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日米蜜月 〜戦後編〜  作者: 扶桑かつみ


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41/70

フェイズ126「1980年代の日本軍(4)」

 1980年代の日本海軍は、日本政府の後押しを受ける形で装備の刷新と拡大が進んだ。

 

 日本政府が掲げた国防方針が「新八八艦隊」だった。

 

 「新八八艦隊」は1982年に中曽根内閣が提唱し、83年に計画は実働した。

 そして5カ年計画を二度行った1993年に第一次計画の完了を予定していた。

 

 なお、「新」というからには古い計画があり、前の「八八艦隊」は1920年頃に日本海軍が掲げた一大軍拡計画の総称で、「新八八艦隊」はその1980年代版になる。

 

 「新八八艦隊」の「八八」は中核となる艦艇の数を示している。

 最初の「八」は航空母艦を、次の「八」は新型の戦略原子力潜水艦を差している。

 しかし、大型の水上艦を差していると言われる事もある。

 

 そして「新八八艦隊」は、第二次世界大戦終了以後冷遇され続けてきたと考えてきた海軍にとって、ようやく忍従の時の終わりと考えられていた。

 


 「新八八艦隊」の航空母艦と戦略原子力潜水艦、そして大型水上艦だが、どれも大がかりな計画と予算が必要なため、十分な数を揃えるのが常に難しい兵器だった。

 

 特に「大型空母」(CVもしくはCVN)は、1隻で一国の空軍力に匹敵すると言われる洋上移動基地であり、空母と艦載機、さらには多数の護衛艦を全て揃える事は、アメリカ以外の国にとっては非常な重荷だった。

 イギリス、フランスも空母を保有していたが、基本的には限定した能力しかない。

 ソ連は多数の空母を保有したが、ついに日米海軍に匹敵する空母機動部隊は運用出来なかった。

 

 日本はアメリカ以外の希有な例外であり、日本海軍は潜水艦戦力の維持と平行して空母機動部隊の維持に非常に大きな努力を傾けた。

 空母と空母機動部隊は、日本海軍にとって全ての面で最も効果的な戦力だったからだ。

 

 そしてその空母だが、紆余曲折だった。

 


 空母、航空母艦は第二次世界大戦後の整理で12隻に縮小され、支那戦争後に冷戦時代の標準とされる大小8隻になる。

 さらに1975年の軍縮でさらに大型空母が1隻削減され、現役艦は大型4隻、小型4隻に再編される。

 

 また、1972年に原子力大型空母《鳳翔》が就役するまで、第二次世界大戦後は完全な新造空母は1隻も作られなかった。

 《鳳翔》以後も新規計画は流れてしまい、1983年の国防大綱で17年ぶりに新造艦の建造が決まる。

 

 それが原子力空母《翔鶴》だった。

 

 先に建造した《鳳翔》が満載排水量9万3000トン、全長335mだったが、基本的には《鳳翔》の改良発展型になる。

 

 そして《翔鶴》で、日本の大型空母とアメリカの攻撃空母には一つの違いが現れる。

 個艦装備の違いだ。

 

 空母の一番の武器は、搭載する各種艦載機になる。

 これはどのような用途の空母でも変わらない。

 しかし、空母を取り巻く各国の海軍の状態によって少し変化する。

 アメリカのように豊富な護衛艦艇を随伴させられる場合、もしくは空母自体の規模が小さい場合は、装備面で航空機の搭載以外は考慮しないような設計が多く見られる。

 これに対して、随伴できる護衛艦艇が少ない場合は、空母自らが一定以上の戦闘力(防空力)を持たせる場合がある。

 航空巡洋艦の発展系とも言えるイタリアの軽空母ジョゼッペ・ガリバルディなどが典型的だろう。

 フランス海軍が長らく主力空母としていた《ガスコーニュ》もそうだし、ソ連海軍の空母も重武装で知られている。

 

 日本海軍では、1970年代の軍縮で護衛艦艇の大幅な削減が決定された事を受けて、83年に新造が決まった大型空母にも一定程度の戦闘力、というよりも防空能力の付与が決まる。

