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日米蜜月 〜戦後編〜  作者: 扶桑かつみ


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フェイズ143−2「第二次支那戦争」

 かくして10月13日午前3時、アジア条約機構に属する日本帝国、満州帝国の軍隊は、支那共和国に対する軍事制裁を開始する。

 支那連邦共和国は、事態がより悪化する可能性がある事と国内情勢の安定化を優先するという理由で、この時点での攻撃には参加しなかった。

 しかし国境線の警戒は一段と高められた。

 

 日満軍の攻撃方法は、既に展開を終えていた海空軍部隊による、空爆と巡航ミサイルによる攻撃。

 湾岸戦争で示された戦法を、さらに装備と戦術を洗練させた形で実施した形だった。

 

 日本軍は黄海に緊急展開した艦隊から、空母艦載機と巡航ミサイルによる攻撃を実施した。

 空軍、戦略空軍は、第一撃には参加しなかった。

 

 攻撃は、全面戦争を意図した攻撃ではないため、攻撃目標は象徴的な意味での西安への進撃途上の軍及び補給部隊に対する攻撃と、各地の情報・通信施設、さらには一部空軍基地だった。

 首都北京は敢えて攻撃対象から外され、支那共和国侵攻に対するメッセージとしての攻撃となった。

 

 攻撃を受けた支那共和国は二つの意味で驚いた。

 

 一つは、アジア条約機構が短期間のうちに躊躇無く攻撃してきた事。

 もう一つは、自らの防衛網が全く機能しなかった事。

 先端兵器で20年以上遅れた装備しか持たないため、湾岸戦争でのイラク軍同様もしくはそれ以上に反撃や防御を出来なかった。

 このためアジア条約機構側が予測したより、大きな損害を受けていた。

 

 激しい電子妨害でレーダー、通信が使用不能もしくは困難な状態に追い込まれ、そこにミサイルと攻撃機が襲いかかった。

 支那共和国にとっての僅かな救いは、湾岸戦争ほど大規模攻撃では無かった事ぐらいだが、一撃で戦争遂行能力が実質的に半身不随に近い損害を受けたことは、衝撃以上の出来事だった。

 

 この時攻撃に参加したのは、主に日本海軍の艦艇と日本、満州空軍機になる。

 しかし局地戦としては大規模で、日満合わせて300機以上の航空機が作戦参加し、約100発の巡航ミサイルが使用された。

 それでも日本は戦略空軍を偵察以上で用いていないなど、全面攻撃ではなかった。

 そして戦線後方では、第一撃で支那共和国が反応を示さない時に備えて、本格的な戦争準備が急速に進められていた。

 この中には、予備役動員や地上侵攻すらオプションに含まれており、実際満州陸軍を中心として準備も開始されていた。

 硫黄島などでは、戦略爆撃機の出撃準備も進んでいた。

 

 しかし、アジア条約機構(日満軍)としては、最初の一撃で支那共和国の政府、軍部の士気を挫き、支那共和国から撤退させれば十分な成果だった。

 後方での準備は、あくまで保険でしかなかった。

 湾岸戦争で示されたように、先進国の軍事力に対してそれ以外の国が正面から戦っても勝ち目が無いことは十分に世界にしめされていたので、第一撃にそれを分からせれば十分と判断されたのだ。

 


 アジア条約機構(日満軍)の攻撃に対して支那共和国軍は、日満軍が警戒したほど防衛体制を敷いていなかった。

 この時の支那共和国軍は、手持ちの空軍戦力と防空部隊の多くを首都防衛と各館連施設、そして前線部隊に集中していた。

 それでも他も相応の防衛体制にあったのだが、日満軍の電子戦の前に偵察網、連絡網が麻痺してしまい、まともな迎撃が出来なかった。

 そもそも攻撃はないと言う前提だったので初動が遅れに遅れて、損害を大きくしていた。

 

 空軍機の場合はスクランブルした機体もあったのだが、日満の海空軍機の目標以上の価値はほとんどなかった。

 遅ればせながらも支那共和国各地を飛び立った迎撃機のほとんどは、日満のAWACSによって飛び立った時から捕捉され、遠距離からの誘導ミサイルで次々に撃墜されていった。

 

