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日米蜜月 〜戦後編〜  作者: 扶桑かつみ


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フェイズ114−1「日本再編と日満経済の逆転」

 1974年10月、オイルショックから丁度1年後に日本政府から重大な決定が発表され、世界に大きな衝撃をもたらした。

 

 日本政府が決めた事は、大幅な軍備削減と抜本的な経済の再編だ。

 これを日本政府は「改革解放政策」と言った。

 


 いったい何を「改革」して「解放」するのか。

 

 第二次世界大戦の少し前からこの時まで、日本は軍事偏重の財政で知られていた。

 いや明治維新以来、近代日本は常に軍事偏重であり続けた。

 完全な平時で国家予算の5割に迫った事すらあるほどだ。

 戦前は強い軍隊を持たなければ自主独立が許されない時代であり、戦後は日本が世界の列強、世界の大国と認められなかったからだ。

 同時期は経済も大きく発展はしていたが、常に莫大な軍事費、民間の軍事に対する研究開発費が、健全な経済発展、技術発展を阻害し続けていた。

 

 これを東西冷戦構造が続いている中で抜本的に改めると、日本政府が決めたのだ。

 これを著名な評論家の一人は、近代日本が現代日本に変化するための改革だと言った。

 

 過剰な軍事費を大幅に削減し、合わせて軍備を徹底的に査定、再編。

 そうして余剰した国家予算と国力、経済力、人的資源を、循環型経済に投入して長期的に日本経済を立て直すことが一番の方策だった。

 公共投資による大規模な社会資本の建設というカンフル剤も、限られた形で実施する予定はあったが、あくまでそれは現状に対する緊急措置にすぎず、長期的視野での国家経済の再編成を目指していた。

 

 また、1930年代以後一部 財閥コンツェルンに産業全般が集中する傾向が強すぎて、主に満州へと流れる企業、人材が後を絶たない事から、経済の自由化の断行化が決まり、独占禁止法などが大幅に強化される事となった。

 さらに、旧態依然としていた保守層を守るために存在していた各種規制、既得権益の多くが、撤廃もしくは大幅に緩和、さらには健全な形に変更された。

 

 さらに税収拡大の為、今まで守られてきた累進課税と相続税が大幅に強化され、庶民からではなく金持ち達から資金をかき集めた。

 

 また、今まで欧米各国に比べて大きく遅れていた、女性の社会進出、特に政治への積極参加と登用が促進される事となり、憲法上でも銘記される事となった。

 当然ながら、女性が社会進出しやすいようにするための社会資本の整備、国民の意識改革の為の啓蒙なども大幅に進められる事になった。

 

 なお、女性の社会進出促進は、労働生産性の向上の一助という副次目的もあった。

 

 まさに改革解放政策だった。

 


 この改革で一番大きな打撃を受けるのは、一部の金持ちを除くと軍事に関わる人々だった。

 政治家、官僚(軍政家)、軍人、軍需産業の全てが、今までの放漫経営状態、丼勘定状態の軍事費から、徹底した査定による再建を求められた。

 

 ただし損ばかりさせては、まとまる話もまとまらない。

 日本は全体主義でも共産主義でもないからだ。

 

 故に以後の日本は、国力に対して肥大化していた軍需産業を救うため、武器の海外輸出を今までとは比較にならないほど積極的に行うようになる。

 兵部省はもちろん外務省も通産省も、大蔵省までもが、積極的に海外に兵器を売り込むようになった。

 一連の共同作業で、東京と大阪の省庁の対立、兵部省と他の省庁の対立が大幅に緩和するという副産物がもたらされたほどだった。

 

 しかも日本の軍需産業にとって幸いな事に、日本製兵器の受け入れ先の国が大きく育つか、育ちつつあった。

 経済発展が著しい満州帝国には一部を除いてあまり売れなくなっていたが、インド連邦、イラン共和国という日本と密接な関係のある国は、日本からの様々な技術供与や各種支援と引き替えに、今まで日本が背負い続けていた安全保障を一部であれ自ら背負うことになる。

 

 依然として共産主義国のある東南アジア地域での、日本製の武器需要も低くは無かった。

 他にも「白人以外の旗手」として日本を見る国々は、半ばステイタスとして日本製の武器を持ちたがった。

 また、依然として不安定な状態の続く支那地域は、どの国にとっても優れた武器輸出先だったが、引き続き日本も関わることができた。

 

 また民間企業は、今まで軍事にばかり向いていた研究費、開発費、人的資源など莫大な投資を、民需、民間開発に回すことができるようになるので、むしろ長期的な利益は非常に大きいと考えられた。

 