 

 通常は多少の対空砲もしくは中距離対空ミサイル(※80年代からは近接防空火器を追加)程度しか搭載しないものだが、《翔鶴》もしくは《翔鶴型》は防空駆逐艦並の対空能力が付与されている。

 このため艦の規模がアメリカの攻撃空母並なのに、搭載機数が少なくなったと言われた。

 しかし搭載機数については間違いで、日本海軍がアメリカ海軍より予算が少なくて艦載機を増やせないのと、日本海軍の方針として艦載機を可能な限り艦内(格納庫)に搭載する為だ。

 

 《翔鶴》は、満載排水量9万8000トン、全長341m。

 艦載機は通常で約70〜75機、過積載で約90機以上搭載できる。

 露天搭載を限界まですれば、100機の搭載も可能とされていた。

 

 基本レイアウトや装備がアメリカの攻撃空母と似ているのは、収斂進化の結果でもあるが相互に有償で情報と技術を交換している為で、日米互いに調達時のコスト削減に貢献している。

 

 搭載されている原子力機関は国産で、アメリカ以外では日本だけが製造できる艦艇搭載用の大型原子炉タービンを2基搭載している。

 電子機器の一部とカタパルトはアメリカ製のライセンス製になるが、この頃には特許などの関係でライセンス生産しているだけで、自力生産しているに等しかった。

 エレベーターは舷側部に3基。

 当時のアメリカ海軍ほど艦載機を搭載しない為、3基で十分と判断されていたためで、この時期の日本の大型空母の特徴の一つとなっている。

 (※アメリカの《ニミッツ級》などは4基が基本。)


 そしてアメリカの空母との一番の違いは高い防空能力だ。

 しかも建造時期がちょうど良かった事もあり、「イージス・システム」を採用する事ができた。

 

 イージス・システムは今までとは次元の違う高度なレーダーシステムだが、場所をとるため小型の艦艇への搭載は難しかった。

 空母も船体は大きいが艦橋が小さいので、当初は無理だろうと言われた。

 しかし大型空母の艦橋は、船体に対して小さいだけで意外に大きい。

 それでもサイズを大きくしなければいけないし、艦内の一部を割いてシステムの区画を多めに取らなければならなかった。

 だが、大型空母という世界最大級の船体から見れば、十分に許容範囲内だった。

 一番の問題は、強いレーダー波を出すため甲板要員に悪影響が出る可能性だったと言われる。

 また水上艦ほど場所はとれないため、システムは大きく二カ所に分散しているのは、損傷時の戦闘継続能力の面で問題ではあった。

 

 加えて艦上に場所をとる事もできないので、ミサイルの誘導装置イルミネーターも2基と少な目にしか搭載できていない。

 もっとも空母自身の防空能力はあくまで補助的であり、搭載している長距離艦対空ミサイル(SAM)の発射システムも、二カ所に8×4発分の垂直発射装置(VLS)で防空艦に比べて控え目である。

 それでも防空能力は、イージス駆逐艦もしくはイージスフリゲート程度と高かった。

 何よりイージス・システムを搭載する事で、非常に高度な捜索、探知能力を獲得している。

 また他艦とリンクする事で、イージスシステムの恩恵を与える事もできた。

 艦自体の指揮機能も高いため、その気になれば防空調整艦として運用することも出来た。

 

 また、搭載される垂直発射装置は多目的に使用可能で、就役頃で長距離対空ミサイル、中距離対空ミサイルが搭載できた。

 その後は、対潜アスロック、対艦ミサイル、さらには巡航ミサイルも搭載できるようになっているが、本型では対空ミサイル以外の搭載は確認されていない。

 

 垂直発射装置(VLS)はアメリカの「Mk-41」ではなく、日本のほぼ独自開発の「84式垂直発射装置」になる。

 「ほぼ」というのは、アメリカとミサイルの共通化が図られていた為に規格が統一されていたのと、一部で同じ部品を共有しているためだった。

 また日本海軍は、アメリカ海軍よりもVLSの開発を古くから行っており、初期型はソ連海軍の数年遅れで実用化されている。

 当初は不具合、不備もあったが、その後改善と改良が続けられ、「Mk-41」とほぼ同じ性能を持つ「84式」は開発も装備開始もアメリカ海軍より数年早い。

 

