フェイズ140−1「20世紀末期の日本と空港整備」
「高度経済成長」。
この言葉が日本国内で言われるようになったのは、1986年頃からだった。
日本は今までの様々なツケと国際情勢の変化により、1970年代前半に大きな経済的苦境に立たされた。
だがそれをバネとして、大規模な国内改革を実施して、経済面での反転攻勢を開始。
それでも、減らしたと言っても多額だった軍事費もあり、極端に大きな成長には結びつかなかった。
だが、1985年の「プラザ合意」での円安誘導で輸出経済に大きな弾みがつき、そして冷戦終結に伴う軍事費の大幅減額と軍縮によって、民間に膨大な予算と人材が流れ込んだ。
しかも、1970年代後半からの経済成長は、大規模な経済発展の準備期間として非常に有効に機能し、1992年頃から爆発的な経済成長を開始する。
それまで、1974年に満州にGDP(GNP)で追い抜かれ、西側第三位の経済力に低下していたが、為替の乱高下の中での経済成長によって1988年には西側第二位の座に返り咲く。
さらにソ連経済の虚像の露呈と崩壊もあって、アメリカに次ぐ世界第二位の座を掴んだ。
一人当たりGDPも順調な伸びを見せて、20世紀の終わりには満州と横並びになった。
それを可能とした切っ掛けは、やはり大規模な軍縮だった。
1975年の改革で、日本は過剰だった軍備を大幅に削減した。
それでも対GDP比3.5〜4%程度の軍事費を支出していた。
そうしなければ、削減してなおもソ連に対向するための軍備を維持できなかったからだ。
だが冷戦が終わりソ連が崩壊して、さらに湾岸戦争が終わると、過剰となった軍備削減が再び行われた。
当面の目標は対GDP比1%の削減。
約30%の削減という事になる。
概要としては、ヨーロッパ駐留軍の廃止、対ソ連戦備の解体、それに伴う緊急展開軍の再編成を骨子としており、現役兵の数も定数55万人から40万人までの削減を目標とした。
1986年編成では、アメリカ軍の20〜25%程度が一つの目安で、陸軍:28万(予備8万)、海軍:14万(予備3万)、空軍:9万(予備1万)、戦略空軍:4万(予備5000)だった。
一番の削減対象は兵員数の多い陸軍で、欧州駐留軍と本土待機部隊の半減が削減の対象とされた。
この結果、機甲師団2個、機械化師団2個が廃止され、機甲師団1個、機械化師団2個、歩兵師団3個、混成機動師団1個(空挺旅団1個、空中突撃旅団1個、教導機械化旅団1個)を中核として再編成される。
編成上だと一気に10万人の兵士が削減される形だが、歩兵師団の即応率向上と余剰兵器の配備による重武装化で、28万人の定数は20万人とされた。
空軍は飛行隊6つが廃止され、戦闘機6個飛行隊、戦闘攻撃機6個飛行隊、攻撃機3個飛行隊が基幹部隊になる。
輸送機、空中給油機の削減は10%程度に止められたので、欧州駐留軍を含めて対ソ戦備が主に削減された形になる。
5個飛行隊+戦略輸送航空団あった輸送機部隊は、1個飛行隊が旧式機の整理を兼ねて削減されたに止まっている。
さらに他の機体も旧式機の整理が行われた格好で、規模は縮小したが日本本国での精鋭度合いはむしろ強まっていた。
兵士の削減も1万人程度でしかない。
初期計画ではもっと削減予定だったのだが、湾岸戦争後に再査定されて2個飛行隊の維持続行などがあった。
戦略空軍は、1975年に大幅に削減していた事もあり主力爆撃機部隊の一部を削減しただけで、全体として20%程度の削減に止まっていた。
これは、戦略空軍が核抑止力により特化していたからだ。
ただし海外常駐は廃止され、シチリア常駐部隊の削減だけでなく、ディエゴガルシア島配備の部隊も日本国内の基地に移動となっている。
そして冷戦崩壊の時期、一時戦略空軍は空軍への統廃合や宇宙での軍の集中運用を行う組織への改編などの議論が盛んになった。
議論と研究は数年に及び、時代の変化に対応するべく戦略空軍の名称変更と組織の大幅な改変が決まる。
大筋は、戦略空軍の組織を大きく二つに分ける事。
一つは、衛星運用を含めた宇宙戦力の合流と統廃合。