 そして日本全体としては、以後10年ほどをかけて今まで自ら作り上げてきたものを大きく改め、新たな経済構造の再構築を進めていく。

 

 一方で改革で最も割を食うのは軍人達となった。

 


 日本政府は、日本軍全体の抜本的な改革と縮小を決定。

 日本政府は無駄を削って、より効率的な軍事力を整備するとしたが、軍縮規模は第二次世界大戦直後に匹敵するとすら言われた。

 

 なお、日本独自の軍縮の表立っての理由は、米ソ冷戦構造のデタント(緊張緩和)と、インドネシア戦争に区切りがついた事とされた。

 また主に米ソ間で進められた核兵器に関する様々な取り決めに日本も準じるという点も、軍縮の大きな理由とされた。

 

 またインドネシア戦争で引け目のあるアメリカは、日本の改革や軍縮に何かを言うことができなかった上に、むしろ日本の負担を一部肩代わりし、さらには技術面などの支援すらする事を了承した。

 

 軍縮自体は日本とソ連単独で見れば、日本自らが軍事的に一方的に不利になると宣言するに等しいのだが、実際はそうはならなかった。

 満州帝国は経済の躍進にともない国防を重視させ、さらには核保有まで実現した。

 インド、イランも、今までと比べると有力な軍事力を保有できるようになっていた。

 

 また1975年には、アメリカも参加した「アジア条約機構」(通称は本部のあるシンガポールにちなんで「シンガポール条約機構」)が成立。

 日本からイランにかけて、ソ連を封じ込める新たな体制を作り上げる。

 

 しかも今までと違って、日本の軍事負担が大きく軽減されており、実際日本はインド洋方面の軍備を大幅に削減する。

 

 日本軍全体としては、第二次世界大戦から続いていた徴兵制度を事実上廃止(※殆どの時期で実質的に選抜徴兵制だった)し、志願制を中心とした軍制に移行する。

 

 第二次世界大戦後は70万人体制として、支那戦争、インドネシア戦争では一部徴兵の強化が行われ、特に1974年の時点ではインドネシア戦争の影響で軍人数は85万人に増加していた。

 

 と言っても、日本自体の総人口が大きく伸びていたので(※第二次世界大戦頃だと総人口は7500〜8000万人。)、兵士のなり手に不安はなかった。

 特に1960年代終盤頃からは、戦後の第一次ベビーブーマー世代が大人になる頃だった。

 1968年から以後十年ほどの出生数は、300万人前後で推移していたし、戦後の日本は若者で溢れかえっていた。

 1940年代終盤から以後四半世紀ほどの徴兵は2年で、軍人には志願兵と職業軍人が多く含まれるため(約半数に達する)、実際徴兵される若者は10人に1人もいなかった。

 

 そこにきての大幅な軍縮と兵員の削減で、徴兵制を維持する必要性が低下しているという現実もあった。

 

 少し軍縮の程度を見ておこう。

 


 一番の削減対象となったのは、組織の特性から多くの兵士を抱える陸軍だった。

 

 陸軍は、第二次世界大戦後の動員解除で、一般12個、機甲4個、空挺1個の17個師団体制となった。

 その後支那戦争で機甲部隊が若干強化され、インドネシア戦争でも機甲部隊とヘリ部隊が強化された。

 特にヘリは全軍に配備されるようになり、各部隊の規模も増えた。

 

 1974年の軍縮では、戦略単位とされる各軍(軍団)を従来の3個師団体制から2個師団体制として、各師団の重装備化で師団数の減少による戦力低下を補うものとされた。

 

 結果、機甲師団3個、機械化歩兵師団4個、歩兵師団3個、空挺旅団1個、空中突撃旅団1個、教導機械化旅団1個に縮小、再編成される。

 欧州駐留軍も、3個師団体制から機械化歩兵師団1個、機甲師団1個に改変され、支那大陸有事の際の即応部隊は欧州向け即応部隊と統合される形で実質的に廃止された。

 内地(本土)で即応体制を維持するだけでも、大きな予算が必要なためだ。

 

 また、常時内地に駐留する3個歩兵師団は、有事に即応の予備役召集で兵員数を満たす体制を大幅に強めて、師団の3分の1を士官のみで兵士を配置しないスケルトン化で兵員数を大幅に削減した。

 その他、インドネシア戦争で膨れあがっていた組織、部隊、兵員数も整理、削減され、73年に平時定数45万人(即応予備役5万人)だった兵員数は定数28万人(即応予備役8万人)に削減された。

 


 他の軍も削減と縮小が実施されたが、一番割を食ったのは戦略空軍だった。

 もっとも戦略空軍の場合、今までの行き過ぎた独自行動が過ぎてしっぺ返しを受けただけという見方も強かった。

 

