フェイズ117−1「イスラム世界の混乱(1)」
第二次世界大戦後から1970年代まで、アラブ地域での混乱と言えば、全ての面で異分子であるイスラエルが原因となっていた。
スエズ運河が原因となった事もあったが、これも問題の根本はイスラエルにあった。
しかしアラブ諸国が何をしようとも、イスラエルを倒すことはできず、あまつさえ戦争には負けっ放しだった。
イランが対イスラエルで他のアラブ諸国と連携するようになっても、結果は変わらなかった。
イスラエルの国力、軍事力も年々増加し、もはやアラブ側からの正面からの軍事的挑戦は不可能となりつつあった。
このため今までアラブの盟主を自認してきたエジプトは、現実路線の選択を取るようになり、1979年には「エジプト=イスラエル平和合意」が成立する。
しかしエジプト独自の行動で、エジプトは他のアラブ諸国から強く非難され、エジプトは外交的にアラブ世界から一時的に孤立化する。
そしてアラブ世界自体だが、この時期から混乱がより大きくなっていく。
1980年代のアラブ世界の混乱と言えば、やはりソ連による「アフガン侵攻」と「イラン・イラク戦争」になるだろう。
しかし混乱の予兆は、もう少し前から始まっていた。
アラブ世界もしくはイスラム世界の不協和音は、基本的にはイランが原因していると言われることが多い。
同じイスラム教でも多数派のスンナ派(スンニー派)とは違うシーア派と言われる宗派で、しかもイランはペルシャの名で世界的にも知られた古代から続く古い歴史を誇り、ペルシャ人として民族のアイデンティティーが強かった。
自分たちはイランもしくはペルシャという意識が強かったのだ。
地域的にも、西アジアではあってもアラブではなかった。
加えて隣国イラクには、イランと同じシーア派の住人が多数派で、イラクとは国境問題も抱えていた。
さらには、近隣諸国と同様にクルド人問題も抱えていた。
そして日本帝国が導いた形のイランの近代化と経済発展が、皮肉にもイラクとの戦争の最後の切っ掛けとなった。
経済発展の続くイランに、イラクやシリアからシーア派の移民の流れが出来つつあった。
さらにはイラン側から市民レベルでの影響力が拡大しつつあった。
そしてイランの近代化政策が、アフガニスタンの混乱を呼び込んだ原因の一つと言われることがある。
時系列ごとに順に見ていこう。
古代から近代に至るまでペルシャと言われたイランは、第二次世界大戦でイラン帝国(パフラヴィー朝)が、欧米列強の勢力圏の関係から欧州枢軸側に荷担したが、かなり積極的に欧州枢軸側に協力した事で連合軍の怒りを買い、軍事占領の後に王朝の打倒と民主共和制の導入が行われた。
王朝打倒の真意は当時の国王に原因が多いとも言われるが、連合軍の総意は王政から共和制への移行だった。
そして日本帝国の勢力、分担とされると、日本はかなり真面目にイランの新国家建設と近代化に力を入れる。
日本としては遠隔地から安定して質の高い石油を大量に手に入れるためだったが、結果としてイランは後に「イラン・モデル」と言われるほどの近代化が実現される事になる。
出光佐三率いる鈴木財閥などは、石油開発の傍らで私費を投じてイランの近代化にも尽力して、一時国際的にも注目されたりもした。
しかも日本は、1954年に石油利権をイランに実質的に返還したので、イランは豊富な資金を用いて国造りを進めることができた。
この油田国有化では、当時欧米各国からも強く非難されたのだが、日本には実質的な植民地支配の為の金がない事からくる苦肉の策だった。
だが結果として、日本とイランの安定した友好関係構築に非常に貢献した。
その後を含めて、日本経済にとってもプラス面の方がはるかに多かった。
さらには「イラン・モデル」を求める国々とも、日本は関係を深めることができた。
インド連邦ですら、頑ななまでの何でも国産化しようとする動きを一部改めたほどだった。
そしてイランは、主に日本から技術指導を受け入れながら、日本の明治維新以後の近代化政策を自国風に改めて進める。
またイランは、安定した政治、経済運営のおかげと、スンナ派に対する融和外交(※反イスラエル政策での共闘も含む。)によって近隣のイスラム国家との関係構築に成功しており、OAPECの参加も実現するなど多くの成果を挙げている。
しかし成功したのは、イランが歩み寄ったからであり、それをイランが行えるほど政治の近代化が進められた大きな成果と言えるだろう。
他のアラブ諸国からイランへの人の流れこそが、イランが発展しつつある何よりの証だった。
人は富める場所へと集まるからだ。
なお、イランの政治の特徴は、民主化、共和化を進めるも、完全な政教分離を行わなかった点にある。
