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日米蜜月 〜戦後編〜  作者: 扶桑かつみ


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フェイズ142「混乱する世紀末」

 アメリカ合衆国では、1988年の大統領選挙から2008年の大統領選挙までを「ブッシュ時代」と言うことがある。

 また、さらに2期遡ってレーガン政権時代も含めて、20世紀二度目の共和党時代とも言われる。

 そしてレーガン政権から16年も共和党政権が続いた事は、十分に共和党時代と言えるだろうが、それ以前の民主党政権がアメリカ国民から失望された裏返しと言えなくもないだろう。

 


 ブッシュ時代は、1988年に共和党候補のジョージ・ブッシュが大統領に選出され、2008年の大統領選挙で民主党のバラク・オバマが当選するまでの期間にあたる。

 途中1997年から2001年かけて民主党のビル・クリントンが大統領となったが、それ以外の合計4期16年はジョージ・ブッシュとその子ジョージ・ブッシュ(ブッシュJr.)が大統領を務めたからだ。

 

 しかし親子二代の大統領の評価は大きく分かれている。

 

 父親の方は、冷戦を幕引きして湾岸戦争に勝利し、さらにアメリカが唯一の超大国としての歩むための道筋を付けたと高く評価される事が多い。

 経済面でも、80年代の劣勢を覆して主に2期目では情報産業の発展による好景気も実現させている。

 

 その他を含めてもマイナスよりもプラスが多い大統領であり、第二次世界大戦の従軍経験がある大統領であるため、武闘派の大統領としてアメリカ国民からの支持は高かった。

 

 大統領は2期しか務められないという制約が無ければ、3期目も行けただろうと言われる事が多い。

 1996年の大統領選挙での共和党敗北は、アメリカ国民が流石に共和党政権が長く続きすぎたと考えたからに過ぎないとも言われた。

 

 翻って息子の方は、原理主義との戦いを始めた大統領とされるも、アメリカを迷走させた大統領の一人と見られる向きが強い。

 それでも1期目は武断の面を見せて国民人気も高かった為、2期務めることが出来た。

 

 しかし2期目は、共和党全体としてもやらない方が良かったと言われる事が断然多い。

 1期で終わっていれば、もう少し評価も変わっていただろう。

 

 ブッシュ親子の大統領任期中で似ているのは、共に任期の末期に世界的な不景気が襲っている点になるだろう。

 父親の頃は、1997年にアジア通貨危機が起きて、東南アジアの幾つかの国とロシア経済が大打撃を受けた。

 そして息子の頃には、2007年のサブプライム・ショックと2008年のリーマン・ショックが起きている。

 特にリーマン・ショックは、1929年の世界大恐慌以来の大不況と言われ、世界経済が大打撃を受けた。

 

 ここでは後の不景気はあとで触れるとして、もう少し前の時代を見ていきたい。

 


 ソ連が崩壊して冷戦が終わり、1990年代はアメリカだけが唯一の超大国の時代となった。

 二つのブッシュ政権を取り上げたのは、前のブッシュ政権が1990年代の政権だからだ。

 

 そして冷戦崩壊直後は「新世界秩序」などと言われ、平和で安全な時代の到来が期待された。

 しかし東西冷戦下で押さえ付けられた民族問題や宗教問題が吹き出し、紛争の時代へと大きく傾いた。

 唯一の超大国となったアメリカも、21世紀に入り国連と連携しない「帝国化」したと言われる行動を取るようになる。

 当然ながら、より多くの憎悪が向けられるようになった。

 

 そして憎悪の発端は、皮肉にもアメリカが唯一の超大国となったと世界が理解した湾岸戦争だった。

 

 湾岸戦争では、アメリカ軍を中心とする多国籍軍はサウジアラビアを拠点とした。

 しかしサウジアラビアは、それまで他国の軍隊を迎え入れたことは無かった。

 アラブ世界の盟主としてのプライドがあったし、その必要性が無かったからだ。

 だが、サウジアラビアを支配するサウド家を始めとする遊牧民の末裔たちは、自分たちをイラク軍から守るためにアメリカ軍を迎え入れた。

 しかしそれは、自らを敬虔なイスラム教徒と信じて疑わない人々の反感と憎悪を買ってしまう。

 