もう一つは、全軍を遠隔地に派遣するための戦略機動軍と仮称された組織への改編が最終的にまとめられる。
最初の組織は宇宙の軍事利用の統合で、空軍など他の軍では荷の重い任務を集中させる事となる。
もう一つの組織は、欧州派遣軍の司令部組織も半ば合流する形となり、戦略空軍、空軍の輸送機部隊、海軍の海軍陸戦隊、陸軍の空挺部隊と新設される機動旅団などを組織に組み込む。
この時核戦力も全て合流させる案もあったが、戦略原子力潜水艦という特殊すぎる兵器である事、海軍の強い反発から実現しなかった。
そして改変に伴い「戦略空軍」から「空軍」の文字を外して「戦略軍」と改名し、さらに重要性が高まったことから軍直轄の色合いが濃くなる事になる。
海軍は、陸軍に次いで削減対象とされた。
海軍は大型空母に代表されるように金食い虫の代名詞とされる軍であり、軍事費削減のためにも削減せざるを得なかった。
1986年基準では大型空母4隻、支援空母4隻、強襲揚陸艦3隻、水上艦70隻、各種潜水艦40隻が基幹戦力だった。
このうち旧式化が著しい大型空母1隻、支援空母2隻、水上艦20隻、潜水艦8隻の削減が決定。
通常型潜水艦の全廃も決まる。
これ以外にも、事前集積船を中心にかなりの支援艦艇がお役ご免とされた。
結果、大型空母3隻、支援空母2隻、強襲揚陸艦3隻、水上艦50、各種潜水艦32が新たな定数となった。
現状維持は、ようやく新型艦8隻が揃った戦略原子力潜水艦だけだった。
兵員も現役14万人から、一気に10万人にまで削減予定となった。
また、揚陸艦艇については、半ば新設の戦略軍の指揮下に置かれるので、戦略原子力潜水艦のように二元管理下となった。
だが、湾岸戦争後に再査定が行われ、大型空母1隻、水上艦5隻などが復活している。
ヨーロッパに兵力を常駐させなくてよくなったが、不測の事態に備えて常時1隻の大型空母を洋上に展開する方針が強められたからだ。
本来の軍縮では、常時1隻を即時出撃可能という一段低い段階での即応体制だったので、日本海軍のパワー・プロジェクションは、実質的に冷戦崩壊前と大きく変化していないと言える。
しかしこのため、1999年に新たな原子力空母(《大鳳》)が就役するまで、1950年代就役の通常型の大型空母《飛龍》の現役続行が決まり、慌てて延命措置のための近代改装に入るという一幕もあった。
なお、水上艦の削減で問題視されたのが、冷戦時代に復活させた戦艦の扱いだった。
この時点で《大和》《武蔵》が現役、《信濃》《甲斐》が大規模な近代改装中だった。
そして4隻全てが高価で貴重なイージス・システム搭載艦という点が問題争点だった。
当時の戦艦以外のイージス艦は、《翔鶴型》空母以外には《金剛型》イージス巡洋艦4隻しかなかった。
大量建造を目指している《村雨型》イージス駆逐艦の整備は1991年に始まったばかりで、しかも冷戦崩壊で調達数の大幅削減が決まっていた。
このため、現状だけでもイージス艦の数が大幅に不足していたし、その後10年以上に渡り不足する可能性も非常に高まっていた。
にもかかわらず、湾岸戦争での活躍もあって1隻でも多いイージス艦の保有が求められた。
また、戦艦の艦載機運用能力の高さは、支援空母削減で不足する対潜部隊の代替にもなるという意見も強かった。
そして戦力維持、改装継続が決まるが、それでも乗組員の多さ、運用経費の高さは問題視された。
結局、常時1隻の現役、1隻の予備役(即応予備役)、2隻の保管艦という事で話しが決まり、ローテーションを組んでの交代の形で、予想外に長い期間運用し続けられる事になる。
これは、他の国々が現役復帰させた戦艦を次々に退役させていった事と対照的だった。
また、アメリカが自らの面子のために、イージスシステムを搭載した《ルイジアナ》《メイン》を常時1隻現役維持する主な理由ともなった。
海軍の詳細はともかく、1992年時点での軍備の削減は当初予定より小幅にされた。
海軍の兵員削減は3万名で抑えられ、軍全体では55万人から、41万人への削減となった。