 そして一方的に撃破されることは、力で国を支配してきた支那共和国の軍事政権にとって緊急事態だった。

 政権を維持するため、国内に対して自らの力を誇示しなければならないと短絡的に考えた。

 そして彼らにとってお誂え向きに、示威行動を兼ねて黄海に日本艦隊が入り込んでいたので、支那共和国軍としてはこれに損害を与えることで「派手な戦果」の映像を得ようとする。

 

 前線からなけなしの攻撃機隊を呼び戻し、沿岸部に急ぎ対艦ミサイル部隊を展開させ、数年前イラクが行ったような攻撃を規模と密度を縮小した形で攻撃した。

 

 そして、湾岸戦争でミサイル戦の脅威を身を以て体験した日本海軍は、示威行動であっても自らの艦隊防空を手抜きにする筈もなく、支那共和国空軍機はさらに数を増したイージス艦の餌食となった。

 この戦闘では、イージス戦艦《武蔵》が出動しており、さらに近代改装で強化された圧倒的防空能力を披露して、支那共和国は日本海軍の引き立て役にされてしまう事となる。

 湾岸戦争ほどではないが、ミサイルを連射して迎撃する《武蔵》の勇姿は、かっこうの宣伝材料となった。

 

 一応は示威を目的として作戦行動していた支那海軍の洋上艦艇と、情報収集のため活動していた払い下げの旧式潜水艦も、開戦前から捕捉され続けていた事からすぐにも撃沈された。

 

 洋上艦艇同士の戦いはフォークランド戦争以来で、日本海軍が直接挙げた撃沈戦果としては、事実上第二次世界大戦以来の事となって話題になったりもした。

 ただし水上艦の戦いは、一方的にミサイルで攻撃するだけだったので、かつての戦いのように大砲を撃ち合うような勇ましいものではなかった。

 


 そして限定的とはいえ反撃にも失敗した支那共和国は、既に西安まで20キロの地点まで進軍していたことを交渉材料として、まずは戦闘を仕掛けてきたアジア条約機構に交渉を持ちかける。

 

 彼らとしては時間稼ぎが目的で、交渉する裏で進撃を続けて最低限の目標である西安だけでも奪回(陥落)しようとした。

 そして西安を落とした段階で、本格的な交渉を開始する積もりだった。

 

 だが、当然と言うべきか、アジア条約機構ならびに国連は、交渉の最低条件として戦闘行為及び即時進撃停止を要求する。

 しかも受け入れられない場合は、戦闘を継続しさらなる攻撃拡大すら示唆する。

 

 アジア条約機構の後ろでは、アメリカ軍及びNATOまでもが動きだそうとしていた。

 しかもすでにアメリカ空軍の極東地域への移動は始まっており、アメリカ西海岸では空母機動部隊が出動し、グァム島には戦略爆撃機の進出までが始まっていた。

 

 10月15日になる直前、事態はさらに動く。

 

 今度は支那連邦共和国が、これ以上支那共和国による中華共和国への攻撃が続けば、アジア条約機構加盟国として戦闘参加するという声明を発表したのだ。

 この声明は、支那連邦内の政治的ゴタゴタが取りあえず沈静化した事を物語っており、支那共和国にとっては戦闘行為を続ける危険をさらに一段階高めるものだった。

 

 だが、力によって権力を維持している支那共和国としては、国内向けの政治として安易に弱腰な態度は見せられなかった。

 表向きだけでも自らが主導権を握れる形での交渉のテーブルにつく事はできても、恫喝に屈する形で交渉のテーブルにつくことはできなかった。

 故に支那共和国の軍事政権は、支那連邦に対しては戦闘参加に対して断固たる態度で反撃すると通告。

 アジア条約機構に対しても、戦争当事国以外の不当な武力干渉の即時停止を要求。

 

 そしてその宣言の中に、「いかなる手段を用いても」という表現が含まれていた。

 これを世界は核兵器ではないかと推測する。

 支那共和国は既に核兵器を完成させており、破壊されなかった施設や部隊に配備済みなのではないかと疑った。

 もしそうでなくても、既に原子力発電所を保有しているので、プルトニウムはある程度保有しているだろという推測も多かった。

 もしくは、核物質がなくても生物化学兵器を使用する可能性も強く懸念された。

 

