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日米蜜月 〜戦後編〜  作者: 扶桑かつみ
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フェイズ129「1980年代の日本軍(7)」

 戦艦の運用は、日本の場合は1975年に一度完全に終了した。

 

 米ソも同時期に予備役なり退役に追いやっている。

 西欧諸国は保管すら止めて解体してしまった。

 その戦艦を、日本は1984年に大改装する事を決め、1985年から88年にかけて大規模な近代改装を実施する。

 そして日本海軍の行動は、軍拡の原則を誘発してしまう。

 

 敵もしくは他国が持っている兵器は自国も持たねばならない、という軍事上の基本ドクトリンだ。

 

 日本に続いてソ連が、錆びかけていた戦艦の現役復帰と大改装を決めると、アメリカも保管状態に置いている戦艦の近代改装と現役復帰を即座に決めた。

 アメリカにとっても「強いアメリカ」の表看板として、戦艦の現役復帰は望ましかった。

 

 そしてさらに、米ソでの戦艦復活に誘発された日本は、当初は2隻だけの予定だった戦艦の現役復帰を4隻へと拡大。

 当然ながら、米ソもさらに戦艦の復帰を決めた。

 さらに東側のドイツが、ソ連から補完状態の戦艦を譲渡され、ソ連の負担を肩代わりするように近代改装を開始した。

 

 俄に起きた戦艦の復活と大改装の開始のため、日米ソ独のそれぞれの国では、他の艦の建造や改装に影響が出たほどだった。

 ソ連では、戦艦並の規模の大型巡洋艦の建造予定が消えて、戦艦の近代改装費に充てられたりしている。

 


 各国の戦艦の近代改装の中で、日本の計画が最も大がかりだった。

 アメリカは、改装する戦艦数が他国より多い事と費用対効果を重視して、万が一の砲撃戦用と巡航ミサイルキャリアー程度にしか考えていなかった。

 ソ連は日本に対抗して大規模な改装を決定したが、50年代に建造した戦艦のほとんどが、機関の換装から始めないといけないほど劣化しているため改装に手間取った。

 そして手間と予算双方の制約のため、ソ連が目指した超巨大戦艦の近代改装と現役復帰は、遅れに遅れてしまう事になる。

 ソ連に近代改装を押しつけられた赤いドイツも同様だった。

 

 そうした中で、事前準備を周到に進めていた日本は、何をどうしてどう運用するかまで明確に決めていた事もあって、急ぎ大規模近代改装を開始した。

 


 日本での戦艦の近代改装で最も問題となったのは、大改装する工廠施設だった。

 

 改装に際して、上部構造物の改装は艤装岸壁で行えばいいが、船体はそうはいかない。

 一度海から引き揚げて船体を徹底的に点検し、そして古い部品の交換、劣化した装甲や外板の換装、なにより老朽化と劣化が進んでいる機関の完全交換を行うため、かなりの期間ドックに入れなければならなかった。

 

 同規模の艦を新造した方が早いし安いと言われたほどだが、すでに動きだした計画を変更することも無理なので、このまま進める事となった。

 

 しかも改装工事は徹底しており、新造した方が簡単だと言われたほどだ。

 思ったより劣化が進んでいた主砲の新造のため、各地に散っていた熟練技術者達が再び召集される一幕があったほどだ。

 また戦前から軍艦を建造していた民間施設のうち、現在に至るも艦艇を建造しているかつての大型艦用施設は川崎の神戸造船所ぐらいになっている。

 

(※横浜の磯子の活動開始は戦後になってから。)


 なお、この頃の艦艇の建造は、既に全て民間で行われるようになっていた。

 JMU、三菱、川崎などが、様々な艦艇を建造していた。

 このうちJMUが、海軍から一部建造施設を払い下げられた形の施設を使用していたし、ほとんど海軍工廠としての役割を果たしていた。

 海軍の手に残っていた海軍工廠は、基本的に整備、補修用だった。

 

 しかし80年代だと艦艇の改装の一部は、まだ海軍工廠の担当だった。

 大型艦の大規模な改装工事は、手間の割に儲けが少なかったためだ。

 

 そして佐世保は通常の保守、整備機能を強化しており、舞鶴は潜水艦に特化していたので、横須賀と呉が工廠としての改装能力を保持していた事になる。

 特に横須賀の小さな半島状になった場所を中心とした一帯は、海軍の「聖域」だった。

 呉の場合は近在の柱島が海軍全体にとっての中心であり、街に隣接する工廠は聖域では無くなっていた。

 

