フェイズ136-1「ガルフ・ウォー(2)」
多国籍軍の攻撃は、1991年1月17日の新月の夜から開始された。
「砂漠の盾」作戦の開始だ。
新月であるだけに真夜中の2時に攻撃が開始され、膨大な数の航空機、多数の巡航ミサイルがイラク軍を攻撃した。
また同時に、空前の規模だったとも言われる電子妨害戦が展開され、空爆と合わせてイラク軍の「目」と「耳」を一瞬で麻痺状態に追い込んだ。
イラク空軍は「Mig-21」「Mig-23」「F-1 ミラージュ」を数の上の主力としながらも、戦闘機、戦闘爆撃機を合計約550機保有していた。
中には「Mig-29 ファルクラム」のような当時の新型機も含まれており、多国籍軍はイラク空軍を侮りがたい相手だと考えていた。
実際、イラン・イラク戦争では、イラク空軍よりも実質的に優勢な戦力を有していたイラン空軍と(形だけは)対等に戦った実績もあった。
と言っても、航空戦力は多国籍軍が質量共に圧倒していた。
アメリカ空軍、海軍だけで F-14、F-15、F-16、F-18だけで800機を越えていた。
他に戦闘機、戦闘爆撃機だと米英が合わせて30機程度、サウジがF-15を20機程度だったが、アジア諸国は日本、満州、インドが有力な航空隊を競うように派遣していた。
満州空軍はF-15を、インド空軍は78式戦闘機を、日本海軍が77式艦戦、日本空軍が78式戦、88式戦、83式戦攻を多数派遣していた。
合わせて300機以上で、特に日本軍はアメリカに対抗するように多数の戦力を送り込んでいた。
合わせて多国籍軍全体で1200機近くに達し、しかもほとんどが本当の最新鋭機を含む第一線の機体ばかりという圧倒度合いだった。
しかも多国籍軍には、さらなる切り札があった。
早期警戒管制機(AWACS)だ。
湾岸戦争ではアメリカ軍を中心に20機以上が派遣され、24時間体制でイラク軍の動きを完全に把握し、そして的確な指示を下した。
湾岸戦争はデジタル戦争などとも呼ばれたが、AWACSの大規模な運用は新たな戦争の時代を切り開いたと言って間違いないだろう。
そして当時の世界の主力戦闘機のほとんどの種類が参加した戦いだったのだが、戦闘(空中戦)自体は規模に比べて少なかった。
と言うのも、イラク空軍が基本的に戦力温存策を採ったからだ。
イラク空軍はあまりの戦力差に正面からの抵抗を諦め、爆撃用のシェルターの中に航空機をしまい込み、多国籍軍という嵐が過ぎ去るのを待とうとしたのだ。
それでも国内奥地に攻撃に来る機体に対しては、多少でも有利と判断した場合は迎撃に出ている。
あまりにも温存ばかりして戦闘を避けていては、士気にも関わるからだ。
だが、訓練度の違い、電子技術の違い、その他様々な要素によって、全ての戦闘は多国籍軍のワンサイドゲームに終わった。
多国籍軍は、空中戦で撃墜された航空機は全くなかったのだ。
多国籍軍機が撃墜される場合は、地上の対空砲火と故障しかなかった。
多国籍軍の攻撃では、「ステルス機」で有名になった独特の形状を持つアメリカ軍の「F-117」ステルス戦闘機、トマホーク巡航ミサイル、雷切巡航ミサイルが事実上の先陣となり、イラク軍のC3I(指揮通信・統制・情報(コマンド・コントロール・コミュニケーション・インテリジェンス))機能を壊滅させ、後は思うがままの爆撃を実施した。
多国籍軍の開戦最初の大規模空爆には、主に以下の機体が参加した。
アメリカ空軍(+戦略空軍)
・F-15C イーグル戦闘機
・F-15E ストライク・イーグル戦闘爆撃機
・F-16 ファイティング・ファルコン戦闘機
・A-10 サンダーボルトII攻撃機
・F-111E/F 爆撃機
・F-117 ナイトホーク攻撃機
・B-52 ストラトフォートレス戦略爆撃機
・F-4G ワイルド・ウィーゼル電子専用機
アメリカ海軍・海兵隊
・F-14 トムキャット戦闘機
・FA-18 ホーネット戦闘攻撃機
・A-6 イントルーダー攻撃機(+電子戦機)
・A-7 コルセアII攻撃機
・AV-8 ハリアーII戦闘機
日本空軍(+戦略空軍)
・西崎 78式戦闘機 紫電
・西崎 88式戦闘機 紫電改
・中島 83式戦闘攻撃機 疾風
・中島 76式攻撃機 嵐竜
・三菱 一五式戦略攻撃機 轟山
日本海軍
・三菱 77式艦上戦闘機 旋風
・愛知 三〇式艦上攻撃機 天狼
・AV-8 ハリアーII戦闘機
満州空軍
・F-15 イーグルDM
・西崎 78式殲機 紫電
