フェイズ140−2「20世紀末期の日本と空港整備」
一方、国内航空用、人口地帯と世界中を結ぶ飛行場として、まずは東京、大阪の既存空港の大幅拡張が埋め立ての形で実施された。
また博多では、当時は拡大する市街地に飲み込まれつつある内陸にあった既存の飛行場を小型機やヘリ用として、新たに海に面した場所に国際空港クラスの大型飛行場を建設する事になる。
この三カ所での飛行場建設では、どれも滑走路は埋め立て地を急速拡大する事になったが、新規滑走路のそれぞれ一つはメガフロート式で建設される事が決まった。
しかし大阪を中心とする京阪神では、既存空港の拡張だけでは追いつかないことが1970年前後には予測されていた。
だが、既存空港の大幅拡張計画が動いている中で、新たに臨海部に巨大な飛行場を作るだけの埋め立ては難しかった。
空港以外にも大規模な臨海部の埋め立ても進んでいる中で、業者と労働者の数が足りないからだ。
建設省と建設業者は強引に埋め立てを推進しようとしたり、手が足りないので工期を遅らせろと言い出す始末だった。
しかし飛行場建設は急務で、遅らせることなど出来なかった。
事を進めるため、ゼネコンがらみの収賄事件が起こされたと言われたりもしたほどだ。
また、埋め立てが駄目ならどこか適当な陸地と言っても、4000メートル級の滑走路と後の拡張を考えた土地、さらに巨大な空港ターミナルや貨物受け入れ施設の場所となると、とてもではないが関西方面にそれだけの土地は無かった。
このため、飛行場丸々一つをメガフロートで作る案が提案される。
第一期計画で必要な土地面積は600ha(ヘクタール=6平方キロメートル)。
これだけの「土地」を人工の大地で作り上げる事になる。
人工の大地は後々の柔軟な拡張に対応するため、基本パーツが1つ当たり1ha、200m×50mの鋼鉄の箱をつなぎ合わせることで作られる。
箱は言ってしまえば、近代的な制御が可能なだけの装備が施された浮き桟橋に近い。
もしくは四角い船とも言える。
だが、この時の計画では、全てメガフロートで作ってしまうため、より野心的な計画が実施される事が決められる。
普通は鋼鉄の箱を浮かべて繋げ、一種のタンクとして使う場合以外は地面となる上部空間を使うだけだが、その箱の内部空間も有効活用する事としたのだ。
つまり、本当に船のように内部を活用することで、地上施設の建設などを最小限にしようという事だった。
しかも、箱をただ繋げて浮かべる方式も変更された。
しかしこの時は、大規模な地震とそれに伴う津波、さらに台風、大潮、高潮など自然災害に柔軟に対応できるようにするため、支持台の上に鋼鉄の箱を載せる形状(半潜水型)が採用された。
この決定により、無数の太い杭の上に鋼鉄の大地が乗っかっているように見える形状になり、見た目は石油採掘船に少し近い。
また各ユニット間は溶接ではなくドッキング型とされ、老朽化したら強制パージで交換できる前提となっていた。
接続部の構造は橋梁に近くなり、大規模災害などで大きな損害を受けたユニットは最悪の場合強制パージもできた。
単なる箱形よりもコストが嵩むが、災害に強い点が採用の大きな決め手となった。
ユニットのうち負荷のかかる滑走路と一部誘導路は丈夫なだけの構造とするが、ターミナル地区などは内部空間が利用できる形状を選択して、上部構造物を少なくする方式が取られた。
引き入れる鉄道や道路と直結する「地下」に貨物取り扱い区画や駐車場のかなりが設置されるため、「空母のようだ」と言われることもあった。
その他、燃料タンク、非常発電・電源設備など重い設備も、多くは箱の中の「地下」に設置された。
1つのユニットは200m×50m×水面(海面)からの高さ15mが基本サイズで、大きさは大型タンカー程度になるが、これを第一期工事だけで600個作らねばならない。
しかし技術的には低いし、同じ物を作るだけなので工期の面でも難易度も低い。
注排水システムを内蔵するなど単なる箱ではないが、船を造るよりはずっと簡単だ。
24時間飛行機が発着するので滑走路部分は頑丈に作らねばならないが、要はそれだけとも言えた。
耐用年数は最大で100年とされるが、その気になれば不都合な区画ごと交換してしまえばいいし、拡張工事も容易い。
