フェイズ114−2「日本再編と日満経済の逆転」
こうして軍の統廃合と削減、合理化により、日本軍は大きく変化した。
軍事の数も、平時で70万人から55万人と15万人も削減される。
インドネシア戦争直後だと、30万人もの削減となる。
各軍ごとだと、陸軍:28万(予備8万)、海軍:14万(予備3万)、空軍:9万(予備1万)、戦略空軍:4万(予備5000)になる。
軍人数だけで見れば、アメリカ軍の20〜25%程度にまで減ったことになる。
(※今までは3分の1が目安だった。)
兵士の方は徴兵を止めればそれで済んだが、多くの職業軍人が不要になるため、兵部省が中心になるも政府はあぶれる職業軍人達の再雇用を進めた。
もしくは配置転換や早期退官を進める事にもなる。
そしてこの過程で、後に生まれるいわゆる「天下り」を行った事が、後々にまで尾を引いたと言われる。
また志願制採用に平行して、女性の士官学校入学、第一線への配備も進められる事となる。
今までは、後方、医療などにとどまっており、全体の比率も3%程度だったが、この時の改革で軍は女性に大きく開放される事となった。
一方で余剰した大量のパイロットが民間に流れ、日本での民間パイロット供給が容易になるなど経済面でプラスの面がないわけもなかった。
また、退役軍人を中核とした大規模な民間警備会社が作られ、以後除隊した兵士、退役軍人の受け皿の一つとなった。
そしてその一派がその後さらに発展して、傭兵組織のちのミリタリープロバイダーとなったりもしている。
そして単なる兵員や部隊の削減より重要だったのが、それまでの他国の防衛負担をそれぞれの国に任せた事だった。
これによる経費削減は、兵員削減よりも軍事費の削減に効果があった。
軍事費自体も、平時でGDPの6%近くインドネシア戦争の最盛時は8%にまで高まっていたものが、一気に3%台後半にまで削減された。
数年前の半分以下、以前の平時の6割程度に削減された事になる。
国家予算(赤字国債含む)で言えば、30〜40%を直接の軍事費が占めていたのが、20%以下になった事になる。
(※この時期の西側主要国の軍事予算は、対GDP比で4〜6%程度。)
この結果世界は、日本が米ソ軍拡競争から脱落したと伝えた。
また、最初に「冷戦」に「敗北」したのは日本だとも言った。
当然軍需産業に大きな影響が出るのだが、この後の日本は同盟国を中心とした武器輸出を今まで以上に進めるようになり、しばらくすると「日本=兵器輸出国」という認識が国際的にも広まり、ソ連・東側陣営や西側のリベラルから「死の商人」と言われるまでになる。
実際、最も武器を輸出しているのはアメリカなのだが、この時期から西ヨーロッパ諸国も完全に圧倒するようになったのだから、ある意味仕方のない評価と言えるだろう。
なお、この時の副産物として、輸出を前提として他国にも分かりやすくするため、兵器の固有名に使う年号を「皇紀」から「西暦」に変更する事が決まった。
実施は1975年からで、以後は1940年を「零」とするのではなく1975年を「75」とするようになる。
このため、かなりの期間日本の兵器名は分かりにくいと言われた。
なお、日本が潜在的ライバルと見ていた満州は、武器輸出にはそれほど興味を示さなかった。
皆無では無かったのだが、満州の企業は武器を輸出をするよりも、他に輸出するべき商品、開発しなければならない製品が山積みだったからだ。
当時の満州は、軍需を無視できるほどの高度経済成長をしていた証であり、その象徴こそが「コンピュータ付ブルドーザー」とも言われた田中角栄首相だった。
満州帝国は、戦後国家資本主義と言われるほどの国家体制を構築し、日米を利用して凄まじい勢いで経済発展を開始した。
日米から技術と知識を安価もしくは無償で導入し、国内での各種社会資本の建設、加工貿易の促進を、移民など安価な労働力で行い、国力、GDPを短期間で一気に成長させていった。
その結果がニクソン・ショックでの為替レートの対ドルレートの大幅な上昇だった。
そしてオイルショックでも、満州の経済成長はそれほど鈍化しなかった。
日本と違って年産6000万トン以上の油田(※康徳油田と遼河油田の合計採掘量)と、露天掘りが出来る大規模な炭田、有望な鉄鉱山、大きな農業生産力があるためだと言われた。
豊富な資源は、第二次世界大戦までの日本にとって極めて有用でもあった。
しかしそれだけでは、当時の満州には足りなくなりつつあった。
食糧生産はアメリカからの技術導入もあってまだ余裕があるが、鉱産資源特に石油はすでに多くを輸入に頼っていた。
国産の石油は、質の悪い石油ばかりが消費量の4分の1ほど賄えているだけにすぎない。
