フェイズ98-1「支那戦争(2)」
1950年も年の瀬、支那戦争が始まってから約半年が経過した。
アメリカ、日本(+満州)は第二次世界大戦後に解体した軍隊の多くを慌てて再動員し、その多くを中華北部の内陸部へと注ぎ込んだ。
そして主要戦勝国である日米両国の軍事力は、ようやく本領を発揮できるようになった。
「クリスマスまでに戦争が終わる」とされた国連軍の「スレッジ・ハンマー作戦」に対して、人民解放軍も果敢に反撃した。
しかし、国連軍の原爆使用を警戒して兵力集中ができないにも関わらず、国連軍が包囲戦のため兵力を集中している場所を攻撃しなければならず、しかも国連軍も包囲の外からの反撃はゲリラ戦も含めて折り込み済みで十分に対策を立てていた。
加えて人民解放軍には、そもそも国連軍の包囲を破るだけの機甲戦力、機動戦力、火力に欠けていた。
開戦当初は圧倒的だった戦車戦も、日米が本気を出してからはもはや話しにもならなかった。
日米の重戦車は、ソ連が供与した歩兵用の簡易ロケットランチャーでは余程近づかなければ撃破できず、スカートなどロケットランチャー対策も取っていた。
しかも、戦車以外の装甲車や重武装の歩兵に守られているため、近寄ることは自殺に等しかった。
このため地雷ぐらいしか止める手段が無かったのだが、その地雷も殆ど無かった。
事実上の自殺攻撃も行われたが、すぐにも歩兵の支援が分厚くされたため、初期の頃に少し成功しただけに終わった。
人民解放軍は、裏から支援しているソ連に最新鋭と言わないまでも強力な戦車の供与を再三求めたが、アメリカとの全面戦争を警戒して過度の介入を嫌ったソ連指導部が首を縦に振ることはなかった。
しかしソ連も、東側陣営の盟主として同盟国に何も支援しないわけにもいかないので支援が実施されたが、すぐに効果を発揮するわけではなかった。
また、別の支援準備も進めていたのだが、まだ時期が到来していないとして、東トルキスタンやモンゴルなどで留め置かれていた。
当然、人民解放軍の反撃はうまくはいかず、仕方なく兵力を集中して局所的に国連軍を押しつぶして攻勢をとん挫させようとする。
地下要塞陣地に籠もる以外だと、敵の予測を上回る飽和攻撃以外に勝機が無くなったからだ。
当然ながらアメリカ軍の原爆攻撃を覚悟しなければならないが、ギリギリまで分散して進んでから一気に敵と戦線を混ざり合ってしまえば、原爆投下は阻止できると考えられた、と言われている。
実際そのように、人民解放軍は大規模な攻勢を実施した。
またこの反撃では、初めて赤い星を付けたソ連製の「Mig-15」ジェット戦闘機が、国連軍の「B-29」や「連山改」に牙をむく。
人民空軍の建設は建国前から開始され、ソ連からのジェット機の供与は戦争開始すぐにはじまったのだが、ソフト(パイロット、整備兵など)面でようやく実戦投入可能となったものだった。
ジェット戦闘機の前に旧式の重爆撃機は脆く、また初期は人民解放軍のジェット機投入を予測できなかったため、かなりの損害を出すことになる。
特に奥地の爆撃では護衛の戦闘機が付けられないため、西安や蘭州などへの爆撃では被害が多発した。
この時の被害を教訓として「B-36 ピースキーパー」には、腹に小型のジェット機を抱えて戦場で切り離して空中戦を行い、そして戦闘後に収容するというシステムが考案されたりもしている。
(※恐ろしい事に機体の試作と運用試験まで実施された。)
ただし低空では、当時のジェット戦闘機では性能が大きく低下してしまい、攻撃側も重爆撃機と戦闘爆撃機が連携して行動している場合が多かった。