また、地面となる箱から伸びる無数の杭のある区画は基本的には空き空間となるため、そこに様々な施設や区画を設置する事も可能だった。
問題があるとすれば、造船各社に余剰があるとはいえ、製造コストの面での折り合いをどうつけるかだった。
工事の始まる1980年代は、ちょうど日本産業全体の大拡張期に当たるため、新たなシェア獲得を目指した造船業もさらなる規模拡大が進んでいた。
また一方で、当時は満州の造船業も盛んだった為、競争からこぼれる造船会社も少なくなかった。
また、日本の産業を支えていると自負する大企業は、多少の採算には目をつぶり、事業に積極的に参加する意志を見せていた。
さらには、一度発生してコストや効率に折り合いが付くと分かると、関西新空港と他の巨大空港の一部だけでなく、他のメガフロート計画も動き始めるので、継続的な需要も見込めた。
計画の中には、実験的な洋上都市があると思えば、洋上の石油備蓄基地、さらには自然エネルギー系の発電施設などもあり、広い範囲での需要が生まれようとしていた。
このため建設業者に困ることはなく、困るとすれば多くの鉄を消費することによる、鉄と関連する資源や製品のコスト上昇だった。
だがそれも、日本経済はともかく世界経済全体で見れば誤差の範囲でしかなく、建設計画に支障をきたす程ではなかった。
建設場所は、複数候補の中から神戸市中心部の沖合が選ばれた。
最終候補地として大阪南部と神戸沖に絞られたが、大阪南部の場合は比較的近い堺沖に大阪国際空港がある事と、交通量など考えると別のインフラ整備が必要になるなど問題があった。
離発着の空路の重複も大阪南部の方が多かった。
また連動して、堺の大阪国際空港拡張に際して、当時まだ一部埋め立て地にあった旧陸軍工廠(※1970年代に施設ごと民間企業に売却されている。)を移転させて空港施設の一部に土地利用する話しがあった。
この移転先として、落選した泉州地域が当てられている。
なお、神戸のある兵庫県には、この時まで県の南部に大きな飛行場が無かった。
戦前には大阪との隣接地の伊丹(現在は大阪府)に中規模の飛行場があったが、戦後は堺沖に統合されて小型機用で利用されるだけだった(※ビジネスジェットなどの小型機やヘリ用の空港として、都心部に近いので現在も重宝されている。)。
このため県庁所在地の神戸とその隣接部には飛行場自体がなく、飛行場誘致は悲願でもあった。
24時間稼働の洋上空港を引き入れる為、兵庫県と神戸市が多くを負担して、防災面を大幅に強化するべく橋梁ではなく沈埋函によるトンネルを敷設し、道路と鉄道を引くことまでした。
このため、空港の鉄道と道路が地上(水上)に上がってくる箇所(とその周辺部)のみ埋め立てとされている。
また沈埋函としたのは、神戸港が国際港で多くの船舶が往来するので、航路を邪魔しないためでもあった。
そして空港手前の埋め立て地には巨大なコンテナヤードもあるため、新空港と連動した貨物の取り扱いにも便利だった。
また、計画当時に空港の手前で造成中だった埋め立て地に延びる予定の鉄道を、小型車両の新交通システム(無人運転車両)ではなく、輸送力の大きな一般型の車両(地下鉄)とした。
この地下鉄は神戸市中心部の狭い南北を貫く事で、北から新幹線、各種在来線と新空港を結ぶ事になる。
世界初の人工の大地の上に建設された関西国際空港(神戸空港)は、埋め立てでは不可能な短期間の工事によって1992年春に無事開港。
当初は貨物便を中心とした24時間稼働の大規模空港で、その建設方式のため世界中から大きな注目を集めた。
注目度は建設時から大きく、天地創造にまで例えられた各ユニットの移動と合体の様は特に見物とされ、沖合から工事を見る観光船が頻繁に出ていたほどだった。
完成後も洋上に浮かぶ白亜の巨大要塞として注目され、空港自体が一つの観光名所となった。
しかも既に出来上がったユニット建設の供給体制が、安価で安定した供給を可能とするようになっていたので、そのまま拡張工事もややゆっくりしたペースで続けられた。
さらに、空港に至る前の海上では埋め立てからメガフロート式とした巨大なコンテナヤードの建設が具体化し、1990年代末から工事が行われた。
こちらは空港とは違って、堤防で囲んだ中に箱形のメガフロートを係留式で浮かべている。