石油の多くは、日本同様にインドネシア地域やペルシャ湾岸諸国から購入していた。
満州と日本の決定的な違いは、国内経済と産業体制にあった。
そしてそれを実現したのが、歴代首相と機動性と柔軟性を持った官僚団だった。
そして日本ダブルショックの時期に満州の首相の座にあったのが、「札束宰相」とも言われた田中角栄だった。
この頃の多くの日系満州人と同様に田中角栄は移民一世で、満州に渡ったのは1941年だった。
ツテを作った日本の理化学研究所(理研コンツェルン)の仕事で満州に渡り、そこで彼のその後の人生を決める鮎川義介と偶然に出会う。
当初は鮎川のもとで秘書のような仕事をしてさらに評価を高めるも、満州全体の人材不足から鮎川に依頼される形で将校待遇の軍属として東鉄の現地顧問に就任。
シベリアへの派兵当初は現場では若造だと舐められていたが(当時24才)、持ち前の能力と行動力、指導力を発揮。
そして人心を掴むことで、短期間のうちに満州帝国陸軍の特務少佐として後方の兵站、工兵を切り盛りするようになった。
そして東鉄職員よりも手際が良く、旧日本軍将校よりも頭が切れる、何より凄まじい行動力を持つため、いつしか周囲の中心的人物になっていた。
終戦時には特例で将官相当官の特務大佐(※戦時任官)にまでなっており、周りは「札束将軍」などと呼んでいた。
また戦争中は、後方の兵站、工兵関係で「あの少佐」とだけ言った場合は、多くは田中の事を指したと言われる。
もっとも当の田中は、「私は戦争は大嫌いだ」と公言していたという。
そして戦後すぐに、鮎川の勧めで議員選挙に立候補。
田中は満州では政治地盤のない根無し草になるが、同じような議員は当時幾らでもいたので、既にかなりの人脈を持っていた田中は十分に議員になれる下地を作り上げていた。
しかも最初から、莫大な資金もしくは資金源を持っていた。
なお、当時の満州には実質的に民主政治も政党政治も無く、立憲君主制という建前の独裁に近かった。
それでも政党も議会もあり、支那戦争後には上下院の二院制の議会も作られた。
しかし与党自由党は圧倒的な与党で、少数野党はほとんどヘゲモニー政党のような状態だった。
このため与党自由党内の調整と運営、政府による官僚の統制が大切だが、田中は党の運営も官僚の統制も得意だった。
そして1957年に39才で通信大臣に就任し、そこでも辣腕を振るうことで報道機関の掌握にも成功。
当初は東鉄と「通信戦争」と言われる暗闘を繰り広げたと言われるも、情報通信広報を半ば独占していた東鉄の支配力を弱めて、国家、政府への集中を実現する。
この「通信戦争」は、満州帝国としては国家資本主義体制の強化であるとして政財界からも非常に好評だった。
しかし実際は、東鉄の裏にいる日本とアメリカ、特にアメリカの情報通信ネットワークからの自立という点で非常に重要だった。
しかも巧みな事に、完全に日米を切り離すことを敢えてせずに、その後の利益を保持させると共に一定の服属姿勢を残すなど強かな面も見せた。
そして短命で終わった辻政権では財務大臣を務めて、1967年についに首相の座を射止める。
田中政権時代の満州は、一般的には「日本的」だったと言われることが多い。
それは彼が「人たらし」であり、主に彼の政権の間だけとは言え、利益誘導や金権体質をもたらしたからだ。
しかも彼の利益誘導は徹底しており、その手は彼の故郷である日本の新潟にまで及んでいる。
新潟港がシベリア共和国を経由して満州東部と日本の中継点として発展し、東京=新潟間の鉄道が強化され新幹線が整備されたのも、田中が満州の首相でなければ日本政府も動かなかったと言われ、多くは事実だった。
しかし日本海を極東の物流網の中核として重視した事自体は、満州の東部、シベリア共和国、日本の日本海側地域の発展に大きな貢献を果たしているため功績の方が大きい。
だが彼はトップダウン型の政治家であり、そうした点では日本的ではなく欧米的と言える。
トップダウンでなくボトムアップでは、トップは調整に奔走しなければならず、心身共に長期政権の維持は難しい。
一人の為政者の長期政権が難しいのが、ボトムアップ型政治の日本政治の大きな欠点でもあるが、満州では基本的にボトムアップは許されず、欧米型のトップダウンこそが正しい姿であり、田中もその類型から外れる事はなかった。
そして田中首相のもとで強力に推し進められたのが、満州での高度経済成長だった。
1967年に、軍事力による国威発揚を狙った辻正信が実質的に失脚したのも、一般的には満州財界の意志と言われるが、田中の政治力が無ければ実現しなかったのは間違いない。
田中首相は、軍事に偏りすぎていた状態を是正し、軍事費に傾きかけていた国家予算配分を、再び経済優先に引き戻した。