 また一方で、支那共和国は核兵器搭載可能な航空機は保有していないが、短距離弾道兵器は保有していた。

 主に1980年代にソ連、イラクなどから輸入したスカッドミサイルだ。

 そして攻撃手段となるスカッドミサイルは、小型の核弾頭を搭載するとしたら射程距離は300km程度。

 アル・フセインは射程距離は倍ほど長いが、搭載能力などの問題から核兵器の搭載は難しい。

 

 このため近隣各国の攻撃こそあるだろうが、核攻撃の可能性は低いと判断されていた。

 警戒するべきは高濃度プルトニウムを火薬の代わりにスカッドなどに搭載することだが、流石にそこまで愚かな事はしないだろうと常識的に考えられた。

 


 全ての関係国が警戒する中、10月16日に満州国境近辺、内蒙古国境近辺、支那連邦共和国の国境近辺、山東半島の先端部の各所から、一斉にスカッドミサイルもしくはその改良型が発射された。

 

 数はそれぞれ2発。

 発射や弾道飛行の失敗を考慮した攻撃で、日本以外の攻撃は近隣諸国の首都に向けて発射された。

 日本は射程の長いアル・フセインでも射程距離外なのだが、実際には届いており、この時初めて支那共和国での独自改造型「東風2型」の存在が確認される事になる。

 

 満州の新京、支那連邦の上海、内蒙古のチーフォン(赤峰)、韓王国のソウル(韓城)、日本の博多がターゲットとされた。

 このうち新京を狙ったミサイルは、配備されていたパトリオットミサイルの飽和攻撃で無事撃墜された。

 また博多を狙ったミサイルは、日本海軍のイージス艦が撃墜した。

 しかしどちらも実は外していたという説もあり、その辺りは湾岸戦争とあまり変化は無かった。

 

 どの場所でも被害は軽微で、市街地にも着弾しなかった。

 核弾頭やプルトニウム、生物化学兵器も搭載されていなかった。

 だが、ミサイル攻撃を受けたという衝撃は極めて大きかった。

 特に満州帝国にとって、この攻撃は歴史上初めて本土が攻撃を受けたことになり、国も国民も大きな衝撃を受けていた。

 そして特に満州帝国をより攻撃的とさせてしまう。

 日本の世論も、攻撃された事に過剰反応し、少なくとも軍事政権は打倒しなければならないという世論が一気に形成された。

 この辺りの反応は、湾岸戦争でのイスラエルの方が国民が戦争慣れしていた分だけ、冷静だったと言えるだろう。

 

 さらに日満以外の近隣諸国も強い警戒感を持ち、今まで政治的不安定から及び腰だった支那連邦共和国も東アジア条約機構への軍事力派遣を決定。

 さらには、インドなど構成国も派兵を開始することになる。

 

 そして当然と言うべきか遂にアメリカも動き、すぐに派遣できる空軍部隊や空母機動部隊の派遣などを決定した。

 

 また一方では、弾道弾攻撃により最低でも日満軍の戦力分散を防衛に向けさせる効果はあり、日本のイージス艦が支那連邦共和国の上海沖、韓王国の仁川沖合に展開するなどしている。

 そしてこれで戦力不足を感じた日本は、臨時予算を通すことで当時予備役状態だったイージス戦艦2隻の緊急現役復帰を決め、戦争が終わるまでにイージス戦艦4隻が配備される事になっているし、当時就役準備が進んでいたイージス駆逐艦の1隻が前倒しで就役している。

 

 弾道弾攻撃の支那共和国の意図は、戦闘の泥沼化とそれにともなう西安の占領にあったと思われるが、この時点で少なくとも戦闘の短期収拾の可能性は潰えたと言えた。

 


 ミサイル攻撃によって、国連もさらに動かざるを得なくなる。

 

 支那共和国に対して即時戦闘停止と撤退が勧告され、従わない場合はより強い制裁を発動するとまで宣言された。

 しかし既に一線を越えたに等しい支那共和国は、内政の問題からも強硬な態度を崩すことができず、隣国への散発的なミサイル攻撃を続けざるを得なかった。

 湾岸戦争でのイラク軍と違い、敵の本国、しかも首都にミサイル攻撃した時点で、選択肢を誤っていたからだ。

 