ヨーロッパ諸国より削減されなかったのは、近隣を中心に脅威が存在し続けていたからだが、それよりも日本が依然として世界への軍事的影響力を維持するためだった。
しかし概要を見ると分かるが、装備面では必ずしも兵員数に比例するほど削減は行われていない。
それでも対GDP比1%の削減ができたのは、海外駐留の大幅な廃止と、国内即応部隊の大幅削減のおかげだった。
そして大幅に削減してもなお、日本の軍備は大きかった。
唯一の超大国と言われたアメリカと比較するまでもないが、ソ連が崩壊した状態では核戦力と合わせると実質的に世界第二位の軍隊だった。
特に、大型空母を複数保有し、アジアを中心に海外基地を保持している点では、世界への兵力展開能力でアメリカ以外の追随を許さない能力を依然として保持し続けていた。
(※準大型空母といえる空母は、イギリスが2隻保有してたし、フランスも1隻建造中だった。)
そして日本軍の特にアジア圏での展開能力は、アメリカとしても頼りにせざるを得ず、依然として日本との関係は緊密にしなければならなかった。
対GDP比2.5%の軍備は、当時の日本にとってアメリカとの関係と、世界的な影響力の行使の上での必要経費だったのだ。
それでも1%削減の効果は非常に大きく、当時の日本の景気拡大をさらに押し進める大きな原動力となった。
冷戦が終わった時期、日本は大きな景気拡大の最中にあった。
そして、さらに冷戦終結に伴う国家予算の大幅な配分変更で、大きな推進力を与えられる事になる。
景気拡大に伴い国家予算も大幅に膨れあがり、赤字国債発行は無くなり、かつての借金はGDPと税収の拡大に伴って相対的に大きく減少していた。
そして国内では人口のそれなりな拡大が続いており、若年人口が多く老齢人口が少ないので、国家予算を全力で経済発展に振り向けることができた。
しかもそれが、先進国に達する一人当たり所得に到達した総人口1億7000万人に達する大国が行うのだ。
そして日本は、一度は二番手に躍り出た満州の影からより巨体となって姿を現し、急ぎ足で発展の道を突き進んだ。
日本の発展は1980年代に入って本格化したので、約10年の経過で景観の多くが変化していった。
過密で低層の木造建築が目立つ都市の住宅街はまだ多くがそのままだったが、都市部の郊外には屏風のような大型マンションが林立するニュータウンが建設された。
建設されたのは大都市だけでなく、日本各地の中小の都市も同様だった。
また都市部でも、それまで開発がおざなりだったり放置されていた地区を大幅に整備して、副都心と呼ばれるような巨大な商業区画の整備が進んだ。
超高層のマンションも林立するようになった。
住宅地の再開発も90年代に入ると急速に進み始めた。
また、首都圏、京阪神、中京、瀬戸内の一部、福岡の各地域では、今までに倍する勢いで埋め立て地の造成が進んだ。
郊外開発に伴う土砂の利用の一環で、都市の過密化への対応ではあるが、よりいっそうの都市開発のためにまとまった土地が急ぎ必要となっていたからだった。
1980年代までは、かなりの割合で埋め立て地はゴミの処分地としての価値が大きかったが、焼却能力の向上でそうした役割が弱まり、純粋に埋め立てる場所を早期に確保する方向性に変わっていった。
しかし日本経済の急速な発展に、東京、大阪、名古屋、博多での埋め立て地の増勢が間に合っていなかった。
そうした中で、依然として世界一の造船量を誇っていた事が、別の場所確保の手段の可能性が発生する。
その可能性とは、巨大な鉄の箱を浮かべて短期間で土地と空間の双方を確保する方法だ。
日本帝国は1930年代に造船大国として急成長し、第二次世界大戦でさらに大きく拡大した。
だが1950年代までは、アメリカと一部西ヨーロッパ諸国が造船大国であり、基礎的な能力も高かった。
現代でも大型客船の建造は西ヨーロッパ、北ヨーロッパ諸国の得意とするところだ。
しかし造船業の量の面の主力は、貨物船やタンカー(油槽船)だった。
そしてどちらも安価に建造できる方が好ましいため、好んで先進国が行う事業ではなかった。