・F-4 ファントムII
・A-10 サンダーボルトII攻撃機
他、イギリス空軍の「バナビア・トーネード」攻撃機、「ジャガー」攻撃機、フランス空軍の「ミラージュ2000」戦闘機、インド空軍の「西崎 78式戦闘機 紫電」が参加した。
サウジアラビア、クウェートの亡命部隊、他アラブ諸国は、第一撃目にはサウジアラビアが若干数参加したに止まっている。
また国境付近では、日米の戦闘ヘリが攻撃に参加して、近距離用のレーダーサイトを攻撃している。
1500機もの膨大な戦力、しかも西側陣営を中心に世界中の精鋭部隊の多くが参加している豪華絢爛、空前絶後と言える戦力だった。
最盛期のソ連空軍の欧州方面部隊でも太刀打ちすることが難しい戦力であり、イラク空軍に対抗できる戦力ではなかった。
それでも開戦から10日ほどは、イラク空軍も何度か出撃した。
しかし一方的な展開で負けるばかりなので、序盤以外は温存策を採った。
外交的にはかつての敵手だったイランを含めて全ての近隣諸国に、航空機の疎開の受け入れを求めたが、どの国にも断られた。
イランなどは、領空侵犯したら撃墜するとまで言って警戒態勢を高め、各国を慌てさせる一幕もあった。
そして初戦で絶対的優勢を獲得した多国籍軍の空軍及び海軍航空隊は、主にイラク軍の陣地を破壊した。
この破壊の段階になると、アメリカの「B-52」、日本の「轟山」が持ち前の搭載量を活かした攻撃を実施して、面でイラク軍陣地や地雷原を攻撃した。
また地雷原攻撃では、デイジーカッターなどと言われる超大型爆弾や、燃料気化爆弾も使用された。
最終的に多国籍空軍の攻撃は、出撃数15万ソーティー、投下弾量10万トンに達する事になる。
開戦当初の攻撃は、空爆だけではなかった。
海軍の空爆部隊としては、少し後方に持ち込めるだけの補給艦を従えた空母機動部隊の活躍を無視することはできない。
アメリカ海軍が6隻、日本海軍が3隻、イギリス海軍が1隻持ち込んだ大型空母は、空軍機に匹敵する固定翼機を運用できる事から、空軍と同等の活躍をした。
しかもカタパルト発進は、テレビカメラに対して見栄えが良いので、格好の宣伝材料となった。
そうした中で、海軍が最も重視した「宣伝攻撃」が、戦艦を用いた各種攻撃だった。
開戦のゼロアワーと共に、2隻並んだアメリカの戦艦から一斉発射されていくトマホーク巡航ミサイルの発射シーンは、発射が深夜だった事もあって迫力抜群で、何度も世界中のメディアに取り上げられたりもした。
そして最も激しい戦闘として取り上げられたのが、ペルシャ湾奥に進撃した日米の戦艦群と、イラク軍の地対艦ミサイルの戦いだった。
多国籍軍は、イラクがイラン・イラク戦争の末期からクウェート侵攻にかけて大量に買い込んだ地対艦ミサイルを、大きな脅威と認識していた。
装備していたのは、ソ連製とフランス製のミサイルで、それぞれテルミットとエグゾゼの名で有名だった。
しかし何発持っているのかが不明だった。
イラン・イラク戦争で多少使っているが、イランへの対抗から多数を買い込んでいたので、非常に多くの備蓄を有していると考えられていた。
最低でも120発、最大で300発以上。
500発以上という予測もあった。
これが温存され、そして多国籍軍がクウェート沖などに進撃した時に使われては大損害が予測された。
多国籍軍の予定では、クウェート沖での強襲揚陸部隊の陽動作戦とそれに先駆けた大規模な掃海作戦を予定していたので、何とかしなければいけなかった。
このためイラク軍に、多国籍軍の都合でミサイルを使わせてしまおうという野心的な作戦が立案される。
作戦と言っても、強固な防空能力を持つ囮艦隊を湾奥に進ませ、これらに集中攻撃をさせて地対艦ミサイルを消耗させようと言うのだ。
この作戦を多国籍軍に立案させたのは、イージスの盾を持つ艦船、しかも極めて強力な艦艇複数がペルシャ湾に展開していたからだ。
イージスの盾を持つ日米の艦艇から選抜されたのは、《大和》《武蔵》《ルイジアナ》の戦艦3隻と、巡洋艦クラスのイージス艦の中でも同時対応能力の高い垂直発射装置を装備する日米それぞれ1隻ずつの《バンカーヒル》《霧島》が選ばれた。
加えて、日米各2隻の汎用駆逐艦が随伴して、主に高速艇を警戒するべく脇を固めた。
同臨時艦隊のイージスシステムによる対空ミサイルでの同時対応迎撃数は110発。
一般的な仮想敵が一度にミサイルを発射することは不可能なので、最大で1000発の攻撃を受けても対応できると当時言われた戦力だった。