 《翔鶴》は「新八八艦隊」の目玉として1982年に予算承認され、83年建造開始、88年に就役した。

 さらに2番艦《瑞鶴》は、ちょうど5年ずれたスケジュールで建造が進められ、93年に就役している。

 この2隻は《白龍》《蒼龍》《飛龍》の完全な旧式化が迫っていた為建造が急がれ、本当はさらに5年以内に3番艦が続けて就役予定だった。

 だが《瑞鶴》建造中に東西冷戦が終了して情勢が大きく変化したため、その後の建造は大きく後ろにずらされている。

 

 1988年の《翔鶴》就役までは当時最も旧式の《白龍》が現役で頑張っており、本来なら《翔鶴》の戦力化と共に退役予定だった。

 だが、冷戦下での軍拡競争の影響を受けて数年間の現役続行が認められ、一時期変則的に5隻体制になっている。

 そして「湾岸戦争」が終わり世界情勢が落ち着くのを待って、再び4隻体制に戻っている。

 

 なお《鳳翔》も、原子炉の炉心交換の際に大規模な近代改装が施され、《翔鶴》に準じた個艦戦闘力の強化が行われており、イージスシステムを搭載した空母に強化されている。

 

 また、1950年代後半に就役した《蒼龍》《飛龍》のうちの《飛龍》が、《瑞鶴》就役までの延命処置としての近代改装が行われているが、航空機運用能力が一部限られている事もあって個艦装備の大幅な強化は行っていない。

 


 「支援空母」は、日本の空母のもう一つの戦力になる。

 

 アメリカ、ソ連以外だと十分に艦隊主力となる中型空母で、1970年代までは有力な固定翼機を搭載していたので、ソ連の空母とほぼ同等の戦力価値があるとすら言われていた。

 

 しかし、75年の軍縮で大きく変化する。

 支援空母の保有こそ続行が認められたが、役割が大きく変化した。

 日本軍全体の軍縮の影響だけでなく、ソ連海軍の状況に対応するためだった。

 と言うのも、ソ連海軍が劣勢を覆せない空母と水上艦艇に見切りを付けて、潜水艦の大増勢を計った為だ。

 

 ソ連海軍にとって太平洋方面で唯一と言えるカムチャッカ半島の潜水艦基地にも、欧州から続々と潜水艦が回航され、基地機能も大幅に強化された。

 

 今までの戦略潜水艦、戦略原子力潜水艦だけでなく、攻撃型潜水艦、攻撃型原子力潜水艦、巡航ミサイル搭載原子力潜水艦も数多く配備されるようになる。

 このため日本本土近海での潜水艦の脅威が急速に高まり、対潜水艦戦力の大幅な増強が必要になった。

 海軍は、対潜哨戒機部隊、対潜能力の高い艦艇の整備、各艦の対潜ヘリの増勢に力を入れる。

 その一環として、支援空母の対潜能力の強化が盛り込まれた。

 

 既存の各支援空母は順次近代改装に入り、さらには旧式化していた艦の代替艦建造が70年代後半から始まる。

 

 70年代までは《瑞鶴》《天城》《葛城》のかつての正規空母が充てられていたが、艦齢30年を越えると流石に旧式化が明らかだった。

 さらに大規模な近代改装をしても限界があった。

 それでもインドネシア戦争には必要なため、70年代前半までそのまま使われた。

 

 だが75年に軍の編成が大きく変わったのを受けて、限定的な近代化が決まる。

 そして、大型化が進む固定翼機に対して中途半端となっていたカタパルト、着艦装置アレスティングワイヤーなどを撤去する簡易改装を実施して、ヘリもしくは垂直離着陸機専用の空母とした。

 甲板を耐熱強化していたが、甲板耐用年数は10年程度のものしか施していなかった。

 

