フェイズ136-2「ガルフ・ウォー(2)」
イラク軍の一斉攻撃に対して、日米戦艦群の対応は早かった。
自前のイージスシステムだけでなく、アメリカ空軍のAWACSとJ・STARSの支援を受けていたからだ。
特にJ・STARSと呼ばれた「E-8 ジョイント・スターズ」の威力は大きく、当時最新鋭機で合成開口レーダーという特殊な探知装置で、地上の敵を正確に捉えることができた。
そして友軍の支援と自前で敵を探知した艦隊は、臨時旗艦となっていた《大和》からの割り当てを受けながら、「全自動射撃 (ハンズ・オフ)」もしくは「オート・スペシャル」と言う、イージスシステムによる全自動迎撃を開始する。
そしてイージスシステムは解き放たれた野獣となり、各艦のVLSから好きなだけのスタンダード対空ミサイルを放ち始めた。
5隻合計で約750発搭載されていたスタンダード艦対空ミサイルは、イージスシステムの命じるままに、敵性航空機もしくはミサイル1発に対して、撃破率を高める2発発射を開始。
一部のミサイルは、ミサイルを発射した母機を狙って遠くに向けて放たれたりもした。
2発同時照準による撃破率は、99%にも達する。
この結果5隻の艦艇の上は、まるで活火山のように火炎を吹き上げ続けた。
イラク軍が放ったミサイル数は233発。
このうち70%以上に当たる約170発が正常に機能を発揮。
しかし正常に機能を発揮できなかった内の約半数は、取りあえずは発射には成功していたので、イージスシステムに標的認定された。
つまりイージスシステムは、約200発のミサイルを迎撃した事になる。
また護衛を含む約50機の遠方の敵(航空機)に対しても、射程距離内を飛行していた約40機に対して、80発のミサイルが発射された。
結果、合計で500発近い長距離対空ミサイルが、ごく短時間の間に発射されたことになる。
ペルシャ湾奥の闇夜は、無数のミサイルが放つ飛翔の火炎と爆発の閃光で彩られた。
しかしそれでも迎撃は完全ではなく、10%程度の対艦ミサイルが今までにないスタンダードミサイルの濃密な迎撃を抜けてきた。
これは対艦ミサイルが低空を飛行するため捕捉が難しい事に起因しているのと、あまりにも双方が飽和状態で戦闘したので、どうしても迎撃の漏れが発生してしまう為だ。
だが、敵ミサイルが近づいて来ても、イージスシステムが屈する事はない。
近距離迎撃も、今までの迎撃システムと違ってイージスシステムが得意とするところだった。
しかも《大和》《武蔵》は、敵ミサイルがスタンダードミサイルなど中長距離ミサイルの迎撃を抜けてくることを前提とした大改装を受けていた。
20キロメートルぐらいにまで敵ミサイルの一部が迫ると、早くも射程距離の長い新型の20cm砲が火蓋を切る。
大型砲なので発射速度の遅さが大きな欠点だとされるが、その分射程距離が長いので、127mm砲よりも遠距離の敵を迎撃できた。
次に米艦艇の127mm砲が火を噴き、さらに《大和》《武蔵》の速射性能の高い76mm砲が機関砲並の射撃を開始する。
これを越えられるとCIWSの出番となるが、この段階でもスタンダードミサイルの発射と迎撃は続いていた。
この即応性の高さこそが、イージスシステムの神髄発揮だった。
この距離まで詰められてしまうと、フォークランド紛争のイギリス艦隊のように迎撃ができなくなって、なけなしの機銃を撃つしかできなくなり、少数の敵の貧弱な攻撃に対しても大損害を受けてしまう。
だが、イージスシステムを備え戦訓を踏まえた艦隊に死角は無かった。
この段階でも、全てのレンジに対して適切な迎撃が行われた。
それでも100%の迎撃とはいかず、標的としても大きく次の砲撃の為陸側に位置していた《武蔵》は、CIWSの射撃まで行う事になる。
CIWSもフォークランド紛争には無かったもので、従来の機銃と違い的確にそして素早く敵ミサイルを迎撃した。
最終的に艦隊まで到達して《武蔵》のCIWSの迎撃を受けたミサイルは2発。
つまり全体の約1%。
そして2発とも見事に撃破されたのだが、うち1発は至近弾と同じ状態になった。