 そして当時、日本海軍関連で大型艦の大規模な近代改装できる施設は限られていた。

 10万トン級の空母も入れるように改造されていた横須賀の第六船渠が当てられる事になるが、1つだけでは足りなかった。

 日本海軍は自らが敷いた艦隊整備スケジュールを進めるため、ソ連との軍拡競争に負けないため、一度に2隻を近代改装しようと目論んでいたからだ。

 とはいえ佐世保の大型ドックは整備専用で、大規模な改装能力はない。

 

 となると呉しかなかった。

 

 かつての呉海軍工廠の第四船渠は《大和》の生まれ故郷だが、この時期には既に民間会社(JMU)所有となり、戦後の埋め立地拡大を含めた拡張工事のおかげで大型空母を中心に大型艦を専門に建造していた。

 アメリカのニューポート・ニューズと並んで、世界でたった二カ所の10万トン級空母が一貫建造できる施設だ。

 

 しかも呉の場合は、日本海軍がアメリカ海軍よりも予算規模が小さいため、大型空母の大規模近代改装を行う事もできた。

 加えてかつての呉は、戦艦専門の工場が多数存在していたが、その能力を保持したまま稼働している施設が多く存在した。

 


 そして原子力大型空母《翔鶴》と《瑞鶴》の建造の間の86年から87年の一時期にかけて、一気に船体関連の工事を進めることになる。

 《大和》の、かつての呉第四船渠に里帰りして大改装が開始されるのだ。

 

 《武蔵》の方は、横須賀が色々と調整に手間取った為、《大和》よりも約1年遅れで改装工事が開始される。

 そしてその後は、《信濃》《甲斐》も横須賀で改装工事する事になった。

 呉のドックが原子力空母《瑞鶴》の建造で長期間埋まるためだが、連続することで工員も慣れるし諸々を考えれば多少なりとも予算削減にもなると判断されたためでもあった。

 ただし長期間横須賀の大型ドックが埋まってしまったため、普段行っている空母の整備は佐世保が一手に引き受けなければならなくなる。

 そしてさらに佐世保の大型ドックを使っていた艦艇を、他のドックに回す事になり、という風にこの時期の海軍工廠はどこも満員御礼の状態になってしまう。

 

 もし多数の大型艦艇が戦闘で損害を受けたら、工廠の処理能力が追いつかないと危惧されたほどだった。

 このため「工作艦」の建造が真剣に議論されたりもしている。

 

 この頃の巨大戦艦群の大改装は、それほどの大事業だったのだ。

 


 《大和》の大改装は、まずは大型艦用の艤装桟橋で始まる。

 

 まだこの時点では、ドックで《翔鶴》が建造中のためでもあるが、少しでも工期を縮めると同時にドック入りに際して船体を軽くするためでもあった。

 

 艤装桟橋は《大和》新造以前からある大きな桟橋だが、戦艦が使うのは《大和》の第一次近代改装以来だった。

 その後は空母の改装で使う程度で、空母以外だと巡洋艦が使う程度だった。

 戦艦が使うのは久しぶりだった。

 

 なお、呉海軍工廠は鎮守府も兼ねているが、基本的に呉は艦艇が多数停泊するには少し狭く、海軍艦艇の多くは伝統的に柱島泊地に停泊している事が多い為、工廠としての向きがより強かった。

 隣接して艦船建造用、艦船用の鋼材を作る製鉄所があるほどだ。

 

 とにかく桟橋に接岸されると、反対側には大型クレーン船までが横付けして、次々に古くなった艤装を引き剥がしていった。

 3基ある巨大な主砲の取り外しはちょっとした見物で、多くの見物人が訪れたりもした。

 しかも艦橋構造物全てを一旦解体する徹底ぶりで、そのまま船体にも手をつけて装甲甲板をさらけ出すところまで工事を行っていった。

 

 全部キレイに引き剥がしたのは、新たに上部構造物の大半を作り直す為で、古い艦橋構造物はその後記念館にそのまま寄贈、展示されている。

 この艦橋の実物は、その後映画にも使用されるなどしている。

 また同時に、艦各所の居住区も全面変更となるので、この一部も丁寧に解体されて、同じように記念館に移築、展示されている。

 

 そして砲塔以外の上部構造物がほぼ引き剥がされた状態で、故郷のドックへと腰を据える。

 

 この段階でもまだ解体が続く。

 20センチもある分厚い防御甲板を引き剥がして、その下にあるボロボロになっていたタービンと主機を取り出すからだ。

 同時に船体各所の徹底した点検と、劣化した箇所の解体が行われる。

 

 そしてようやく改装開始だ。

 この時点で見せられたら、素人だとただの鉄の塊でしかなく、船とは分かっても戦艦だとは気付かないだろう。

 


 そしてその間に、呉工廠の一角で久しぶりに主砲の新造が行われていた。

 