 また、この時の簡易改装では行われなかったが、80年代の小規模改装の際に飛行甲板前部の傾斜も設けられ、効率的な垂直離着陸機運用能力も付与されている。

 ただし《瑞鶴》には、この改装は行われなかった。

 固定翼機運用可能な状態のままインドへの売却が決まっていたのと、より低予算と省力化で同じ運用できる事を大前提とした代替艦の建造が認められたからだ。

 

 そうして建造されたのが《白根型》支援空母になる。

 

 軍縮では大型空母1隻が削減されたので、支援空母を1隻増やしても建造費で見ると大きな予算削減だった。

 しかも新造艦は、旧式艦と比べて格段に乗組員が少なくローコストだった。

 

 そして81年に《白根》、82年に《鞍馬》が相次いで就役している。

 

 《白根型》は満載排水量が3万トン以下で、満載排水量が4万トン近い旧式の《天城》《葛城》と比べると軽かった。

 また、機関をディーゼルとガスタービンとしたことで、機関員も大幅に省力化されている。

 艦載機の変更で、航空要員も大きく減った。

 艦の大きさは全長約240mとあまり変わらないが、格納庫面積は減っている。

 搭載予定数(通常20機・最大過積載時30機)が減った影響もあるが、対潜調整艦として空母以外の要素も艦艇に求めた結果だった。

 このため一種の航空巡洋艦と言えなくもない。

 

 船体下の前部には高性能ソナーが装備され、対潜アスロックも発射装置ごと搭載された。

 他にも、垂直発射装置(VLS)には中距離対空ミサイルが搭載されている。

 初期計画では、対艦ミサイルや5インチ砲もしくは8インチ砲の搭載案も存在していた。

 流石に(器用貧乏が)行き過ぎていることが分かったので搭載はされなかったが、3インチ速射砲と対潜用の3連装短魚雷は搭載されている。

 

 なお、《白根》の命名には一悶着あった。

 時の兵部大臣が艦の命名の時に、既に内定していた名前ではなく自らの故郷の近くにある地名を名付けてしまったのだ。

 本来予定されていた艦名は明らかにされていないが、第二次世界大戦頃に運用された武勲艦の名を引き継ぐ予定だったのではと言われている。

 

 なお、支援空母など全廃して、大型空母をもう1隻保有した方がよかったとする研究も少なくない。

 だが当時の日本では、一度に複数の大型空母を建造する能力が無かったし、ソ連海軍の潜水艦の脅威の前に「駒」が多いに越したことがない状態だったので、妥当な判断だったと考えられる事の方が多い。

 実際問題、70年代後半から80年代のソ連軍潜水艦をうまく抑えることができた。

 

 そして88年の整備計画では《天城》《葛城》の代替艦として《白根型》の改良型の建造が決まり、90年の時点では船体の建造が進んでいる段階だった。

 


 次に、もう一つの「八」に当たる戦略原子力潜水艦(SSBN)を見ていきたい。

 

 日本海軍でのいわゆる戦略原子力潜水艦(SSBN)は、1966年にようやく《薩摩》を保有する事で始まる。

 それ以前は、潜水艦発射型弾道弾と水中発射システムの開発に難航した事もあり、長射程巡航ミサイル搭載型潜水艦が戦略原子力潜水艦の主力だった。

 

 かつての戦艦の名前を定めた点に、日本海軍のみならず日本の期待の高さが見て取れる。

 

 《薩摩型》SSBNは改良型を含めて都合12隻建造され、日本の核戦力の中核として大きな存在感を示した。

 しかし莫大な建造費と維持費がかかるため、もっと効率の良い核軍備が求められた。

 だが、日本の国土と環境を考えると弾道弾の地上配備は避けねばならず、SSBNの改良が強く言われた。

 

 そうした中で新たな弾道弾の研究と開発が熱心に行われ、米ソに追随する形で弾道弾の長射程化、命中率の大幅な向上、そして多弾頭弾の開発に成功する。

 この為の予算は莫大で、70年代半ばの軍縮の原因の一つになったほどだった。

 このため自力開発を諦めて、アメリカから技術導入か購入すれば良かったと言われる事もある。

 