流石に1000発の迎撃は難しかったが、《大和》《武蔵》だけで最大540発までの攻撃に対処可能だった。
そして1000発迎撃が宣伝だったように、この当時は、イージスシステムの正確な迎撃能力はあまり世界には知られていなかった。
アメリカ、日本の切り札であり、十分に情報が出回っていなかったからでもあるし、故意に間違った情報も流されていたからだ。
情報の中には、故意に高い能力が公表されたりもして、プロパガンダとしての情報と見て取ることも十分に可能だった。
そして予測通りと言うべきか、当時のイラク軍もそこまで高くイージスシステムを評価していなかった。
また、イラクに派遣されていた軍事顧問のソ連軍人は、かつて自らが行った「オケアン演習」での飽和攻撃に十分な自信を持っていた。
このため「クウェート沖海戦」とも言われる戦いは、飽和攻撃という冷戦時代最強の矛と、それに打ち勝つため生み出されたイージスシステムという最強の盾の戦いとなった。
多国籍軍の戦艦部隊によるペルシャ湾最奥への進撃と、イラク軍の陣地攻撃の情報は故意にイラク側が掴めるように手配されていた。
気付いてもらわないと意味がないからだ。
だがあからさま過ぎてもいけないので、適度に妨害が行われた形でイラク軍にも伝わるようにされた。
またイラク軍が迎撃に出てくるように、戦艦部隊の後方では日米の海上強襲揚陸艦艇群が、開戦壁頭にクウェートへの強襲上陸作戦を敢行するかのような行動を取らせた。
洋上からの巡航ミサイルの攻撃も、半ば陽動だった。
さらに後方に展開する空母機動部隊も、ペルシャ湾に展開する日米4群全てが活発に活動した。
空母機動部隊の方は、どちらかと言えば開戦壁頭の航空総攻撃としての動きだったが、一部の欺瞞情報として強襲上陸の準備攻撃とも取れるように情報が流された。
そして沿岸部に展開するイラク軍に対して、フセイン大統領から直々の命令が下る。
「敵のクェート上陸もしくは攻撃を断固阻止せよ」と。
また、全世界にイラク軍が敵戦艦を撃沈する映像を流すようにも指示が下された。
日米の戦艦群などが進軍してくることに気付いたイラク軍は、ソ連軍事顧問の強い進言もあって、手持ちの戦力全てを用いた迎撃を決意する。
既にレーダーはほぼ真っ白もしくは破壊されつつあったが、この事だけでも制空権が自らに無いことを雄弁に知らしめた。
そしてそれを知ったイラク軍は、多国籍軍に何もかも空爆で破壊される前に、手持ちの戦力を使い切ってしまう事とした。
迎撃に成功すれば、劣勢な中にあっての大きな宣伝にもなるからだ。
このため、稼働状態にあった「Tu-22 ブラインダー」13機、「Su-24 フェンサー」16機の出撃を命令(※保有機数はもっと多いが、稼働機はこれが限界だった。)。
同時に、護衛として「Mig-23」が18機飛び立ってもいた。
二つの機体は、対艦攻撃能力が付与されており、イラン・イラク戦争でも「Su-24 」は攻撃に使われていた。
稼働機全てにあるだけの対艦ミサイルを搭載し、地対艦ミサイルと連携した攻撃を開始する。
ミサイル搭載数は、「Su-24」が各4発で64発。
「Tu-22」は、弾頭重量1トンの大型空対艦ミサイル1発の搭載なので9発となる。
地上配備の主な地対艦ミサイルはソ連製の「テルミット」。
正式名称は「P-15」。
これの主に改良型をイラクは大量購入していた。
フランス製の「エグゾセ」の方は航空機搭載型とミサイル艇搭載型で、この攻撃では4隻のミサイルボートが合計16発を発射している。
「テルミット」の方は、イラク陸軍の地対艦ミサイル大隊(48発装備)が3個大隊展開しており、これら部隊による全力発射を実施した。
一度に発射された対艦ミサイル数は合計233発。
多国籍軍の予測のほぼ真ん中あたりだった事になる。
しかしこの数字は、ソ連が行ったオケアン演習よりも大規模で、実戦で行われた対艦ミサイル攻撃としては史上空前の規模だった。
だがこれでも、イラク軍の最大想定よりは少なかった。
本来ならイラクに派遣されていたソ連空軍も参加して一斉攻撃を計画していたのだが、多国籍軍がいきなり突っ込んできた事と、イラク軍が急ぎ迎撃した事、ソ連軍が事態をやや楽観していた事などから、ソ連空軍の参加は行われなかった。
もしソ連空軍機が攻撃に加わっていれば、対艦ミサイルの同時発射数は300発を越えていただろう。