このため、3000馬力級レシプロエンジンへ換装した「連山改」は、その脅威の高さにも関わらず低空を高速で飛ぶため多くの場合無視されていた。
このため黄河地域用の黄色い低空迷彩を施した「連山改」は、チャイナ奥地の空でも恐れられた。
また日本海軍生まれの「流星」も、アメリカの「A-1H」を参考に大幅に改良されたタイプ(流星改)が、この戦争ではガンポッドやロケットランチャーを装備して地上攻撃機として活躍していた。
またアメリカ軍も大戦中から実戦投入し、そしてさらに発展した各種ジェット機があった。
特に、最新鋭の「F-86 セイバー」は、「Mig-15」と同等かそれ以上の性能があった。
しかもパイロットの熟練度が全然違っている事もあって、対戦闘機戦闘では一方的戦果を挙げることができた。
「F-86 セイバー」は、戦争終盤に開発が始まり、日本からの技術支援(主に後退翼のデータ)とドイツ人亡命者から得た技術情報を元に完成させた機体で、結果として高性能な機体に仕上がった。
ジェット戦闘機を支那戦争に投入したのは日本軍も同様で、戦略空軍は海軍と共同開発した三菱の「九式艦上戦闘機 閃光」(海軍型「閃風」)を、防空空軍は中島の「十式戦闘機 狗鷲」を競うように投入した。
満州帝国空軍もソ連国境のマンチュウリ方面から精鋭部隊を引き抜き、急ぎコンペを行って採用された日本の川崎製の「五〇式殲機 飛狐」を中華中原に持ち込んだ。
どれも大きな後退翼を持った、「F-86 」「Mig-15」に匹敵する新時代のジェット戦闘機だった。
そして国連軍が大量にジェット戦闘機を投入してきたため、ソ連も供与を大幅に増やさざるを得ず、そうなると人民空軍のパイロットが全く足りなくなる。
そしてソ連自らも実戦の教訓を得るため、多くの義勇パイロットが主に前線の後方だったが多く戦列に参加している。
またこの義勇パイロットの中には、ソ連に強制労働をさせられていた元ドイツ軍人の姿もあったと言われており、事実数十人が従軍していたことが後に判明している。
だがその頃になると、国連軍の空軍部隊が十分な体制を整えており、質量に劣る人民空軍の劣勢が覆ることはなかった。
しかも国連軍は、中級指揮官以上は第二次世界大戦を経験した者が少なくなく、実戦経験が初めての敵に対して優れた指揮能力を見せた。
ベテランは前線パイロットにまでその姿があり、日本軍だと笹井諄一(当時大佐)、菅野直(当時少佐)、岩本徹三(当時大尉)、西沢広義(当時大尉)など前大戦で活躍した撃墜王の姿も数多く見られた。
こうしたベテランの中には、第二次世界大戦後初の撃墜王の座まで獲得する者もいた。
だが、国連軍空軍機の活躍は実は予想外の事で、世界の同業者や専門家、さらには当人達も困惑させた。
当時のジェット機開発は、大戦中にジェット機先進国だったドイツをほぼ完全占領したソ連・共産主義陣営が圧倒的優位にあると考えられていた。
実際ソ連は、戦争が終了したその年内に、早くもドイツの技術を用いた先進的な姿を持つ戦闘機を開発していた。
同時期のアメリカは、日本からの技術輸入で、ようやく後退翼を持ったジェット機の開発が行われていた段階だ。
しかし戦後の戦闘機は、第二次世界大戦中と違って、それほど大量に生産できる兵器(機械・工業製品)ではなくなっていた。
高性能化で生産に高い技術が要求されるようになったため、基礎工業と先端産業全般に優れている自由主義陣営、特にアメリカの方が優位だったのだ。
特にエンジン開発では、遂にソ連はアメリカに追いつくことは出来なかった。
(※世界中でも日本が辛うじて追随できる程度だ。)