軍部の反発は弱くはなかったが、既に大きな政治力を持っていた田中に太刀打ちできる筈もなかった。
しかし、彼の内閣で国防大臣に就任していた軍人出身の瀬島龍三の力が無ければ、完全に抑えきれなかったと言われる。
国家資本主義と言われながらも、満州帝国で軍の勢力は小さくなかったからだ。
また、田中首相の時代に実際に核軍備は整備されているので、軍備を軽視しているわけでもなかった。
(※瀬島龍三は満州左遷組の旧日本軍将校ではないが、ロシア戦線に従軍してその後満州に帰化している。)
そして田中は、インドネシア戦争の戦費、ニクソン・ショックによる通貨高、オイル・ショックというマイナス要因を外需と内需双方の拡大ではね除け、満州経済をさらに躍進させる事に成功した。
1974年には、ついに日本のGNPを抜いて、満州帝国が西側世界第二位の座を掴むことに成功した。
これを聞いた康徳帝(溥儀)は、大清国が復興が成ったと殊の外喜んだと言われる。
また、日本時代のコネクションも用いて、日本と満州の宇宙開発統合に大きな影響を与えたりもしている。
(※神の視点より:溥儀は常に最高の医療を受けているので、腎臓ガンは早期発見されて事なきを得ている。)
1974年度の各国の所得
国名 GNP 一人当たりGNP 総人口(万人)
アメリカ 1兆2,443億 5,580 22,300
満州 1,291億 1,737 8,700
日本 1,260億 806 14,300
イギリス 1,146億 2,012 5,700
以上がこの頃の西側陣営の1〜4位の国になる。
この下にフランス、イタリアが続き、さらに少し離れてカナダが並んで、1975年にサミット、先進国首脳会議が開かれる。
(※カナダの参加は2回目から)
そして見て分かるとおり、1974年は僅差で3つの国が並んでいるが、満州がアメリカに次ぐGNPに上昇していた。
しかも各国の経済成長率を見ると、満州が最も高かった。
当時の各国の産業状態、景気動向、人口増加率などを見ても、満州が最も良好な状態だった。
つまりこの年以後、満州帝国が日本、イギリスを引き離していくことになる。
また日本については、一人当たりGNPで見ると先進国ではなかった。
1974年度だと1,200〜1,500ドル程度で先進国と見なされるので、日本は先進国未満となる。
数字だけ見れば、中進国というのが正しいだろう。
しかしGNPと軍事力は大きく、しかも自由主義陣営ではアメリカに次ぐ第二の大国という政治的立ち位置でもあるため、サミット(頂上会議)に呼ぶのが当然と判断されていた。
(※アメリカは規格外に近い存在)
日本の事はともかく、満州は世界第二位の経済大国に躍り出たのだが、そのからくりは日本が目指していたものをずっと効率よく進めた結果と言われる。
無資源国の日本は、加工貿易と内需拡大の両輪で経済を拡大しなければいけなかった。
加工貿易で付加価値を付けた製品を海外に売って、自分たちが必要とする食糧や燃料、原料資源を輸入する形だ。
さらに一定以上に国内の人口規模があるので、貿易さえ順調ならば内需拡大を計ることも可能だった。
満州の場合も似ていたが、スタート時点で日本以上に低賃金労働者が多く、国内に社会資本を作るべき場所もあった。
加えてある程度の天然資源もあり、国土の開発で豊富な農作物も収穫できた。
そして国が開放路線を強く進めたことと既得権益が少ないため、日本とアメリカからは多くの企業進出と投資もあった。
日本とアメリカからの多くの移民も重要だった。
国境を隣接する支那共和国、韓王国の移民は、低価値労働者すぎて1960年代には不要になっていたが、ある程度の価値を付与された、つまり初期教育を受けた移民は必要だし、高価値労働者なら尚更だった。
それに国力拡大の為にも、人口の拡大は必要だった。
そして効率的で合理的な産業体制を作り上げ、さらに安価で一定水準の製品を供給することで、アメリカへの輸出をどんどん伸ばした。
1950年代ぐらいまでは日本にも同じ事をしていたのだが、一人当たり所得が並び始めると無理になった為、一時期は貿易が停滞。
しかも日本に輸出する農作物や原料資源が、国内で消費されるようになって輸出も難しくなった。
このため日本との貿易が一時停滞したが、1960年代半ばからは所得や賃金の逆転で、日本に高価値商品を輸出し、日本からは低価値商品や主に軽工業製品を輸入するようになる。
そしてさらに以後十年ほどは、満州は高い比率の経済成長を続けていく事になる。
それに一時的であれブレーキがかかるのは、1985年の「プラザ合意」を待たなければならなかった。