 もちろんだが、反感と憎悪を受けたのはアメリカだ。

 

 多国籍軍としてなら日本軍もアメリカに次ぐ大軍を送り込んでいたし、日米以外も多くの軍を送り込んだ。

 しかしアメリカが圧倒的に多かったし、アメリカは冷戦時代を通じて世界最大最強の国としてとにかく目立っていた。

 日本が対象外というか眼中から外されたのは、有色人種国家であり白人国家に対するチャレンジャーとして見られる向きが強かったという感情面での理由もある。

 また石油、天然ガスの大口顧客という点も見逃せない。

 主な宗教がキリスト教ではないというのは、ほとんど的はずれな答えでしかない。

 

 また日本はシーア派のイランと関係が深いことから、スンニ派を中心に他のイスラム教国から反発を受けることもあったが、宗派は違えどイスラムの為に尽くす姿勢を日頃から見せていた事は、アメリカなど他の白人国家と一線を引くべき要素と捉えられてもいた。

 欧米各国は、人種偏見の影響もあり特に1970年代ぐらいまでは世界を搾取する対象として見る向きが強かったからだ。

 


 一方で、テロの温床となる地域の安定化にも力が入れられていた。

 

 有名な場所はアフガニスタンだった。

 

 アフガニスタンは、1980年にソ連の侵攻を受けて長期間続いた紛争で、国土はすっかり荒れ果てた。

 そして1988年にソ連軍は立ち去ったが、ソ連が作った社会主義政権は残されていた。

 そしてソ連式の訓練を受けた政府軍は、ムジャーヒディーンや西側の予測よりも精強な軍隊を保持したままだった。

 またソ連からロシアとなっても、その後5年程度はロシアはアフガニスタンの政府への支援を続けた。

 

 これに対して、アフガニスタン各地の部族単位だったり海外から流れ込んできたムジャーヒディーンの軍閥には、統一された組織も意志も無かった。

 あるのは反政府という考えだけだった。

 

 このためソ連軍撤退すぐのムジャーヒディーンによる総攻撃は失敗し、反政府側は大損害を受ける。

 

 しかしソ連軍が撤退した頃より、隣国が深く関わるようになっており、アフガニスタンの人民政民主党府軍に一定の打撃を与えたのも、隣国の支援を受けた優良な装備を有していたゲリラ兵達だった。

 

 その隣国とはインドで、インドは古くからアフガニスタン情勢に関わっていた。

 国民の約4割がイスラム教徒であるインドは、国境を接する国でもあり、またアフガン紛争中は多くのアフガン難民が流れ込んできていたからだった。

 ソ連が介入した時期のアフガニスタン紛争中に反政府ゲリラに武器を渡していた国の一つもインドだったし、西側寄りの亡命政権があったのもインドのパキスタン州だった。

 

 アフガニスタン紛争は、ソ連とアメリカの代理戦争の舞台ではあったが、インドとソ連の勢力争いでもあった。

 そして1980年代には、既に外に向けたプレゼンスの拡大を積極的に行っていたインドにとって、隣国のアフガニスタンにソ連軍がいる事は看過できる状態では無かった。

 

 ソ連軍のアフガニスタンでの苦戦のかなりは、アメリカではなくインドがもたらしたものだった。

 

 そしてソ連がアフガニスタンから消え、さらにソ連が崩壊してロシア人の勢力が大きく減退した時点で、インドにとって緩衝地帯となるアフガニスタンを復活させ、さらには自らの勢力下に置くチャンスとなった。

 

 しかしソロシアは、もともとアフガン侵攻は中央アジア地域などへのイスラム原理主義拡大を警戒したが故に起こしたものであり、ソ連の看板を下げたからと言って完全に引き下がるわけには行かなかった。