 なお、支那共和国は各種弾道兵器を200発以上保有していた(※ソ連もしくはロシア、イラクから購入していた)。

 そしてスカッドミサイルは、湾岸戦争のイラク軍のように周辺各国に向けて散発的に放たれはじめた。

 死傷者を出すことで、相手国の国民の士気低下や軍事介入からの脱落を狙っての事だった。

 10月18日には、上海で初めての死者が出た。

 その後も、日本、満州、韓国で死傷者が出ており、撃てば撃つほど周辺国から怒りを買うことになる。

 

 そしてアジア条約機構などもやられっぱなしではいられないため、空爆が強化された。

 さらに支那連邦共和国も戦闘参加の為に、関係各国との本格的調整に入りつつ、戦闘準備を進めた。

 アメリカも、ついに戦闘参加を決意した。

 

 だが、遂に支那共和国は核兵器を使用しなかった。

 また、高濃度プルトニウムが使用されることも無かった。

 その後の調査で判明したが、当時の支那共和国では核兵器はまだ開発の初期段階だった。

 ある程度の濃度のプルトニウムも既存の原子力発電所から取り出されていたが、兵器転用については準備以上は行わなかった。

 

 1950年代の支那戦争の記憶が、彼らに核及び核物質の扱いに対して臆病にさせていたからだ。

 自らが何らかの形で使用したが最後、日満米が躊躇無く国土に核兵器を撃ち込むと考えていたのだ。

 


 だが、戦争については収拾の目処は全く見えなかった。

 

 各国の首都や都市にスカッドが襲ってくる中、アジア条約機構軍の支那共和国に対する空爆は続いた。

 10月20日以後、日本軍は戦略空軍すら動員するようになり、攻撃対象も拡大して軍事施設、支那共和国に侵攻した部隊を攻撃するようになった。

 そしてこの時期の攻撃によって、支那共和国軍は中華共和国内で大規模な進撃能力をすっかり無くしてしまう。

 規模を拡大した空爆によって、進撃途上で臨時の陣地しかないので、侵攻部隊も大損害を受けた。

 

 また、支那共和国に対する空爆以外の攻撃手段として、東アジア条約機構軍では満州を中心として地上侵攻のための兵力の動員も進められた。

 この事は、支那共和国中枢に対して極めて大きな焦りを呼んだ。

 満州国境から首都北京まで150キロ程度しかないのに、防御陣地は貧弱で配備されている軍隊も、相対する満州軍と比べると大人と子供以上の差があった。

 


 当時満州帝国は、冷戦構造の崩壊、ソ連との軍事的な妥協を経て、1980年代と比べると軍備を大幅に削減していた。

 しかし、冷戦崩壊とほぼ同時期に北西に位置する支那共和国が軍事政権化して事実上の敵対状態となったため、軍備の削減を抑えた上でソ連国境にいた軍主力部隊を万里の長城の北側へと配置を変更する。

 

 今までも主に中華人民共和国に対抗するという名目で、満州陸軍は1個機甲軍団が配備されていたが、今度は国境線に1個軍以上の大部隊が配備される事となった。

 満州空軍も、ソ連シフトから支那共和国シフトへと移った。

 

 冷戦時代最盛時の満州陸軍は18個師団を基幹戦力としていたが、1997年時点では14個師団に減っていた。

 2個軍団が廃止された形になるが、過剰戦力と判定された支援部隊のかなりも削減され、さらに戦力自体は旧式装備の廃止などにより、70%程度と師団数以上に減少している。

 また、ロシア(旧ソ連)国境近辺には1個機械化軍団を置くだけで、軍主力の2個軍が万里の長城の北側に配備されていた事になる。

 

 空軍も同様で、最盛時の13個航空団・26個飛行隊から、11個航空団・22個飛行隊に削減されている。

 しかし旧式機の退役を進めただけに等しく、陸軍ほど実質戦力は低下していない。

 第二次支那紛争でも、数の上での主力は満州空軍が占めていた。

 

(※フェイズ121、フェイズ122参照)


 そしてさらに、アジア条約機構軍として日本軍も大規模な軍事力の動員と展開を急ぎ進めていた。

 