また西側陣営は、ジェット機開発では自らが不利だと考えていた為、大戦が終わってから支那戦争の時期は、特にジェット戦闘機開発に力を入れていた事も格差を逆転させた大きな要因になっていた。
未知のジェット戦闘機「Mig-15」(※旧ドイツ軍ジェット戦闘機のコピーに近い機体。)は、実戦で姿を見せるまで西側陣営の恐怖の象徴ですらあった。
加えてアメリカなどは、ドイツの技術を全く奪えなかったわけではなかった。
各種実機をほぼ無傷で得ているし、大戦中フランス本国の航空機生産のかなりを担っていたハインケル社などは、アルザス地方にフランスの支援で建設した工場ごと連合軍に降伏していた(※しかも戦後多くの者が西側に亡命していた。)。
連合軍が占領したラインラントにあった軍需工場からも、最新技術が幾つか得られていた。
また、戦争末期からの混乱で、ドイツから自由主義陣営に亡命した科学者、技術者も少なくなかった。
ソ連はそうした亡命者の引き渡しを強く要求したが、連合軍はほとんど受け入れずに自国に迎え入れていた。
そして一部ドイツの先端技術でテコ入れしたアメリカなどの最新鋭機は、ドイツの技術を丸ごと手に入れた筈のソ連を上回るほどだった事が、この支那戦争で明らかになった。
これは、当時原爆以外の先端軍事技術でソ連が優位にあると考えられていたため、特にソ連指導部に大きな焦りをもたらす事になる。
この後始まるロケット競争も、その一端だった。
その後のことはともかく、これで戦争はようやく「普通」になり、地上と空で激しい戦いが展開されるようになる。
地上での戦いは、国連軍のほぼ思惑通り、各地でゲリラ的戦いを展開していた人民解放軍は、寸断され、包囲され、そして火力で殲滅されていった。
同じ歩兵同士の戦いと言っても、国連軍は歩兵一人一人が装備する自動小銃をはじめとして、火力が格段に違っていた。
支援する戦車、装甲車の数も戦力も段違いだった。
簡易ロケットランチャーですら数の面で大違いだった。
特に人民解放軍が籠もる地下もしくは半地下陣地に対しては、各種爆薬、火炎放射器、簡易ロケットランチャーが活躍した。
簡易ロケットランチャーは、アメリカ軍のいわゆる「バズーカ」と満州軍が独自装備としていた旧ドイツ軍が使った「パンツァーファウスト」の独自改良型が使われていた。
その後ソ連が開発する「RPG-7」の開発に、満州軍の装備が影響を与えたとも言われている。
その上日本軍、満州軍共に、対歩兵戦に熟練した部隊を多く前線に投入していた。
さらに制空権も国連軍のもので、航空機による偵察や地上支援は国連軍だけが得られるものだった。
しかも特に日本と満州の歩兵は、彼らのゲリラ制圧ドクトリンに従って、徹底的に自らの足で歩いて、包囲した人民解放軍を確実に追いつめて殲滅していった。
戦力、火力に圧倒する側が、自らの(歩兵の)犠牲を厭わず徹底した包囲戦、掃討戦を展開してくると、兵力、火力に大きく劣るゲリラ兵は逃げて追いつめられるしかなかった。
友軍救出にでた人民解放軍部隊も、国連軍の戦線に浸透しきる前に、包囲している敵に向けているのと同じ火力によって接近を許されなかった。
しかも一部では、国連軍は戦術核を用いることで、人民解放軍を効率無視のオーバーキルで吹き飛ばした。
軽装備の1個大隊相手に、(アメリカ軍の敵戦力誤認で)戦術核が使われた事例があったほどだ。
なお、この時期の戦いの戦訓として、アメリカ軍では最終的には無反動砲から発射できる局地戦向けのマイクロ・ニュークまでが開発されている。
そして核兵器は、アメリカだけの専売特許で無くなる。
といっても、次に開発したのは日本帝国だった。
この攻勢の最中、日本が中部太平洋の秘密実験場で原爆実験を実施し、その2週間後に早くも実戦投入されたのだ。