距離1000メートルを切ったところでレーザービームのように発射される20mm砲弾に切り裂かれたミサイルだったが、20mm弾が迎撃するには少し大きすぎた。
撃破されたのは「Kh-22」。
西側がキッチンと呼ぶ大型対艦ミサイルで、日米の空母を葬る為に生み出されたミサイルは、弾頭部に1トンの火薬か戦術核を搭載できた。
この時は当然火薬だったのだが、その1トンの火薬と残されていたロケット燃料が、バラバラになりさらには炸裂、燃焼しつつ、《武蔵》の右舷側面に降り注いだ。
このため《武蔵》は、右舷の前部から中央部の前側にかけて至近弾が被弾した状態となった。
そして火薬や残燃料により、一瞬《武蔵》が爆発したようにすら見えた。
しかし《武蔵》は、爆煙の中から悠然と現れる。
その様は、第二次世界大戦中の戦闘を彷彿とさせる情景だった。
だが流石に無傷とはいかず、右舷前の76mm砲1門が破損し、右舷甲板各所も事実上の被弾で無数の小さな傷がついた。
だが堅牢な主砲や船体装甲は無傷だった。
艦橋構造物も、ごく一部が少し焦げた程度で被害を免れていた。
前部VLSもすでに射撃を終えて装甲シャッターを下ろしていた事もあり、艦全体としては特に大きな損害を受けることも無かった。
そして迎撃の様子と《武蔵》の被弾、そして被弾後の《武蔵》の健在ぶりは、これ以上ないぐらいの宣伝映像となった。
作戦中の各戦艦が捕捉した迎撃で連続して爆発する敵ミサイルの超望遠映像と合わせて、イラク軍の凶暴さ、多国籍軍の活躍、そして戦艦という過去の遺物と思われていた戦闘艦の健在ぶりを世界中に知らしめることになった。
同時に、新時代の海戦がどのようなものかを、人々の心と戦史に深く刻みつけた。
しかし、事実上被弾した事への批判もあり、人的損害が無かったのは結果論に過ぎず危険が大きすぎたと、多国籍軍司令部並びに日米海軍に批判もあった。
また当事者となった日本海軍では、絶対の自信を持っていた防空網が100%に機能しなかった事に少なからずショックを受けており、その後さらに努力を重ねる事にもなった。
だが、より大きな衝撃を受けたのは、イラク軍とソ連軍だった。
絶対の自信を以て行った対艦ミサイルの飽和攻撃が実力で跳ね返されたと言うことは、西側洋上戦力に対して通常攻撃では対抗手段がない事を意味するからだ。
しかも日米艦隊は、全艦イージス艦艇であっても僅か5隻の艦艇で迎撃しており、加えて空母艦載機はミサイルの迎撃に関してはあくまで間接支援しかしなかった。
それでもソ連海軍は、巡航ミサイル搭載潜水艦を投入していない点などから逃げ道も若干あった。
全く逃げ道がないのはイラク軍だった。
開戦初日の僅か数時間で、虎の子の一つの対艦ミサイル部隊が消耗してしまったからだ。
これで事実上海からの上陸を防ぐ一番の手段を失ってしまった。
しかも多国籍軍の戦闘行動は、この初戦においても迎撃を行っただけだった。
そしてイラク軍のミサイルが尽きたとほぼ同時に、反撃の刃を敵手に向けて振り下ろした。
日米の戦艦部隊を攻撃した部隊は、まずはミサイル攻撃の段階から航空部隊がスタンダードミサイルの迎撃を受けて、護衛を含めて50機以上作戦参加したうち、半数以上の28機が撃墜されてしまう。
それでもミサイル発射には成功しているので、任務は全うしたと言えるだろう。
だがその後も受難が続き、AWACSの支援を受けた多国籍空軍機の攻撃で、さらに6機を失っている。
一度の戦闘で空中での30機以上の損害を受けた事は、湾岸戦争全期間を通じても最大規模だった。
水上でも、エグゾセミサイルを発射したボートは、戦艦を護衛していた駆逐艦から対艦ミサイルの攻撃を受けて、ミサイル発射後すぐに退避したにも関わらず4隻中3隻が撃沈されている。
さらに多国籍軍艦隊に最も近い沿岸からは、5隻の自爆モーターボートが出撃したが、各種迎撃を受けて全艇撃沈された。
ここでもJ・STARSの捜索能力が威力を発揮していた。
そしてこの戦いでJ・STARSが最も威力を発揮したのが、戦艦部隊の反撃時においてだった。
ミサイル発射で位置を暴露したイラク軍の地対艦ミサイル部隊に対して、J・STARSはその位置の多くの特定に成功。