 日本軍の場合は、既に陸軍を大きく削減しているし、緊急派遣ですぐ対応できるのは空挺部隊と海軍陸戦隊程度で、これも全てをすぐに動かせるわけでは無かった。

 その代わりと言うべきか、本国近辺にいる動員できる限りの空軍と海軍を振り向けようとした。

 

 これにより約600機の航空機と50隻以上の艦艇が支那共和国に向けられる事になり、一部は満州の飛行場に向けた移動を開始した。

 

 攻撃を受けた支那連邦共和国も、日満に比べると兵力や装備は貧弱ながら、中華共和国から急ぎ引き揚げてきた陸軍部隊を満州国境線に動員して並べ、日満と連携して報復爆撃を行う算段を整えていった。

 

 さらに遠方からは、インド軍が派兵の準備を進めていた。

 だがそれでは時間がかかりすぎるので、長距離進撃可能な機体でインド本土から直接支那共和国か中華共和国の支那共和国軍を攻撃する準備を進めた。

 

 そしてアジア条約機構軍以外として、アメリカ軍も足早に極東地域に駒を進めつつあった。

 

 戦略としては、支那共和国の軍事政権を打倒する事を目的としていたが、どちらかと言えば支那共和国への軍事的圧力で戦争を収拾するのが目的だった。

 

 そして完全に追いつめられた状態の支那共和国政府は、ようやく折れる姿勢を示した。

 すでに西安奪回(占領)も難しく、各地の軍事基地は次々に破壊され、イラク軍のように隠す前提に乏しかった空軍戦力、防空戦力も既に壊滅状態だった。

 

 

 そして11月2日、満州軍などが陸上侵攻の準備を進める中、支那共和国に対する停戦勧告や中華共和国からの全面撤退を第三国を介してや国連での交渉が行われる事が決まる。

 

 自ら袋小路へと追いつめられた支那共和国は、補給が続かなくなった中華共和国領内から軍を引き揚げる意志を示し、10月24日を境にスカッドミサイルの発射も行わなくなった。

 すぐに軍の撤退は開始しなかったが、進軍を止めたことは支那共和国の発表と各国の偵察衛星によって明らかとなった。

 

 なお、支那共和国は、支那世界(中華世界)の理論に従えば、中華共和国に侵攻したことで、侵攻先は自らの領土だという既成事実を作るという最低限の政治目的は達成していた。

 さらに満州や支那連邦などへの攻撃そのもので、「中華統一」という目的を改めて示した事にもなっていた。

 目的を行動で示すことで、政治的な既成事実を作った事になり、戦闘に敗北しても戦争の敗北にはならず、むしろ政治的には攻撃しただけで勝利とすら言えたのだ。

 

 このため、支那共和国政府自身が一度決断してしまえば、その後は素早く混乱は終息していった。

 拳を振り下ろす準備をしていたアジア条約機構やアメリカが拍子抜けするほどだった。

 そして関係各国と世界は、支那共和国の決断を評価せざるを得なかった。

 しかしアジア条約機構とアメリカも、甘いわけではなかった。

 

 戦闘が完全停止するまで空爆は継続し、その後の脅威になるであろう軍事施設については執拗に攻撃している。

 この結果、支那共和国の空軍力は、最終的に70%以上の戦力が失われた。

 しかもその後の武器輸出の禁止などにより、20年以上も苦しむ事になる。

 

 この戦争で撃ち込まれた「ライキリ」巡航ミサイルの数は、実に400発にも及んだ。

 空爆でも、冷戦時代末期の日本戦略空軍の秘密兵器と言われた超音速戦略爆撃機の「三菱 85式戦略攻撃機 剣山」が出撃し、大きな戦果を挙げている。

 


 戦闘は11月3日に完全停止し、その後は国連本部での様々な会議へと移った。

 中華共和国、支那連邦共和国などは、最低でも支那共和国の軍事政権を打倒すべきだと論陣を張り、その声は世界的にも高いものだったが、結局、軍事政権はそのまま残った。

 天安門広場を、他国の戦車が行進する事も無かった。

 ホワイ河に軍を並べた支那連邦共和国も、地上侵攻することはなかつた。

 だが戦闘には参加し、空軍により日満軍よりも支那共和国が嫌がる拠点や重要施設を攻撃している。

 

