞在はもちろんだが複数人を送り込み、尚かつ実験を行うだけの空間、余分な荷物を保管する空間が必要となる。
そしてアメリカのスカイラブ計画から見えてきた事は、数百トン単位の規模の施設を低高度軌道に建設する必要性があるという事だった。
このため東亜宇宙機構は、まずはアメリカと同様に長期滞在実験を重視することとした。
これならそれほどの規模は必要ではないからだ。
そして段階的に基地を拡張し、実験ができる規模へと拡大しようと構想をねった。
それでも、初期計画だけで合計100トン以上の打ち上げを行わねばならず、計画全体としては東亜宇宙機構の総力を挙げなければならなかった。
東亜宇宙機構の予算規模は日満の国力、国家予算規模に比例するが、1978年当時ではせいぜいアメリカの30%程度で、宇宙開発予算も自ずとアメリカの30%程度だった。
しかも日本では、少額とはいえ別組織が予算を使っていたので、実質は25%程度だった。
しかし1980年代にかけて日満の経済力、国家予算は大幅の右肩上がりを経験したので、宇宙関連予算も増額に次ぐ増額を重ねた。
国家予算全体に余裕がでてきたので、予算比率も増やされた。
さらに日満以外にも、東亜宇宙機構に参加する国が増えていった。
日満以外が拠出する金額は知れていたし、金の分だけ口も出してくるが、マイナスよりプラスの方が良いに決まっていた。
しかも、宇宙に利益を見つけた企業もさらに関連技術の投資を増やしていった。
こうして1990年代前半には、東亜宇宙機構の予算規模はアメリカのNASAの70%近くにまで膨れあがった。
その気になれば、自分たちもスペースシャトル計画を出来るほどの額だ。
(※その場合、スペースシャトル以外の大型ロケット打ち上げができなくなる。)
東亜宇宙機構の「軌道基地」計画は、1978年の設立時に発表された。
それまでの1970年代半ばから実質的な計画が動いており、さらにはNASDA時代の日本の各種実験で、建設に必要な基礎データのかなりがすでに獲得されていた。
あと必要なのは、一定規模以上の大型ロケットを連続して打ち上げる能力と予算だった。
だからこそ、東亜宇宙機構という巨大な組織が必要だったとも言えるだろう。
日本のロケットは、米ソがそうだったように大陸間弾道弾(ICBM)をはじめとする各種弾道弾と基礎技術を同じくしている。
主に軍用では、同じロケットエンジンが使われる事もあった。
また日本の場合は、1975年で大陸間弾道弾の運用を止めてしまったので、技術の一部は潜水艦発射弾道弾の技術も加わる。
しかし打ち上げロケットは液体燃料、弾道弾は固定燃料が主となるので、完全に同じ技術が使われているわけではない。
日本が人類を宇宙に送り届けたロケットは、「N型ロケット」と呼ばれるロケットの最終型に当たる。
初めて人工衛星を打ち上げた「N1ロケット」を始まりとして、その改良型が次々に「N2」「N3」と開発され、日本人を乗せたロケットは見た目も能力も違う「N5」だった。
この頃の日本のロケットは、当初から初期加速の補助ロケットに固定燃料を使うことだった。
ロケットは補助ロケットを含めると2.5段式で、メインロケット1基に小型の補助ロケットを用途に応じて大小2〜8基取り付けて打ち上げる。
2.5段なのは、最初にメインロケットと補助ロケットの全てを噴射させ、最初に補助ロケットが切り離されるからだ。
メインロケットは出来る限り1基とされたが、当時のロケットエンジンの能力では限界があるため、開発が進むに従い2〜4基のクラスター型となっていった。
その後、第一段のメインロケットも離れ、第二段ロケットに噴射。
そして所定の軌道に様々な荷物を送り届ける。
日本人を乗せて打ち上げた「N5」は、基本性能は低高度軌道8トンの貨物を打ち上げることができる。
だが8トンでは、軌道基地建設を実現するにはまったく現実的な数字ではなかった。
また、ロケットは技術的な無理もしていたので、打ち上げコストも安いとは言えなかった。
それに「N5」では、地上と軌道基地の人の移動に使うのが精一杯だった。
このためより安価で安定した性能の打ち上げロケットが必要だったのだが、70年代に入ると後継機となる新型が開発されつつあった。
開発自体は、「N5」が開発される前から始められ、第二世代の大陸間弾道弾(ICBM)の開発とも一部連動する形で行われた。
もっとも、ICBM自体は1974年に廃止が決まったので、新型ロケット計画だけが生き残る形となっている。
それでも一部が大陸間弾道弾と同じ技術、部品を使うことで、コスト削減も大いに期待されていた。
そして出来れば、新型で最初の日本人を宇宙に送り出したかった。
しかし1968年当時は、打ち上げロケットとしての打ち上げ成功率を達成するほどの安全性に自信が持てない為、実績のある「N型ロケット」の開発促進と大型化によって日本人を送り出さざるを得なかった。
一方で新型ロケットの開発自体は継続され、大陸間弾道弾の方の性能、安定性の双方を向上させることには大いに役に立った(※大陸間弾道弾は1975年に全廃された。)。
また派生技術は、潜水艦発射弾道弾にも応用された。
そして技術自体は打ち上げロケットも同じであり、来るべき大型ロケットの開発は10年以上の雌伏を経てようやく実現の運びとなった。
NASDA時代に「H型ロケット」と名付けられたロケットは、最大で低高度軌道10トン、静止衛星軌道4トンの投入能力で十分な性能があった。
打ち上げ重量は300トン以上と大型化したが、「N5」より能力が高く無理をしていた「N5」より打ち上げコストもかなり下げられた。
しかも十分な発展余裕も持っており、この後も改良されつつ長らく使われていく事になる。
そして「H型ロケット」の「H-Iロケット」での打ち上げが開始される。
初号機の発射は東亜宇宙機構設立の1978年に行われ、大型衛星を静止衛星軌道に打ち上げることに成功する。
またその後の打ち上げでは、有人衛星の打ち上げも行うようになった。
しかし軌道基地建設を行うには、まだ能力が不足していた。
軌道基地の小型モジュール運搬や部品、補給物資の輸送には使えるが、人と物を載せて建設ができるほどの能力は無かったからだ。
また当時のNASDA(もしくは東亜宇宙機構)には、米ソのような大型ロケットが無かったので、本格的な大型ロケットの整備計画が始動する。