情報を各戦艦に伝え、ミサイル迎撃が終了するとすぐにも3隻の巨大戦艦は自慢の主砲を久しぶりに咆哮させる。
目標は艦隊から30キロ近く離れていたが、46cm砲、18インチ砲にとっては、十分射程距離内だった。
しかも新造時と違って、様々な捜索装置の支援を受けていた。
支援の中には人工衛星からの情報すら含まれており、位置が特定された敵に逃げ場はなかった。
それでも沿岸部の地対艦ミサイル部隊は、以前から構築されていた深く掘られた待避壕や重コンクリート製の強固な防空壕に待避していた。
これらの備えは、通常の爆撃や砲撃に対しては、十分効果的だった。
実際、クウェート各所のイラク軍は、深い待避壕の奥に隠れていたおかげで、この世の終わりとすら思えたという多国籍軍の空爆では、大きな損害を受けていなかった。
だがこの時は、相手が悪すぎた。
デイジーカッターなどの超大型爆弾を除けば、核兵器以外で最も強力な攻撃にさらされたのだ。
しかも砲撃は1発だけでなく、連続して同じ場所に行われた。
55口径砲から打ち出される重量1.7トンの砲弾が生み出す運動エネルギーは、重核シェルターに対応するレベルの防護施設でもない限り、防ぎようがなかった。
しかも日米の戦艦は榴弾と徹甲弾をまぜて撃っており、暴露した敵設備と部隊を面単位で制圧していった。
戦艦から巡航ミサイルの攻撃は無かったが、これはこの時の任務の為、万が一被弾した場合を考慮して一時的に降ろしていたからだった。
その代わりというわけでもないが、艦砲射撃は徹底して行われ、さらにメディアへの宣伝材料を増やした。
開戦以後、多国籍軍は一方的な空爆を続けた。
クウェートの奪還が最大の目的だったが、そのためには周辺にいるイラク軍を撃破する必要があったからだ。
そして多国籍軍司令部は、空爆で敵地上戦力の50%撃破を目標に掲げていた。
このため連日激しい空襲が各所で実施された。
そして2月24日午前4時をもって、多国籍軍の地上作戦が開始される。
それまでに一度イラク陸軍の反撃があり、サウジアラビアの国境の町カフジが攻撃を受けたが、1月29日から30日にかけて行われた戦いは、圧倒的戦力で反撃に出た多国籍軍によりイラク軍が撃退されて終わった。
そしてその戦闘は、24日午前4時から約100時間かけて行われた地上戦を暗示するような戦いだった。
多国籍軍による地上からの反撃、つまり「砂漠の嵐」作戦は、ペルシャ湾の沿岸部のサウジアラビアとクウェート国境を軸として、イラク中部のユーフラテス川沿岸にあるサマワを目指して、イラク軍主力部隊を包囲するべく迅速な進撃を開始する。
西側から第18空挺軍団、米第7軍団、日第二軍、海兵隊を中心とする中央軍、アラブ諸国を中核とした東部合同軍に分かれてそれぞれの目標に向けて進軍した。
進軍する多国籍軍の前には、イラク陸軍の過半が配備されていると見られた。
そのイラク陸軍は、50個師団56万人の兵力を有し、4300両の戦車、2900両の装甲車、3000門以上の火砲を装備していた。
これに対して多国籍軍の地上部隊は、17〜18個師団相当の部隊と支援部隊が攻撃に参加していた。
戦車、装甲車両の総数は1万両を優に越えており、一方的とも言える制空権と装備の優位を考慮すると、戦力差は比較にもならなかった。
だがこれでも多国籍軍司令部には不安があった。
と言うのも、シュワルツコフ総司令官以下、多国籍軍司令部の第一の目的は、友軍の犠牲特に戦死者の数を1人でも少なくすることにあったからだ。
そして地上戦は、多数の犠牲が出やすい戦闘だった。
陸と空で多数の戦力が入り乱れるので、誤射や同士討ちの危険性も高まる。
だからこそ徹底した空爆を事前に実施し、圧倒的な戦力を揃えたのだ。
そしてその努力は報われ、クウェートやサウジ国境近辺に配備されていたイラク軍は、度重なる空襲で士気が完全に萎えていた。
地上部隊同士が接触して一方的に撃破されると、残りは簡単に投降していった。
一発も撃たずに降伏する例も少なくなく、多国籍軍の予測よりもずっと早く作戦は進展した。
イラク軍の頼みの綱は「サダムライン」と呼ばれた対戦車阻止線だったが、多国籍軍の圧倒的火力と主にアメリカ軍の機械力の前には無力だった。