 そして年を跨いで停戦交渉が行われ、支那共和国の完全撤退以外はほぼ戦闘前への復帰という結末となった。

 支那共和国は、撤退の条件として各種制裁の緩和を国連と各国に求めたが、一部人道上の物資、製品の緩和が認められたに過ぎなかった。

 


 支那世界的な視点での政治目的を達成した支那共和国ではあるが、その後は一気に不安定になった。

 何しろ軍事政権の力の源泉である軍事力が、近隣諸国によって否定されたからだ。

 空爆は支那共和国各地でも行われたので、政府が国民の目を欺く事も出来なかった。

 

 そして1998年には政情不安が一気に拡大し、軍事政権が滅ぼした筈のかつての文官達が水面下から糸を引く形で、全国規模の軍事政権打倒の動きが起きる。

 支那共和国の軍事政権は、当然とばかりに軍及び軍に近い重武装警察組織を投入したが、軍人以外に対して権力基盤の弱い事が徒となり、兵士からは離反者が続出。

 フランス革命のように、下級兵士達が市民に合流して政権転覆の大きな力となっていった。

 

 結局、支那共和国の軍事政権は、自らが戦争を引き起こしてから1年を生きながらえることはできず、自らも戦車によって政権の座から引き下ろされてしまう事になる。

 民衆の期待を裏切って酷い独裁と侵略戦争まで起こした政権としては、ごく順当な末路と言えるだろう。

 

 そして軍事政権が半ば自壊、半ば自然消滅の形で消えると、支那共和国各所で軍事政権側の軍人、官僚、協力者狩りが、住民の自発によって開始される。

 


 1998年の夏頃には情勢も安定化に向かい、支那中央部の住民達は公正な統治さえ行うなら統治体制に従順な傾向が強く、急速に安定していった。

 加えて、新たな支那共和国政府は各国との前向きな対話を行うようになる。

 

 この時点で国連も大きく関わってきたが、近隣諸国以外は支那中央地域への関心をほぼ失っていった。

 

 世界ではアジア金融恐慌を引き金とした通貨不安がいまだ続いており、経済の弱体を露呈したロシアへと波及しつつあったからだ。

 (※その後さらにブラジルでも起きる。)


 なお、支那共和国の軍事政権が進めようとした、支那統一もしくは支那世界の再編の動きは、支那中央の国々にとっては、結果としてマイナスに作用した。

 支那共和国の軍事政権の暴走によって、国際情勢は日満側に分があったからだ。

 

 そしてその結果起きたのが、香港、マカオの独立の確定だ。

 

 第二次支那戦争が起きる直前の1997年7月1日に、イギリスが香港の主権を失い、国民投票(市民投票)に従って独立を果たしていたからだ。

 同時に1999年12月20日にポルトガルが主権を失うマカオも、独立に向けた準備が進んでいた。

 

 香港、マカオの独立は、支那中央各国にとっては是非とも阻止したい事案だった。

 自治はともかく、完全独立だけは避けたかった。

 だが、支那共和国が起こした混乱で、支那連邦共和国が一番目論んでいた香港、マカオの影響力確保を得ることは出来なくなった。

 そして香港、マカオの件は、中華連合構想の大きな後退を意味した。

 

 また、支那共和国の軍事政権が倒されたと言っても、他の支那中央の国に対する独自性、自立性は維持したままだし、世界各国との関係を完全に健全化させたわけでもないので、他の支那各国と連携する状態でもなかった。

 

 それでも支那共和国の国力、影響力が大きく低下した上に、支那共和国が民主共和制国家に戻った事自体は大きな前進で、その後の支那中央は支那連邦主導で徐々に連邦化や連合化の話しが進むようになる。

 

 また一方では、支那連邦と日本、満州特に満州との関係が疎遠になっていくようにもなる。

 日本と満州は、北東アジアでの連合化に向かおうとしたのに対して、支那連邦はあくまで中華の連合化を目指した為、向かうべき先が違っていたからだ。

 

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― 新着の感想 ―
[一言] やっぱり中国は分割されて倒しやすいぐらいがいいですね~。 あと、気になったのですが、香港って香港島側は、イギリスは返すつもりがなかったと聞いたことがあるのですが、やっぱり極東に英国領を残すの…
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