 それでもロシア経済自体が疲弊しきっていたので、1991年にソ連大統領のボリス・エリツィンはアフガニスタンの人民政民主党府への支援を大幅に削減する。

 これで人民政民主党府は窮地に追い込まれ、翌年春に崩壊する。

 

 物語だったのならば、これでようやく「めでたしめでたし」になるはずだった。

 

 そしてここからが、ようやくムジャーヒディーン達を主人公とした新たな政府の発足になるが、その前から暗雲が立ちこめていた。

 


 首都カブール進撃では、各地のムジャーヒディーンが殺到して大きな混乱を起こし、多数の難民を出すほど首都を無茶苦茶にしてしまう。

 

 これでは駄目だとインドが動き、国連を動かして自らが大きな役割を果たす形でアフガニスタン情勢の沈静化に大きく動いた。

 しかしインドだけでは資金不足なため、アメリカや日本、満州などから資金を拠出させ、インドは主に人材を送り込んだ。

 

 別の方角からは、イラン・イラク戦争を終えたばかりのイランも行動を開始する。

 しかし足並みを乱しては元も子もないので、仕方なくインドと足並みを揃えた。

 これはインドとイランの微妙な関係を考えると画期的な事で、少なくともアフガニスタン紛争で最も成功したのは、インドとイランの関係改善だと言われるほどだ。

 

 なおイランとしても、インド同様にロシア人が元気を無くした今こそ、ロシア人に対して自らの防壁となるアフガニスタンを強化するチャンスだった。

 

 しかもアフガニスタン国内にもイランと同じシーア派の信徒が一定数いるので、支援するのは当然という向きがイラン国内で強かった。

 だが、宗派の違いが混乱のもととなるのは理解していたので、宗教をなるべく前に出さない形でアフガニスタンの支援が積極的に行われた。

 またイランにも、日本など多くの国から資金が提供され、アフガニスタンに対して手厚い支援が行われた。

 

 そしてアフガニスタン内では人々の生活を元に戻すべく、アメリカのように単に金と食糧をばらまくのではなく、社会資本の再建や経済復興、混乱の元凶となっているゲリラ兵の社会復帰が積極的に取り組まれた。

 また人々の生活を取り戻すため、かなりの努力を割いてかつての農業を中心とした生活基盤の回復に務められた。

 紛争中のアフガニスタンでは、麻薬の栽培が広く行われるなど荒廃は酷かったからだ。

 


 復興事業は非常に時間と手間がかかることで、また支援を阻止しようと言う動きがあるので犠牲者すら出たが、放置すれば悪化するだけなのは分かり切っていたので根気強く行われた。

 

 復興支援は一定の成果が上がり、ゲリラ兵の社会復帰も進んだ。

 

 だが根本的な問題として、紛争中に軍閥化したムジャーヒディーン達の統一がとれなかった。

 新政府も各派が分裂した状態で、必然的に内紛状態になった。

 これに業を煮やしたインドは、諜報機関の支援で一つの組織を作った。

 それがターリバーンだった。

 

 そしてその後、ターリバーンによるアフガニスタンの再統一が進んでいったのだが、依然として国外から流れ込んでくるムジャーヒディーンは後を絶たず、その中にスーダンでの混乱から逃れてきたアルカーイダがあった。

 そしてアルカーイダには、ウサーマ・ビン・ラディーンの姿があった。

 

 これ以後ターリバーンはインドのコントロールから離れるようになり、原理主義を前面に押し出した新たなイスラム政権を建てる行動を強めていく。

 当然だが、シーア派のイランとの関係も悪化した。

 

 そしてアフガニスタンにアフガニスタン・イスラム首長国を建てたターリバーン、そしてアルカーイダは、支援していた西側各国わけてもアメリカへの憎しみを募らせ、アフガニスタン以外での行動を過激化。

 そして2001年9月11日の「9.11テロ」へと続いていく事になる。

 


 混乱はアフガニスタンだけではなかった。

 

 冷戦構造の崩壊以後、主にイスラム地域で混乱が増えた。

 だからこそその最大規模となるアフガニスタンを取り上げたのだが、旧ソ連のコーカサス地域でも紛争は慢性状態となった。

 