「サダムライン」に多数埋設された地雷は、事前の空爆、主に絨毯爆撃と燃料気化爆弾により、多くが破壊されていた。
砂堤、塹壕、鉄条網も、機械化工兵部隊により地均しされていった。
特にイラク軍が期待していた広範囲に火災を発生させる仕掛け(発火装置と燃焼材)も、ドーザーで上から砂を被せることで無力化された。
この間、ラインの後ろに布陣していたイラク軍は、無数の重砲弾幕、MLRSの圧倒的な砲撃、対戦車ヘリの暴風、攻撃機の空爆により押さえ付けられ、阻止や反撃どころか頭を上げることすら出来なかった。
そして啓開された幅広の進撃路を通ってきた多国籍軍に、ほとんどのイラク軍は反撃もせずに降伏していった。
戦闘は2月28日朝に完全に終了したが、戦闘の総決算は損害比率1対100以上という多国籍軍の一方的な勝利だった。
この戦闘により、アメリカ軍など西側の最新装備を有する軍隊に対して、世界中のどの軍隊も正面からの戦闘では勝ち目がない事がハッキリした。
このためアフガン紛争でも示されたゲリラ的消耗戦に、多くの国や軍、武装組織が傾倒したと言えるかもしれない。
そしてアメリカを中心とする多国籍軍の圧勝で終わった湾岸戦争だったが、イラク軍を撃破してクウェートを奪回して「めでたしめでたし」では終わらなかった。
むしろ、今まで以上に問題の火種が誕生したとも言えた。
まず、アラブ世界でイラクの地位が大きく低下した。
特に軍事力での地位低下は著しかった。
そしてその結果、今までアラブ世界もしくはペルシャ湾岸でイスラエルとイラクが軍事力の高い国だったのが、イラクの地位にイランが入ることになる。
そしてイランは、イスラム教国家の中でも宗派が違うため、アラブ世界(イスラム世界)の混乱が大きくなってしまう。
この穴を埋めるのと、イラクの行いへの反省からサウジアラビアが大幅な軍備増強を実施するが、世界最大級の産油国であり人口が多いとは言えないサウジアラビアが、真の軍事大国になることはあり得なかった。
それでも湾岸戦争以後は、サウジアラビアがアラブ世界の盟主としての地位を高めていく。
それまでもサウジアラビアは、領内に聖地メッカがある事からアラブ世界の盟主としての自覚を持っていたのだが、実を伴った地位へと進んでいったと言ってよいだろう。
だがサウジアラビアの隆盛も、不安定度を高める要素だった。
と言うのも、イスラム教内でのスンニ派の雄がサウジアラビアで、シーア派の雄がイランになるからだ。
さらにサウジアラビアは絶対王政(独裁制)国家であるのに対して、イランは多少特殊ながら民主主義国家だった。
またサウジアラビアのバックには、「唯一の超大国」であり「世界の警察官」を自認するアメリカがいるのに対して、イランのバックには日本がいた。
アメリカと日本は、世界で最も強い同盟関係にあると言われているが、どちらも大きな国力、軍事力を有するため、無条件に仲が良いとも言い切れない関係と見られていた。
そして早くも、イラクを巡る面倒が起きてしまう。
湾岸戦争後のイラク国内では、フセイン政権の自壊は必至という見方が広まった。
北部のクルド人、多数派のイスラム教シーア派など、それまでサダム・フセイン大統領とバース党の独裁に押さえ付けられていた反政府勢力が一斉に反旗を掲げ、イラク各地で戦火が広がった。
しかも隣国イランは、湾岸戦争が終わって多国籍軍が引き揚げていくと、「人道的支援」を名目にイラク国内のシーア派救援に動いた。
と言ってもイランは民族意識も強いため、国外のシーア派に対して心理的な壁もあった。
イランとしては、イラクがシーア派主導の国になれば良いとは思っていても、それ以上は考えていなかった。
また援助も、アラブ各国が非難を強めるとイラン領内での難民受け入れ程度になっていった。
そしてイラク自身は、何とかフセイン政権が体制維持に成功し、クルド人の一部が主にトルコに、シーア派の一部が主にイランに亡命や難民化する事で沈静化する。
だが、イラクに火種はくすぶり続けたままで、イラク以外のアラブ地域の問題も何かが解決したわけでもなかった。