そして当時の日本に非常に合致した産業であるため、ほぼ日本発祥と言えるドックでの大型船建造技術と共に、1950年代終盤から貨物船やタンカーの建造は日本の半ば独占状態となった。
そして量の面でのライバルが長年現れないため、1990年代に入っても日本の優位が続いていた。
しかし、1950年代までは欧米の造船各国が、1960年代から1980年代までは満州が、1990年代になるとイラン、ベトナムさらに2000年代になると支那連邦共和国、インドが台頭してくると、日本の造船業はコスト面などで劣勢を強いられるようになる。
そして造船業で、いずれ劣勢を強いられることは1960年代から予測されていたので、変わりうる産業や建造物の模索が行われた。
橋梁などの巨大構造物も、そうした船に代わる建造物の一つだった。
1980年代から日本で建設が活発になった海上の風力発電施設も、その一環だった。
そしてその建造物の一つとして、浮体構造物式の巨大建造物、メガフロートがあった。
メガフロート式の「陸地」を作る計画が具体化したのも、造船の苦境を反映した側面があった。
そして1960年代後半から研究と実験が行われるようになり、1980年代半ばになると実現可能な技術となっていた。
そして一日でも早く確実に、そして広大な面積が必要とされる施設として、24時間稼働する貨物空港やハブ空港の建設計画が持ち上がる。
日本では、1930年代から満州と連動する形で民間航空が急速に発展した。
中島、三菱、西崎(川崎・川西)など日本国内に大きな飛行機メーカーが有ることが、航空産業と航空網の発展を促した。
第二次世界大戦後もさらに拡大が続き、高速道路網、高速鉄道網の普及が遅れるほどとなった。
航空製造各社は、飛行機を大衆の乗り物とするべく運行各社を支援して、出来る限り安価で出来る限り簡便な航空便を多数運航させた。
その波は徐々にアジア各地へと波及し、LCCの先駆けとなった。
当然ながら、日本各地に飛行場が建設された。
しかし大規模な飛行場はまとまった土地が必要な上に、離発着の騒音を回避するため内陸部に建設する場合は、空路なる土地も取得する方が好ましいので、さらに多くの土地が必要となる。
だが、日本で広い土地は限られているので、大きな飛行場と言えば海に面した場所に作られることが多かった。
東京の羽田空港(東京国際空港)、大阪の堺空港(大阪国際空港)がその代表だ。
そうした状態の中で、1960年代に首都圏で新たな国際空港の建設が行われた。
今日の成田空港(新東京国際空港)は、当時は比較的荒れ地が残されていた関東平野東部の内陸部に建設され、北米から東アジア全域を結ぶハブ空港として大いに期待されていた。
だが土地買収の段階で失敗し、反対運動に対して軍すら動員する事になって、開港自体が2年近く遅れてしまった。
それでも開港当初から4000メートル級滑走路2本、2500メートル級の横風用滑走路1本を備えた、当時の日本としては最大規模の飛行場として建設された。
だが成田での土地問題は、特に大阪を根城とする運輸省、通産省、建設省そして日本の各航空メーカーに、次に都市部で巨大空港を建設する時は別の手段を取ろうと決意させた。
そこに通産省が造船メーカーを連れてくることで、一つの計画が動きだす。
それが世界初の巨大人工浮体の飛行場だ。
1980年代半ばにまずは小型(と言っても長辺1000メートルあった)の海上空港として実証実験が行われ、十分な結果を得た。
他にも、様々な試験や実験が行われた。
中には単なる箱形ではない、石油採掘船のようなタイプの実証実験も行われた。
世界はこれを、移動可能な洋上軍事基地を日本が作ろうとしていると騒いだりもしたが、当時の日本はメガフロートを軍用に使うつもりは無かった。
そんな妄想を他国が働かせたのは、土地に不自由しない大陸国だからだろうとしか思わなかったほどだ。
それに、実験していた頃は、実際にメガフロート単独による巨大空港建設は、早くても21世紀に入ってからだろうと考えていた。