最終的には世界初ともなる浮体式の水上都市も建設され、神戸の沖合に合計6キロ四方(3600ha)の人工の大地が完成予定で、その完成は21世紀の最初の四半世紀が経つまでかかるとされた。
飛行場とコンテナヤードを中核とした、まさに未来を予感させる洋上都市の建設だった。
しかし1995年1月の阪神淡路大震災で、一時的な躓きを余儀なくされる。
最大震度7の都市型直下地震により、隣接する神戸自体が大きな損害を受けて、交通網の破壊などのため飛行場の運行にも大きな影響が出たからだ。
と言っても、海に浮かぶ飛行場には一切被害はなく、海中に沈めていた道路と鉄道も無傷だったため、飛行場自体は稼働を続けた。
飛行場を利用する乗客、人員の輸送には、臨時に大阪方面からの高速艇が大量動員された。
貨物輸送の一部も、既に一部で利用が始まっていたカーフェーリの利用で運用が続けられた。
また震災救助や復興では、新空港自体が神戸に対する大きな窓口となった。
そしてこの経験により、コストさえ引き合うのならメガフロートを使うことがいっそう肯定されるようになり、以後日本を中心に世界でも利用が広まっていくようになる。
この地震の経験が、隣接する新たなコンテナヤードをメガフロート式に変更させており、以後続いていく施設の先駆けともなった。
また、1960年代に一度は挫折した船舶型(洋上型)の原子力発電所計画も、メガフロート式で再び動き、この洋上原発はサイパン島の宇宙基地運営用に初号機が建設されている。
その後、関西国際空港は順調に拡張を行い、2011年までには滑走路4本備えるまでに拡張されている。
そしてギネスブックにも記された巨大な人工物そのものが、この時期の日本の発展速度を象徴していた。
日本の空港状況を見てきたので、日本の飛行機と航空会社も概要を見ておこう。
第二次世界大戦後の世界の主な民間旅客機メーカーは、アメリカのボーイング、ダグラス、ロッキード、イギリスのビッカーズ(BAE)、デ・ハビラント、ホーカーなど、フランスのエンケル、そして日本の中島、三菱、川西、川崎になる(※ソ連メーカー除く)。
しかしアメリカ企業が圧倒的優勢だったので、西欧は英仏が共同で旅客機開発を行うも結局大きな成功はせず、フランス政府からあまり優遇されなかったもとドイツ系のエンケル社が、主に小型・中型旅客機で独自の成功を上げたぐらいだった。
日本メーカーは、中島は社是から軍需にばかり目を向けていたし、旅客機、民間機開発はそもそも苦手だった。
三菱もまずは中島と軍需を競い合い、民間機開発は日本政府に言われた時にしているという面が強かった。
三菱にとっての旅客機開発は、あくまで国策の場合に行う事だった。
川崎は、熱意はあったが規模で他社に負けていた。
米英の企業に勝つため、日本の全ての航空メーカーを結集した旅客機を開発した事もあったが、性能はともかく商業的には成功とはいかなかった。
そうした中で、民間機を重視する川西が旅客機開発を地味ながら着実に行っていたが、アメリカ企業の機体には十分対抗できずにいた。
国際進出に際しても、アメリカに許可などで阻まれる事が多かった(※競争でアメリカ優位とするための嫌がらせのためと言われる事が多い)。
小型機(100人乗りクラス)の開発は行い、これが1960年代の日本並びに満州での安価な航空機需要の波に乗って業績も大きく伸びたが、アジアでの需要はまだまだ少なく世界展開には届かなかった。
全体としても、日本政府も国内各社を支援していたので国内シェア、極東シェアは守れたが、海外ではアジアで多少売れるぐらいで日本製の旅客機はあまり売れていなかった。
旅客機問題で、日米関係が悪化したことすらあったほどだ。
大きな変化は1975年に訪れる。
川西と川崎の航空機部門が合併し、さらに幾つかの中小メーカーを吸収して国際的にも規模の大きな航空機会社となった。
そして名を西崎と改めると、政府の求めで軍用機開発をしつつも、大型機は民間を含めた輸送機(貨物機)しかほとんど開発せず、中型の旅客機開発に総力を傾けるようになる。
そして「K」シリーズで中型旅客機の「K200」が登場すると、安定した性能と操縦性の高さ、そして燃費の良さから世界的なヒットとなり、世界的メーカーとして一気に躍り出る。
同シリーズは派生型、改良型を含めて現代に至るも生産されているベストセラーで、最高ヒットの「K250」を中心として累計4000機以上を売り上げている。