 《薩摩型》SSBNは、水中排水量7000トン級の船体に12発のMIRV(多弾頭弾)型SLBM(潜水艦発射型弾道弾)を搭載していた。

 だが初期の頃は、射程が2000海里程度のため日本近海からソ連中枢部を攻撃する能力は無かった。

 このため北大西洋か北極海に展開する必要性があった。

 このためSLBMは補助戦力で、シベリア各地の攻撃用でしかなかった。

 60年代のうちは日本の遠距離核攻撃の主力は、大陸間弾道弾と重爆撃機(戦略爆撃機)が担っていた。

 弾頭数も、ダントツで戦略空軍が保有していた。

 


 しかし地上の固定基地に設置された大陸間弾道弾は、配備基地が暴露されているも同然なので危険が大きく、多数の重爆撃機の運用には莫大な予算が必要な為、75年の軍縮で大きな改変が決定する。

 移動型弾道弾の開発も研究されたが、開発費をかける前に研究段階で中止され、潜水艦に予算を傾注する事になる。

 

 その決定を受けて長い射程距離を持つ新型SLBMが開発され、さらに《薩摩型》SSBNが追加整備された。

 それでも米ソのように無数に建造されたわけではないが、ソ連のような無茶な数の軍備を揃えなかったのは英断と言えるだろう。

 

 そして70年代半ば以降になると、さらに弾道弾の開発が進んでいた事もあり、次世代型SSBNの開発が持ち上がる。

 80年代前半には新型弾道弾が実用化の予定だったので、合わせて新型のSSBN建造が決まる。

 

 それが《長門型》戦略型原子力潜水艦(SSBN)だった。

 

 《長門型》の特徴は、とにかく大きいことだった。

 

 より長い射程距離と高い命中精度を持ち、より多くの弾頭を搭載できる新型の「85式潜水艦発射型多弾頭弾道弾」(対外向け:Type-85 SLBM。

 愛称はなし)は、従来の弾道弾に比べて大型だった。

 大陸間弾道弾に匹敵する射程距離と大きな搭載量を持つのだから当然だった。

 

 このため従来の規模の潜水艦では搭載不可能なので、搭載できるだけの規模の大型潜水艦の開発が行われた。

 同じ事はアメリカ(+イギリス)、ソ連も同様で、俄に巨大潜水艦の建造競争が始まる。

 

 そしてどうせ大型化するのなら、より多数を搭載して保有隻数を減らすことが決められる。

 《薩摩型》は12発搭載だが、新型は18発にしようとした。

 これならば同じ弾道弾数を8隻で賄えるからだ。

 しかし稼働隻数まで考慮すると8隻では抑止力として低下してしまうため、1隻当たりの搭載数は20発となり、弾道弾数自体は増加することになる。

 

 なお同世代のSSBMは、アメリカの《オハイオ級》は同程度の弾道弾トライデントを24発も搭載し、イギリスの《ヴァンガード級》は同じ弾道弾を16発、ソ連の《タイフーン級》はより大型の弾道弾を20発搭載した。

 

 日本の新型は《長門型》と命名され、かつての武勲艦の名前が多く採用されていった。

 《長門》《陸奥》《伊勢》《日向》《扶桑》《山城》《赤城》《加賀》。

 前6隻はかつては戦艦、後ろ2隻は空母から名前を引き継いだ形だが、《赤城》《加賀》も建造途中までは戦艦として計画されていたので、この計画において「主力艦」としての本懐を遂げさせたと言えるのだろう。

 他の戦艦の艦名も、先代で使わなかったのは時期を合わせて揃えたかったからなのは間違いないだろう。

 