 日本での主砲製造は、41cm砲までは日本鋼管の室蘭工場で行われていた。

 しかし46cm砲もしくはそれ以上となると、同工場では生産施設を新造しなければならないので、結局呉工廠内に施設を作ることになった。

 この時作られた施設では、最大で50口径51cm砲まで生産できるサイズとされた。

 しかし実際は、プレス機、旋盤機の能力から45口径51cm砲の生産までが限界だった。

 

 なお、《大和》およびそれ以後の日本の戦艦を作った大型工作機械は、意外にもナチス時代のドイツから輸入されている。

 輸入されたのは、巨大な旋盤機と1万5000トンのプレス機だ。

 この二つは、46cm砲を生産するために必要だった。

 

 だが1930年代半ばの頃、これほど規模の大きい二つの工作機械を製造できる国はドイツとアメリカしかなかった。

 そして最初はアメリカの企業に打診したが、新規に作らねばならない上に採算が取れないと断られる。

 

 次にドイツ企業との話しになるが、イデオロギーや対立もない時期だったのだが、こちらも最初はアメリカ同様にコスト面で折り合わなかった。

 しかしドイツ政府の方から、一つの条件が出される。

 決済の全てもしくはかなりの部分を純金とすれば、ドイツ政府が仲介して製造、販売するというものだ。

 

 第一次世界大戦での賠償金で、当時保有する全ての純金を賠償の一部としたドイツでは、戦後常に純金が不足していたが故の条件だった。

 そしてドイツが純金を求めたと言うことは、対外決済に純金が必要になる可能性が高まっていたことを物語っている。

 一方で当時の日本は純金ならそれなりに持っていたし、背に腹は代えられないのと、当時は今後大規模な世界大戦は起きないと思っていたので、ドイツ側の条件を受け入れて日本に当時世界最高性能の大型工作機械が輸入された。

 

 なお、この二つ(二種類)の大型機械は、プレス機は2008年まで使われ、旋盤機は今でも現役で稼働している。

 


 そして主砲だが、《大和》は50年代の近代改装で砲身を50口径に伸ばしていた。

 当然だが新造した。

 そして60年代後半から70年代前半にかけて、《大和型》の各艦はインドネシア戦争でたびたび艦砲射撃任務に従事していたので、最低でも激しい砲撃で摩耗していた砲身内筒の交換が必要となっていた。

 また、砲身以外の部品も老朽化や劣化が進んでいたこともあるし、できれば省力化もしたいので、思い切って他のパーツの交換に合わせる形で砲身の新造を決める。

 

 そしてどうせ新造するなら、さらに強力な砲を装備する事とされた。

 艦砲射撃任務ではより遠距離の射撃ができる方が好ましいし、ソ連が戦艦の近代改装と現役復帰に動いているという話しも漏れ伝わってきていたからだ。

 

 だが新造には制約もある。

 生産施設は50口径51cm砲の長さ、つまり25.5mまでの砲身しか製造できないのだ。

 このため初期案にあった60口径以上の砲身を生産するには、施設自体も改築するか新造しなければならない。

 また、この時代ならより優れたプレス機や旋盤もあるので、持っている工場に生産を委託する事も考えられた。

 

 だが、外部委託は職人、技術者がいないため無理で、流石に施設を新造する予算はなかったので、55口径砲で決着した。

 そしてさらに5口径伸びたことで、砲身長は25.3mとなった。

 


 一方で何よりも早く進んでいたのが、新型機関の製造と設置だった。

 

 何しろ船体内にエンジンを据えてしまわないと、装甲甲板をもとに戻せないので、上部構造物の改装どころではないからだ。

 

 そして機関もどうするかで、改装計画時に議論された。

 

 新たな機関に何を求めるのかが焦点だった。

 現在据えられている蒸気タービンは最初から除外された。

 整備と維持が大変だし、多くの機関員も必要だし、何より20万馬力級の蒸気タービンの通常動力型を作るのが既に難しくなっていた。

 もちろんだが、原子力タービンの採用については予備議論すらされていない。

 直接殴り合う事が前提の戦闘艦艇に原子力など正気の沙汰ではないからだ。

 

 基本的にはディーゼルかガスタービンを載せることになるが、どういう配分にするのかで揉めた。

 経済性を重視するならディーゼルを優先すべきで、通常航行をディーゼル、加速をガスタービンというのが最も多い派閥だった。

 

 全てディーゼルでも構わないという一派もいるにはいたが、少数派だった。

 逆にディーゼル+ガスタービンの対抗馬はオール・ガスタービン派だった。

 