つまり、12月8日に日本初の核兵器実験が太平洋上のビキニ環礁で行われ、22日に初号弾が、26日に二号弾が日本戦略空軍の「連山改」によって投下された。
使用された原爆はいずれもプルトニウム型で、爆発威力は15キロトンと25キロトン程度のものだった。
程度というのは、まだ技術蓄積の不足から爆発威力が安定していなかったからだ。
しかし原爆なのは間違いなく、投下された地点の人民解放軍をそれぞれ数千から数万人を吹き飛ばしていた。
日本の原爆実戦使用を、作戦の現場指揮をした戦略空軍の源田少将(※投下機に登場していたという噂すらある。)は「快挙」「痛快事」と喝采したと言い、実際戦略空軍の政治的価値が大きく跳ね上がった。
戦略空軍長官の大西大将も、これでようやく陸海軍に並んだと胸をなで下ろしたと言う。
そして日本はアメリカ以外に原爆を実戦使用した国、叙述的表現だと「アメリカと同じ罪の十字架を背負った国」となったわけだが、日本がアメリカに続いて世界で二番目の核保有国となった事の方が、共産主義陣営にさらなる焦りを呼んだ。
この時点で世界は、赤いチャイナは核の炎で焼き尽くされると思った。
一連の国連軍の攻勢は、洛陽を奪回して人民解放軍を平野部から追い払って山間部に後退させることで一定の成果を挙げた。
だが、目標とした西安奪回までには至らず、黄河中流域の山間部より東は人民解放軍が依然として勢力を維持していた。
このため国連軍は、このまま勢いに乗じる形で黄河を遡り、一気に西安を奪回する作戦「正月攻勢」を開始する。
作戦は奇をてらわず、重武装、重火力を前面に押し出した正面攻勢で、さらには機動力を活かして一気に進軍する事を目標としていた。
阻止するには、十分な陣地もしくは大軍、何より火力が必要だが、敵の大規模阻止行動を察知した時点で爆撃で吹き飛ばすこととされていた。
もちろんだが、爆撃の中には原爆使用も含まれていた。
この時期の国連軍では、原爆使用を「Nオプション」と呼んでいた。
人民解放軍による苦し紛れの四川の境界線近くでの示威行動に対しても、山間部の狭い地域に集結していた人民解放軍部隊に対して躊躇無く大型原爆が投下された。
(※ただし、長江中流域(支那共和国領内)で放射能汚染が観測された事は長期間伏せられていた。)
黄河方面での連合軍の作戦は順調に推移し、劣勢な戦力で正面からの戦いを余儀なくされた人民解放軍は、それなりに兵力を分散させた上での遅滞防御戦に徹するしかなかった。
一度は地形を利用し、さらに半地下要塞陣地とした大規模で重厚な防御陣地帯での阻止戦闘が行われた。
だが、それを察知した連合軍は一度少し距離を取ると、躊躇無く戦術核(5キロトン級)を地表爆発の形で複数投下して、一部では地形すら変化させるほどの爆発で陣地を含む地域ごと粉砕してしまう。
しかも、さらに日米の重爆撃機を大量に動員して、2000ポンド級、3000ポンド級の大型爆弾を無数に投下する絨毯爆撃も併用され、多くの人民解放軍兵士が吹き飛ばされるか生き埋めとなった。
また一連の戦闘では、歴史的遺跡が幾つか破壊されてもいた。
それでも山間部に近い地形での200キロを越える進撃は短期間では難しく、また自ら投下した原爆の最低限の人体への悪影響が衰えるまで進撃を手控えた事もあり、西安の奪回には至っていなかった。
(※人民解放軍には、二次災害で多数の放射能被爆者が出ている。)
そして国連軍主力部隊が、黄河から西安へと向かう川の分岐点のあたり、黄河が大きく北へと流れを変える辺りまで進撃したところで、大きな政治的変化が訪れる。