 ヨーロッパでは、イスラム教徒とキリスト教各派が混在するユーゴスラビア地域のボスニア・ヘルツィゴビナを中心として、周辺各国が睨みを効かせる状態が続いた。

 何とか紛争や戦争に発展していないのは、混乱の元凶と言えるセルビアが旧東側で、同地域で対立する中立国のクロアチアなどが相対的に高い国力と軍事力を有していたからだ。

 冷戦崩壊後も、旧ユーゴスラビア地域の主に西側陣営(多くは中立国だった)は軍備の削減を行っていなかった。

 

 アラブ地域は、常に紛争と戦争の火種が燻り続けていた。

 もはやイスラエルは、問題の中の一つに過ぎないほどだった。

 

 イランは安定と国内発展に向かったが、イランの発展はアラブ社会で混乱を招く要素としか見られていなかった。

 イラン・イラク戦争がそうだし、90年代半ばぐらいからはイラクとの対立が再び激しくなっていった。

 

 アフリカでも、スーダン、ソマリア、ナイジェリアなど多くがイスラム教が関わった混乱が起きていた。

 


 だが、実際に国家規模での激発に向かったのはイスラム教圏ではなく、分裂状態が固定化していた支那地域だった。

 


 支那地域は、阿片戦争以後1世紀以上も不安定な状態が続いた。

 そして第二次世界大戦後はバラバラに分裂した上に、東西対立の最前線の一つとなった。

 しかも冷戦中で激しい戦闘が行われた地域の一つで、支那戦争(1950年〜53年)、第一次支那紛争(1959年)、第二次支那紛争(1969年〜72年)、天安門事件(1989年6月)と、アラブ地域に負けず劣らず戦いが行われ続けた。

 

 しかも紛争時期には国家の分裂と内政の大きな混乱が見られ、人災によって人口構造に大きな打撃を与えるほどの人口減少が起きている。

 

 だが、そのおかげでと言うべきか、冷戦時代に「ガン」と見られていた中華人民共和国は無害な存在になり、冷戦崩壊と共に呆気ないほど簡単に民主化してしまった。

 同国内の共産党も、殲滅というレベルで消え去った。

 しかし入れ替わるように、支那共和国で軍部の強硬派による軍事独裁政権が成立し、周辺地域と問題を起こした。

 

 もっとも、支那共和国で強硬な軍事政権が成立したのは、支那中央以外の支那地域からは好都合だとも捉えられた。

 

 と言うのも、支那中央の国は「中華世界の再統合」を大きな国家目標に掲げていたからだ。

 そしてもし「再統合」という事になれば、せっかく独立した周辺部の国々にとっては悪夢でしかなかった。

 もう、自分たちを支那もしくは中華と考えている国や地域は、ひどく少なくなっていたからだ。

 

 東トルキスタン人民共和国(東トルキスタン共和国)とチベット法国は、自分たちを中央アジア地域だと定義していた。

 同様に、ウンナン共和国とコワンシー共和国は東南アジアだと言い続けており、ASEANにも積極的に関わっていた。

 モンゴル系の国も、自分たちが支那地域だとは考えていなかった。

 

 最も大きな国力を持つ満州帝国に至っては、支那地域を「獲物」や「市場」としか見ていなかった。

 シベリア共和国は、国内に支那色が微塵も無かった。

 

 このため、支那中央のさらに中心地域にある支那共和国が強硬な軍事独裁政権で、しかもたいして国力も軍事力もないという事は、「中華世界の再統合」を妨げる最大の要因になると見られた。

 事実、中央地域で一番の国力を有するようになった支那連邦共和国は、四川の取り込みこそ進めるも、それ以上の動きになかなか出られないでいた。

 


 支那連邦共和国としては、香港の1997年返還期限に合わせて、最低でもECのような政治組織を支那地域に作ろうと1980年代に入ると画策し、冷戦崩壊で一気に行動に移ろうとしたのだが、支那共和国のせいで構想は暗礁に乗り上げていた。

 