派生型の一部は、日本軍を中心に軍用機にも転用されている。
その後の西崎は、アメリカ市場を勝ち抜いたボーイングの世界的ライバルとされるも、やはり大型機開発は輸送機(貨物機)以外では低調だった。
航続距離や燃費にはこだわりを見せたが、乗客数の増加には関心が比較的薄く、最大で300人乗り程度の機体しか開発しなかった。
このため20世紀の間の大型機市場は、ボーイング747に代表されるボーイングの独断場と言われた。
日本の航空業界も、大型機は747型機を購入している。
だが21世紀になると、貨物機以外で大型機のニーズは低下しており、200人乗り、100人乗りの中小旅客機(K100またはK120シリーズなど)でも西崎飛行機が世界シェアで圧倒的優位を誇っている。
特に200〜300人乗りでは、ボーイング社すら圧倒している。
しかしあまりに圧倒的存在となり過ぎたため、国外はもとより日本国内からの非難も少なくない。
当然と言うべきか、アメリカからの圧力も少なくない。
国内でも中島、三菱の影がすっかり薄くなってしまい、21世紀半ばまでに日本の民間航空機開発は西崎に統合されるだろうと言われていた。
なお日本は、世界ではアメリカ、ソ連に次ぐ飛行機メーカー大国で、軍用機を中心に多くの航空機を輸出している。
西崎が躍進するまで大型民間機は弱かったが、作っていない種類はないほどだった。
そして各メーカーやそのOB達は、自らが作り上げた航空機とその文化を大切にしていた。
このためアメリカほどではないが、日本各地には幾つもの飛行機博物館が建てられた。
博物館建設は第二次世界大戦直後が最も多く、たとえ従来の者が維持できなくなっても、別の者が後継者となったり新たに博物館が作られるなどして続けられている。
また兵部省管轄で、国営の航空博物館も大きなものが博多の郊外にあり、世界有数の航空宇宙博物館として知られている。
一方、日本の航空旅客会社は、当初は大きく二つに分かれた。
日本の国策企業と言える日本航空と、大阪に移転した省庁と関西企業が中心になって支援した全日本空輸で、どちらも前身は1930年代に旅客機を運用する航空会社となっていた。
もともと全日本空輸は小型機の会社だったが、戦後の省庁移動以後大きくなり、日本の航空主導の交通網整備の方針を受けて規模を拡大した。
また、大手航空会社が1社だけでは寡占、独占が進んで競争状態にならないという懸念もあり、2社併存は政府の方針としても肯定された。
その後さらに航空会社が数社起こり、日本各地を結んだ。
そして政府の方針として、安価な旅客機を多数就航させることで、飛行機メーカーへの需要を与えることも目的の一つとなっていた。
このため1960年代ぐらいから、明確に価格の安い飛行機便が求められるようになる。
当初は主に短距離での移動の場合で、サービスを鉄道の特急並みに抑える事で直接の経費、人件費などを削減し、多数を就役させることで運行会社の利益を確保する向きを持たせた。
1時間程度の移動だと、乗務員を最低限として飲食のサービスを完全廃止する廉価便が国内を普通に飛ぶようになり、そして徐々にだが飛行機は贅沢な乗り物という考えを改めさせていった。
この方針はある程度成功し、飛行機での移動が日本人の間でも広まるようになる。
航空会社もローカル便を中心として増えて、競争によりさらに価格も低下した。
このため航空インフラの整備が進められ、鉄道インフラ、道路インフラの整備と普及が遅れたほどだった。
特に改革が行われた1975年以後、航空運輸会社は一段と増えた。
もちろん全て良い面ばかりではなく、採算割れをして倒産する会社もあるなどあったが、競争なのだから当然とも考えられた。
そして1970年代になると、国内便だけだったのが満州などEAFTA(東亜自由貿易協定)圏内にも広まり始め、ここで世界は後の「低価格便(LCC)」を日本が先駆けとなり、さらには航空会社の自由化が進んでいる事を知るようになる。
日本の航空事情に対して、航空自由化が進んでいない欧米特にアメリカは反発を示したが、日本国内とEAFTA圏内に限られているので、文句を言う以上はできなかった。
そして1990年代以後の日本は、東アジアと北米を結ぶハブ空港と旅客機双方で、アジアの空を席巻していく事になる。