 大きさは全長156m、最大幅18.1m、喫水11m、そして排水量は水上で1万5800トン、水中で1万7600トンもの巨体となった。

 まさに潜水艦の戦艦といえる大きさであり、かつての主力艦の名前こそが相応しいと言える。

 大きさはアメリカの《オハイオ級》に匹敵するが、船体の断面は横長でソ連の《タイフーン級》に似ていた。

 それもその筈で、《長門型》は《タイフーン級》同様に船殻を横に2つ持つ並べた複殻式だからだ。

 これは日本にとっては《伊400型》以来、大型潜水艦に使ってきた技術なので、技術的には馴染みのあるものだった。

 同じ複殻式でもソ連の潜水艦より軽いのは、若干サイズが小さいのと船体構造が軽く合理的に作られている為だ。

 北極の分厚い氷を割らなくてよいからだという説もあるが、日本海軍は技術蓄積の差だと否定している。

 また《タイフーン級》ほど無茶な設計でもないし運用効率も高かったので、建造と長期運用も何とかできた。

 なお、ソ連の潜水艦のように艦橋の前に発射サイロを並べたりせずに、他の潜水艦と同じく艦橋の後ろに弾道弾サイロがずらりと並んでいるのも《タイフーン級》との違いだ。

 

 搭載装備は20発の「85式」以外に、4門の魚雷発射管がいちおうは搭載されていたが、巨体故の鈍重さのためほとんど気休めの装備でしかない。

 SSNの護衛を必ず必要としており、そう言う点でも主力艦らしいと言えるかもしれない。

 

 1985年から就役を開始して、毎年1隻のペースで建造が進んだため8隻全てが揃ったのは1992年で、そこで《薩摩型》はようやく予定数が全艦退役している。

 

 《長門型》の整備が終わった時点で、常時5隻を洋上に展開する事で100発のSLBMと800発の弾頭が発射できるので、十分な抑止力と考えられていた。

 


 また80年代は、初期の巡航ミサイル搭載型の戦略潜水艦がまだ存在してた時期でもある。

 それでも75年の軍縮ですべて予備役編入が決定され、88年の時点では全艦退役していたが、世界初の原子力潜水艦《千早(旧:伊401)》が退役したのも1980年だった。

 

 原子力潜水艦は、50年代は3年に1隻程度、60年代から本格的な量産が始まるが、建造費の関係で巡航ミサイル(SLCM)搭載型の戦略潜水艦は建造費の関係で通常型の方が多かった。

 主に《千早》の通常型の改良発展型で、一時期10隻が在籍していた。

 しかしSLBM搭載型の登場で本来の任務から外れ、80年代に生き残っていた艦も巡航ミサイル搭載区画を特殊部隊搭載などに当て、主に特殊任務に従事していた。

 中には艦載機複数を搭載できる大規模な改装を行い、「潜水空母」として運用できるかの試験が行われた。

 いまだ情報解除されていないが、この場合「ハリアーII」戦闘機を2〜4機搭載できたと言われる。

 もしくはヘリコプターを搭載して、特殊部隊用に運用したとも言われている。

 しかし結局試験止まりで、少なくとも表向きは実用化はされていない。

 (※今だに情報が十分公開されていない。)


 ひき続いて攻撃型潜水艦を見ていきたい。

 

 大型の水上艦が空母、戦略原潜に次いで海軍の主力艦艇と思われがちだが、洋上戦闘で本当の主力艦艇は攻撃型潜水艦になる。

 特に艦隊随伴ができて遠距離に赴くことが可能な攻撃型原子力潜水艦(SSN)は、アメリカや日本のように日常的に世界各地に艦隊を派遣する国にとって必要不可欠な重要戦力だった。

 

 日本の潜水艦は、基本的に遠隔地に展開することを重視している。

 第二次世界大戦後はさらに極端になり、ヨーロッパもしくは北極方面の戦力展開が重視されていた。

 

 一方で日本近海には、カムチャッカ半島のヴィリュチンスクにソ連海軍の一大潜水艦基地が存在したが、日本とアメリカ西海岸を攻撃する戦略原子力潜水艦と巡航ミサイル搭載型原子力潜水艦の母港だった。

 そこに配備された攻撃型原子力潜水艦は、日米の艦船の攻撃よりも護衛の役割が強かった。

 