政教分離は欧米の民主共和制の基本ともされるので、かなりの期間にわたり日本、イラン共に欧米諸国から非難にさらされたほどだ。
アメリカの微妙な反イラン姿勢も、根本は政教分離問題にある。
国の最高指導者は、国民から選ばれる形ながら宗教の最高指導者で、最高指導者が権威面、精神面で国の元首となる。
一方でイスラムの教えはあくまで宗教の面に止められ、民主選挙で選ばれた首相と議会と司法を加えて、近代的(西欧的)な三権分立の民主共和制政治を行う。
形としては立憲君主制に近く、しかも国家元首、国家権威が宗教家ながら世襲でないという点で画期的とすら言えた。
個人による長期の独裁が行われる可能性が低くなるからだ。
1963年に国家元首でもある最高指導者となったルーホッラー・ホメイニは、1979年に老齢を理由に最高指導者の座を自ら退くも、イランのイスラムを尊重した形の民主主義国家を支えた代表的人物だった。
彼のもとでイラン型民主主義制度(立憲宗教制とも言われる)は完成したと言え、カリスマ性の高い指導者を得たイランは内政的に安定して発展していく事ができた。
と言うのも、発展途上の民主主義国家や共和制国家にありがちな事に、イランでも初期の議員選挙では不正が多かったからだ。
加えて強固で頑迷な地方権力も、イランの内政上では大きな問題だった。
しかし、最高指導者に率いられた貧しい者たちが過半を占める国民が政府を強力に支持する事で、既得権や旧弊を打破した上での近代化を進めることが出来た。
イランの近代化は、政教分離をしていないという点で、西欧やアメリカからは批判も多かったが、後押しした日本はあまり気にしていなかった。
あまりにも欧米諸国が五月蠅く言う場合は、「我が日本帝国は、古代の神権の体現者である天皇を国家元首としているが、ただの一度も問題となったことはない」と言い返してさえいる。
話しが少し逸れたが、イランの近代化は日本の明治維新以後の近代化を参考にしている事もあり、国民全ての公教育にも大きな努力が割かれた。
そして日本の近代化の資料が少し古い考えだったことが、イランにとっても受け入れやすかった。
と言うのも、日本ではかなりの時期まで初等教育以外は男女別の場合が多く、しかも女性の高等教育はあまり奨励されていなかったからだ。
日本自身は第二次世界大戦後に大きく変更したが、イランに渡された資料はあえて明治の頃の古いものだった。
これは日本側が自らの変革を省みて、急激すぎる近代化は心理的な摩擦や反発が起きやすいと考えての事だった。
そして日本側が考えた通り、イランでもその後徐々にだが女性への教育も広がりを見せている。
教育による人材育成と自力での産業の勃興、社会資本の運営など、自立した近代国家に必要なものを次々に作り上げていった。
自力での重工業化は次の段階で、この点はイラン側から不満も出たが、日本側は何よりも先に足元を固めることを重視させた。
日本は留学も非常に多く受け入れ、日本国内で頭にターバンを巻いた人と言えばインド人(シーク教徒)と並んでイラン人を思い浮かべるほどだった。
近代化と国土建設は順調に進み、1970年代に入ると石油産業を中心とした重工業の建設にも手を広げられるようになった。
近代化の指標の一つとも言える自力での鉄鋼生産量も、日本からの技術輸入もあって順調な伸びを見せた。
日本、満州の企業進出も行われるようになった。
さらにオイルショックでは、日本などへの輸出継続などでアラブ諸国の石油禁輸措置にはあまり従わなかったが、それでもオイルマネーで莫大な外貨の獲得に成功。
それを国民全般の所得向上につながる再生産を生み出す産業と社会資本への投資、そして軍備の増強へと投じていった。
軍備の増強は、隣国イラクとの関係が思わしくなかったからでもあったが、1974年の日本との約束でイランも対ソ連包囲網に積極的に加わるためだった。
イランにとってソ連は北の隣国であり、帝政ロシアの時代からロシア人には恨み辛みもあるため、イランの仮想敵として国民も認識しやすい相手だった。
しかもソ連は宗教を否定する共産主義国だった。
だから国民も、ソ連に対する一定程度の軍備増強は受け入れたのだが、一部ではあっても大きく向上した税収と莫大な資金が同時に軍備増強に回った事から、イランは短期間で地域随一の軍事力を保有する事になる。
東の隣国インド連邦が脅威に感じたほどだった。
1970年代後半からの日本の兵器輸出拡大の成功も、イランからの大量発注がなければ中途半端な形にしかならなかっただろう。
しかも兵を指揮し兵器を操るのは、日本人武官の厳しい教育を受けた現代のペルシャ騎士である職業軍人達であり、近隣が受ける脅威は日増しに高まっていった。