 そして、支那中央部に政治的に飲み込まれることを強く警戒した香港、マカオ、海南島は、宗主国や周辺国、国連の助けを借りて、このまま独立を図ろうと動くようになってしまう。

 

 さらに旧共産主義国の方では、満州帝国が一気に経済的進出を図って、政治的にも取り込もうと動いていた。

 

 支那連邦と満州はEAFTA(東亜自由貿易協定)に属する関係だったが、支那市場では経済的な競争相手だった。

 しかも支那連邦にとって都合が悪い事に、満州は支那統合を可能な限り邪魔しようと政治的に動いていた。

 

 隣国の日本も、市場進出と自由貿易さえできれば、支那中央に対してそれ以上は望んでいなかった。

 支那連邦を市場と考えているアメリカは、支那連邦をかつての中華民国の後継者の一国と考えており、支那共和国の強硬な動きもあったため、政治的、軍事的な動きには常に強い警戒心を向けていた。

 

 そこにきての天安門事件と支那共和国の軍事独裁政権成立は、支那連邦にとっては政治的に最悪のタイミングで起きたと言える。

 


 一方、支那共和国軍事独裁政権は、民衆に圧政を敷いた事から国際的に孤立したのだが、逆手にとってアメリカや日本などの政治コントロールから離れてしまい、独自の行動へと大きく政治の舵を切った。

 

 そしてその結果、勝手に核開発を始めてしまう。

 しかも支那共和国での核開発は、商業原子力発電という形で1970年代からアメリカの支援で開始されていた。

 原子力発電所に必要なものは全てアメリカから輸出される形だったが、核開発に最も必要な原子力発電所そのものが支那共和国にあった事になる。

 

 それでも天安門事件まではアメリカが政治的に押さえ付けていたのだが、軍事独裁政権の成立と国際的孤立で、足かせが外される結果となった。

 また、アメリカは第二次支那紛争で実質的に支那共和国に愛想を尽かしてしまい、経済的にも南の支那連邦共和国への肩入れを強めていた。

 これが支那共和国が強硬路線に安易に流れた原因だと言えなくもないが、あくまで結果論に過ぎない。

 政治的コントロールの効かない、軍事クーデター自体が想定外過ぎた。

 


 もっとも、アメリカ、日本、満州は、クーデター後しばらくは、いずれ自分たちがコントロールを取り戻せると考えていた。

 加えて、支那共和国を軍事的な脅威とは認識していなかった。

 核開発を始めたと言っても、開発が完了するまで10年以上の時間がかかるのは確実と考えられていたからだ。

 通常軍備も豊富ではない上に実質的に70年代で止まっており、自分たちと比べると二世代以上旧式装備しか持っていなかった。

 しかも、核兵器を搭載できる兵器(弾道弾や爆撃機)は一切与えていなかった。

 

 それでも軍事政権成立後は、支那共和国が国是の「中華統合」を実現するべく周辺の弱小国(内蒙古、プリモンゴル、中華共和国)に圧力をかけた。

 今までずっと対立してきた相手なので、国民も敵として認識しやすく団結に利用できたからだ。

 

 このため、主に満州軍が内蒙古などへのパワープロジェクションを展開して押さえ付けた。

 南からも支那連邦が軍をホワイ河の国境に並べているので、冷戦でお役ご免となった満州軍が万里の長城方面に移動してくると、支那共和国軍は迂闊に身動きを取れなくなっていた。

 

 だからこその核開発推進だったが、既に原発を有している事が分かっていたので周辺国も素早く対応した。

 そして核保有国が増える事は、冷戦崩壊に世界で最も懸念された問題だった。

 

 1992年には、国連から周辺国への軍事的恫喝の停止と核査察受け入れの勧告が行われた。

 


 1990年代までの世界の核保有国は、開発順にアメリカ、日本、ソロシア、イギリス、フランス、満州、インドになる。

 これに長年保有していると言われていたイスラエルが加わるかどうかだった。

 

 南アフリカは、1974年から89年にかけて核弾頭を数発保有したが、アパルトヘイト撤廃と国内政治の激変によって廃棄された。

 