 北太平洋方面の日米海軍にとって、ペトロバフロフスクカムチャッカスキーと同じ湾内にあるヴィリュチンスク基地を監視するのが北太平洋上での主な任務の一つだった。

 日本軍は、人工衛星、哨戒機、偵察機、そして潜水艦で監視、追跡する任務を日常化していた。

 

 潜水艦のうち、待ち伏せや低速での追跡に向いているのは通常型潜水艦だった。

 静粛性が高く、見つけるのが非常に困難だからだ。

 原子力潜水艦は海中に潜りっぱなしでもいいし、通常型が不可能な高速発揮が可能だが、動力となる原子炉の駆動音が大きいし止めることも出来ないため、静粛性、隠密性という点ではどうしても通常型にはかなわなかった。

 このため日本海軍では、1970年代半ばまで一定数の通常型潜水艦の建造を続けていた。

 

 しかし75年の軍縮の際の戦力査定で、原子力潜水艦一本に絞られることになった。

 またこの頃になると、原子力潜水艦の静粛性も大幅な向上が見られるようになっていたので、一本化が可能と判断された。

 

 このため1990年時点での日本の通常型潜水艦は、1973年に計画され78年に就役したのを最後に建造されていない。

 そして2年に1隻新造し、艦齢20年程度が延命しない場合の現役維持の限界とされている。

 しかし1990年の時点では耐用年数は多少無理して、展開ローテーションのため6隻体制を維持していた。

 加えてその後の為に、さらに2隻が保管艦で保存されてもいた。

 1990年頃は、再び通常型を建造する声も高まっていた。

 

 この頃の通常型は、水中排水量2500トンから3000トン程度。

 諸外国が保有する通常型よりも大型で性能も高い。

 日本海軍を退役した艦の多くは他国に払い下げられ、80年代だと活動している艦も多かった。

 


 初期の頃の日本海軍の攻撃型原子力潜水艦は、米ソに比べると数の上では少なかった。

 建造数を揃えるのもアメリカより少し遅れる形になった。

 これは日本の予算不足と、日本軍が巡航ミサイル(SLCM)搭載型戦略原子力潜水艦の整備に力を入れていたためでもある。

 

 それでも1964年に最初の攻撃型原子力潜水艦(SSN)《瑞穂》が就役。

 その後、年1〜2隻のペースで整備が行われた。

 ただし75年の軍縮時には、1年だけだが建造が中断されている。

 それだけ原潜が高価だからだ。

 

 そして再開以後は、通常型の削減を受けて年2隻のペースでの建造が続いた。

 就役までには予算承認から5年ほど必要なので、91年までの計画で40隻以上の整備が予定されていた。

 

 75年の軍縮で一旦は32隻体制に縮小されたのだが、量産が開始された世代以後の原子力潜水艦は全て現役のため、83年の軍拡で40隻体制へと変更になっている。

 

 《瑞穂型》は第一世代、《高千穂型》は第二世代、そして《吾妻型》が第三世代で軍拡時期の計画承認になる。

 

 水中排水量は《瑞穂型》が4100トン、《高千穂型》は4600トン、《吾妻型》は6800トンと一気に大きくなっている。

 基本武装は魚雷だが、《吾妻型》は船体の大型化に伴って垂直発射型の発射管を設けてそこにSLCM(巡航ミサイル)を搭載するようになっている。

 《吾妻型》の兵装は魚雷発射管4門、魚雷もしくは爆雷16発、SLCM垂直発射装置4連装4基16発。

 垂直発射装置は戦略原潜と同様にブリッジの後部にあり、左右交互に開く水密サイロに発射装置を統合したサイロが設置されている。

 このため、限定的ながら中距離用の戦略原潜的な運用も可能だった。

 

 その他性能の大幅な向上もあって、《吾妻型》でアメリカの《ロサンゼルス級》の後期型に匹敵すると言われる性能にまで達していた。

 そしてアメリカよりも先にVLSを搭載した点に、日本海軍が潜水艦をどのように運用したいかが見て取ることができる。

 


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