特に、イランが強くなったことに脅威を覚えたのはソ連だった。
ソ連にとってイランは、目の上のたんこぶのような存在だった。
第二次世界大戦の結果イギリスから日本の勢力圏となるも、日本はイランを民主主義国家に作り替えてしまう。
そこまではまだ良かったのだが、年を増すごとに成長して国力を増していった。
当然軍事力も強まり、イラン国境から300キロ程度しか離れていない場所にバクー油田をかかえるソ連としては気にせざるを得なかった。
中央アジアの長い国境線も気になるところだった。
しかもイランは、民主主義国家ながら政教分離を一部しておらず、国家元首のシーア派最高指導者の権威はイランの国力増大に比例して増していった。
この「イラン・モデル」の近代化と宗教を政治に残す形は、周辺のイスラム国家ばかりかソ連のイスラム教が残されている地域にも成功の話しが広がっていった。
そしてソ連が自らの勢力圏と考える場所の一つが、イランとも国境を接しているアフガニスタンだった。
アフガニスタンは、ヒマラヤ山脈から続く世界有数の高山地帯にあり、しかも国土のほぼ全てが山岳地帯にあった。
数少ない都市も山々の合間の小さな盆地に点在する程度で、その都市を結ぶ鉄道を引くことが非常に難しい地形をしていた。
交通手段は山間を縫うように走る道路だけで、山々に隔てられた各所に独自の文化や習慣を持つ少数民族、部族が数多くあって、アフガニスタン全体としての統治を非常に難しくしていた。
統治の難しさは古代から現代に至るも変わらず、古代の英雄アレキサンダー大王もアフガニスタン統治には手を焼いたほどだ。
20世紀のアフガニスタンは、取りあえず一つの王国としてまとまっていたが、基本的にはロシアの勢力圏となっていた。
近くにパワープロジェクションできる国は大英帝国しかなかったが、最盛時の大英帝国と言えどもインド帝国からはアフガニスタンの半分に影響を及ぼすのが限界だった。
このためアフガニスタンは、ゆくゆくは中央アジア地域のようにロシア領もしくはソ連領になると言われていた。
そしてアフガニスタン自体の不安定な状態は第二次世界大戦後も続き、1973年にはクーデターで王政が廃止された。
だが混乱はさらに広がるだけで、1978年にはそのクーデター政権も倒されて社会主義政権のアフガニスタン民主共和国が誕生する。
しかもその後は、同じ社会主義者の政敵同士が内ゲバの権力闘争を始めて、政権が二転三転。
この内ゲバと民衆への弾圧で政府は国内各地から反発を受けて、ついにムジャーヒディーンとの対立が決定的となる。
そして国内の反政府派であるムジャーヒディーンが抑えられないアフガニスタン政府は、ソ連に泣きつく。
ソ連も中央アジアに影響が広がることを警戒して、アフガニスタンへの電撃的な進駐を実施。
ついに「アフガニスタン紛争」が始まる。
これが、現代におけるイスラム原理主義台頭の始まりとされ、一種の革命的な出来事だった。
ソ連の「アフガン侵攻」は、アメリカを盟主とする西側諸国にとっては、ロシア人の南進が南アジアもしくは西アジアで再開されたと捉えられた。
また、アメリカにとってはインドネシア戦争での意趣返しという側面もあるので、インドやイランを通じてムジャーヒディーンなどへの積極的な支援が開始される。
とはいえ、イランとアフガニスタンは主な宗派が違うため、当初はインドのパキスタン地域からの支援が中心だった。
だがイランは共産主義、社会主義の敵視政策に従って、宗派を越えた支援を行う事を決める。
アフガニスタンにはシーア派もいるので、イランにとっては尚一層介入する理由があった。
そしてイランに近いアフガニスタン地域は首都から遠い地方に当たり、地形からもソ連が手を出しにくい場所も少なくなかった。
このためソ連は、イランのアフガニスタン支援が本格化する事を酷く嫌った。
実際、イラン国境のイスラムゲリラに、政府軍やソ連軍は手を焼いた。
しかもイランが使った援助ルートは、古代の昔から近東からインドに至る二つ限りのルートのうちの一つで、かのアレキサンダー大王も使った道だった。
インドについては、親日だが反欧米傾向が強いという点でソ連が多少なりとも付け入る事もできたが、イランはソ連もロシア人も敵視しており、敵の敵は味方の理論からもアフガニスタンへの積極介入を防ぐ手だてがなかった。
アフガニスタンの反政府側がイランと妥協した時点で、問題はさらに深刻になるのは確実視された。
このためソ連は、イランをアフガニスタン情勢に深く介入させない謀略を積極的に進める。
その結果が「イラン・イラク戦争」だった。