 イラクは開発を行おうとしたが、イスラエルに空爆で最重要施設を破壊されていた。

 イランはイラン・イラク戦争中に開発疑惑が出たが、イラクの謀略にアメリカなどが乗ったに過ぎず、潔白が証明されている。

 ただしイラクへの対抗として、かなり具体的な研究は実施されていた。

 

 他にも核兵器開発を進めた国はあったが、全て中止している。

 そうした中で支那共和国の核開発は、世界の脅威と認識された。

 しかも1993年には、ソ連のスカッドミサイルとその改良型アル・フセインをイラクから購入したという情報まで飛び交い(※事実だった。)、もはや猶予のない問題と理解された。

 

 核の恫喝により、支那地域が無理矢理支那共和国のもとで統一され、さらに大きな脅威に成長すると懸念された。

 そこまでいかなくとも、支那地域の全ての国にとって、支那共和国の核開発は国家存亡の危機ですらあった。

 対抗できるのは核兵器を保有する満州帝国だけだが、満州にとっても支那共和国が核兵器を保有することは、保有すれば撃つ可能性が高いという点で悪夢だった。

 


 支那共和国は、原子力発電所は純粋に商業発電でしか使わないと声明を出していたが、頭から信じる国は無かった。

 支那共和国の発電は、支那国内で豊富に産出される石炭で賄われており、さらに国民所得が低いので電化自体が原発を必要とするほど進んでいなかった。

 

 さらにアメリカ、日本の偵察衛星は、支那共和国内の核関連施設を発見しており、さらに厳しい国連の査察要求が出される。

 

 しかしアメリカ、日本、さらには満州には、支那共和国を軍事的に滅ぼす意志はなかった。

 核を開発して撃ってくれば話しは別だろうが、核開発さえ放棄すれば軍事政権自体は放置しても良いとすら考えていた。

 特にアメリカはそう考える節が強かった。

 

 しかし、より強い脅威に感じている隣国は別だった。

 最も脅威を感じている旧共産国の中華共和国は、国際社会に支那共和国に対してイラクと同様かそれ以上の軍事的制裁を求めていた。

 南の支那連邦共和国も、中華共和国ほどではないが、もっと強硬な核廃棄を迫るべきだと強く訴えていた。

 

 さらに支那連邦共和国は、武器を売ってくれる国から武器を買い入れて、支那共和国国境にどんどん並べていった。

 軍事侵攻も辞さないと言う態度を鮮明に見せることで、核廃絶を行わせようと言う考えだった。

 同じ民族同士なので、先進国の言う「北風と大陽」のような例え話が通じる相手ではない事を深く理解しているが故の行動だった。

 

 北の満州帝国も、国内に多くの漢族が住んでいるだけあり、支那共和国との安易な妥協はあり得ないという点で、支那連邦共和国と考えが一致していた。

 そして二つの国と同盟関係にある日本も、支那共和国への圧力強化に同調。

 欧米各国が北東アジア各国の強硬態度を非難するほどとなった。

 

 これに対して支那共和国は、欧米の北東アジア各国の非難を利用して問題をすり替えようとしたが、北東アジア各国は議論の場、国際外交の場でそれを許さず、支那系民族に対する外交で何が正しいのかを歴史の逸話と共に説いた。

 

 このため世界各国も国連も、支那共和国の核査察で意見の一致を見て、経済制裁を強化していった。

 


 こうなると、後は支那共和国が折れるか、もしくは激発するしかなかった。

 そして支那共和国には軍事独裁政権はあっても、独裁者はいなかった。

 このため重大な決定ができず、事態は支那共和国にとって悪化の一途をたどった。

 

 そして支那共和国の選択は、武力に訴えて活路を見いだすしか無かった。

 もはや世界中と断交状態で、支那共和国をわざわざ潰そうという国も無いだろうと言う予測も、支那共和国中枢の戦争への決断を促す大きな要素となった。

 これ以上失う物がないことが、皮肉にも戦争を誘発させてしまったのだ。

 


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