しかし満州の急速な経済成長で、すぐにも北東アジアのハブ空港として機能していた成田のキャパシティーが追いつかなくなりつつあった。
成田空港は慌てて拡張計画が動いたが、それでも10年先には不足すると予測された。
しかも1980年代にはいると、日本でもアメリカや満州向けの航空便が爆発的に増加を始め、巨大なハブ空港と24時間稼働の貨物空港の必要性が高まった。
国内各所の飛行場の拡張も急務となった。
なお、冷戦時代の北太平洋の航空網は、イデオロギーによる断絶の影響を受けていた。
と言うのも、ソ連上空を西側の航空機が飛ぶことができないため、日本や満州から北極空路でヨーロッパに向かうには、アラスカのアンカレッジ空港を経由する必要があった。
しかも1970年代ぐらいまでは航空機の航続距離の問題もあったため、アンカレッジ経由は必須ですらあった。
また、満州から北米大陸やアンカレッジに行くには、ソ連領空を迂回する必要性があった。
そして満州の北米便の多くと北極経由の欧州便は、日本の飛行場つまり成田空港を利用してアンカレッジ経由で北米とヨーロッパに向かった。
当然ながら、逆ルートの場合も同様だ。
また1970年代になると、東アジア各地から北米やアンカレッジ経由のヨーロッパ空路、そして何より北米を目指す場合も、日本の飛行場をハブ空港として使う便が増加し始めた。
成田が早期にパンクするのも必然だったのだ。
そして日本としては、日本の貨物便を大規模に扱う飛行場を増やすと同時に、成田の負担を軽減するため別のハブ空港を建設する必要性に迫られた。
羽田の拡大は以前から決まっていたが、全く足りない事が確実視されたからだ。
ハブ空港は、北米になるべく近く、広い土地のある場所が好ましかった。
またハブとして使うのだから、南に下がりすぎると満州地域などからでは余計な距離のロスが生まれてしまうため、なるべく北にある方が良かった。
そして最も合致する場所は、北海道だった。
北海道が相応しい場所というのは成田空港建設の頃にも議論されていたが、北海道の場合は冬に激しい風雪で閉鎖される可能性があるので、成田空港建設の時は成田が選ばれた。
しかし、もう関東に二つ目のハブ空港を作る余地はないので、今度は北海道が選ばれた。
もう一つの候補として、東北地方の太平洋沿岸も有力だったが、成田から比較的近いので空が込みやすくなることと、意外に土地の取得が難しい事から北海道に軍配があがった。
そして北海道の中でも選ばれたのが、石狩平野のやや太平洋寄りにある千歳空港だった。
千歳空港は、もともと北海道の空の玄関口として1930年代末に開港し、その後相応の拡張も行われていた。
第二次世界大戦中は、ソ連へのレンドリース向けに軍用で使われた事もあった。
新たな飛行場は、ほぼその横に新たに建設されるに等しい形で急ぎ建設が開始された。
1980年代半ばに稼働予定の新千歳空港は、基本的に在来空港を利用する国内便は北海道と日本の他の地域を結ぶだけにして、空港の主な機能は東アジア各地と北米大陸(と北極空路)を結ぶ事に集中される事になる。
このため4000メートル級の滑走路が2本、横風用や補助用としてさらに2本が第一期計画で建設され、さらにその後の利用量拡大に備えて、4000メートル級滑走路がさらに1〜2本建設できるだけの余地が確保される事となった。
全てが完成すれば、日本最大であるばかりでなく、東アジア最大級のハブ飛行場になる予定だった。
新千歳国際空港は1988年に開港し、冬の一時期は成田、羽田に機能の一部を助けられる形ながら、北東アジアのハブ空港として広く利用される事になっていく。
しかし1990年に冷戦が終わると、ソ連改めロシア上空が通れるようになったため、1992年ぐらいから満州からの便は直接北米やヨーロッパに行くようになる。
このためハブ空港の需要は一時的に大きく減少するが、日本での航空需要の激増、東アジア地域での増加のため、極端に大きな変化はなかった。
21世紀序盤ぐらいからは、むしろ満州便が大挙して来なくなって助かっている面も多かった。