 瞬発力や加速性、さらには即応性に優れているだけでなく、高い巡航速度で連続運転ができて、最も短期間で日本本土から地中海に行くことが可能だった。

 それに機関の種類を一つにした方が、省力化になり整備性も向上するしガスタービン自体が省力化に最も向いてもいる。

 燃費に関しては、そもそも戦艦を高速で動かすのだから、多少の燃費など気にならないとした。

 

 しかしオール・ガスタービンには問題もあった。

 

 満載7万トンを越える艦を、巡航20ノット、最高30ノットもしくはそれ以上で走らせるだけの機関を新たに開発しないといけないからだ。

 

 《大和》が30ノットを出すためには、最低でも20万馬力、できれば22万馬力が必要だった。

 しかも艦隊行動として30ノットで動く場合は、さらに余裕を見て最大で33ノット程度出る方が望ましい。

 仮に33ノットとなると30万馬力程度が必要になる。

 

 そして求められる性能を発揮するには、新型ガスタービンを開発しなければならなかった。

 


 このため一時はディーゼル+ガスタービンに決まりかけたが、兵器とは必要な時、必要な場所になければ意味がないという現場の意見が尊重され、オール・ガスタービン(COGOG)という当時としては先進的な大型機関の搭載に決着する。

 しかもこれほどの大型艦への採用となると希有な例であり、海外からも注目された。

 

 4つのスクリューで推進する4軸艦で、旧来の機関区画はボイラーとタービンを各12基ずつ搭載していた。

 しかし大改装に際して、区画は大幅に変更することになった。

 

 区画変更と吸気口と煙路(排気口。

 さらに整備口)の関係から大型のガスタービンは8基搭載できるので、1基当たり最低でも2万5000馬力、最大で4万馬力程度が欲しい。

 このうち2万5000馬力のものは既に国産で開発されていたので、最低限の条件はクリアしていた。

 しかし広い《大和》の機関部には十分な空間的余裕があるので、新たに出来る限り大きなガスタービンを開発する事になる。

 

 念のため他国の製品(ロールスロイス製かGE製)を物色したり調達可能な打診も行われたが、GEが専用に開発すると言ったもの以外で、《大和》に相応しいものはなかった。

 そしてそれなら国産という事になった。

 

 開発はIHIが全力を挙げて行い、86年には過負荷時で3万6000馬力を保障できる機関が開発された。

 これを8基搭載するので最大28万8000馬力となる。

 通常出力は3万2000馬力なので25万6000馬力となり、これが本当の性能上での数値とされた。

 より巨大な原子力空母が28万馬力なので、いかに出力が大きいかが分かるだろう。

 4万馬力のものが開発できたという説もあるが、これについては眉唾と考えざるを得ない。

 

 最高速力は31ノット。

 過負荷時は32ノット、海面状態がよければ33ノットも可能と言われた。

 しかし公表値は戦後の日本海軍の通例として「30ノット」とされ、機関出力も当初は24万馬力と性能より低い数字が公表された。

 

 またこれとは別に、かなりの規模の発電用ガスタービンも2基搭載されており、イージスシステム、電子機器、艦内空調などに必要となる豊富な電力供給が可能となっていた。

 またさらに、予備として小型のディーゼル発電機までもが搭載されている。

 


 なお、ガスタービン設置にはもう一つ問題があった。

 ガスタービン自身が、今まで搭載していたボイラーと蒸気タービンと比べて軽すぎた事だ。

 

 そして船体下部が軽すぎることは、船全体の重心バランス上で問題だったため、船底をバラスト代わりに強化する以外で、船体全体の修理や補修の際に、水密隔壁の大幅な強化が実施された。

 

 これは新造空母などにも用いられている、「鋼鉄の発泡スチロール」とも言われる構造を取り入れたもので、今までよりもさらに沈みにくくされた。

 またガスタービンは大食らいなので、空いた空間を活用して燃料積載量もかなり増やされた(※装甲配置や防御隔壁の関係で限界はあった。)。

 

 また、装甲換装で旧煙路部分の特徴的な装甲(蜂の巣型)の全廃など装甲の変更が行われた為、その浮いた部分の重量は防御甲板の真上に置かれるCIC(戦闘指揮所)の周囲を囲む装甲の重量に当てられた。

 

 本当はバイタル・パートに当たる分厚い防御甲板の下にCICを置きたかったが、様々な制約から無理だった事から来る代替案でもあった。

 

 しかし装甲で囲まれたCICというのは希な存在で、広い面積を持つCICと共に再生した《大和型》戦艦の特徴の一つともなっている。

 しかもこの区画の装甲には、核兵器対策として鉛が挟み込まれていると言われている。

 

 大型の船体を用いてはいたが、何事にも限界はあったという事例と言えるだろう。

 

 だが、大きな船体に施された艤装は破格のものとなった。

 

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