 戦略空軍が独自行動が強かったのは、1950年代から60年代半ばまで戦略空軍の頂点に君臨した源田実将軍がいたからだった。

 彼は戦略空軍の独自性という建前で自らの軍の拡大を行い、政治家、他省庁、企業へのロビー活動も積極的に行って、一時は日本の核軍備の独占すら狙った。

 しかも一時期は、政府が通常軍備より核軍備の方が国家安全保障の費用が安上がりになると考えたため戦略空軍を優遇。

 加えて、日本という国土が大陸間弾道弾(ICBM)、中距離弾道弾(MRBM)など各種弾道弾の配備に向いていない為、なおさら戦略空軍への核軍備集中が進んだ。

 重爆撃機の基地は、硫黄島、択捉島など人口が希薄か無人の離島に設置できるからだ。

 主に割を食ったのは防空空軍と海軍で、二つの軍からは源田将軍は酷く嫌われた。

 海軍にとって裏切り者に等しいので、もはや憎まれるレベルだったと言われる。

 

 結果として戦略空軍は肥大化し、ソ連の同種の空軍部隊に匹敵する規模を有するまでになるかに見えた。

 当然、湯水のように軍事費を使っていた。

 

 しかしこの時の軍縮で、「鉈」のような大きなメスが入れられる。

 参議院議員となっていた源田実(※この頃は70才で、軍は退役している。)らは激しく反発したが、日本中の政治家、軍人、その他様々な方面から抑え込まれて反対は許されなかった。

 戦略空軍自体も反発したが、同じように抑え込まれた。

 あまりの強硬姿勢に対して、戦略空軍の全廃と防空空軍への空軍統合という話すら出てしまうと、流石の源田議員も引き下がらざるを得なかった。

 そしてこの時の反発のため、源田議員は総理大臣どころかこの頃には手が届いていると言われた兵部大臣にすらなれないまま政界を引退する事になる。

 

 戦略空軍は、今までとは大きく違って戦略爆撃機(重攻撃機)と戦略偵察機(超長距離偵察機)、その他関連の装備のみに再編・縮小。

 戦術機部隊は防空空軍に合流・統合。

 合わせて防空空軍も組織を大幅に改変し、名称も防空を取って単に「空軍」と改めた。

 今まで防空空軍と戦略空軍で重なっていた部隊も統廃合し、合理的な編成と配置の実現が可能となった。

 

 だが、防空空軍は旧陸軍航空隊を母体としているため、戦略空軍の実質的な合流は反発も多いと言われた。

 しかし、もともと地上配備の広域防空部隊(対空ミサイルなど)も組み込まれていた事で、空軍は他国よりも合理的な組織となり、この時の軍縮で一番恩恵を受けたと言える。

 

 日本全体の核軍備については、敵の目標にされやすい地上配備型の各種弾道弾サイロは全廃。

 戦術用の移動可能な準中距離弾道弾は残されたが、核弾頭配備は常設では廃止される事になる。

 地上配備型巡航ミサイルについても同様とされた。

 そして核弾頭の搭載は、既に導入が進んでいる潜水艦発射型弾道弾(SLBM)と艦載型巡航ミサイル(SLCM)、戦略爆撃機の空中発射型巡航ミサイル(ALCM)に集中される事になった。

 そして、運用経費のかかる戦略爆撃機の数についても大幅削減された。

 それでも爆撃機自体の耐用年数が残っている機体が多いため、一部が通常爆撃型、空中給油機型、電子戦型など各種タイプに改造される事とされた。

 

 この核軍備の改変により、軍縮で本当に一番割を食ったのは各種弾道弾部隊も無くなった陸軍と言われる事もある。

 


 一方で、気分的に一増一減だと言われたのが海軍だった。

 それでも新型ミサイルの導入と戦略原潜の増強も行われているので、全く削減一方というわけでもなかった。

 むしろ核戦力、核抑止力という面では重要性は非常に高まっていた。

 

 常に金食い虫と言われる海軍は、インド洋常駐艦隊の廃止が決まった。

 これを受けて、大型空母(攻撃空母)は5隻体制から4隻体制に削減される。

 その代わり、時期を見て老朽化の進む支援空母(対潜空母)の代替新造が認められ、しかも大型空母と同じ4隻体制とする事になった。

 ただし、既存を含めて純粋な支援空母は固定翼機の運用を止め、今まで配備されたり有事に配備される航空隊は削減された。

 また、戦艦については全て予備役編入し、保守要員もほとんど配置しない保管艦モスボール状態に置かれる事になる。

 

 この変更は、ソ連海軍が水上艦艇よりも潜水艦重視になっていた影響だった。

 当時は理由が不明だったが、ソ連海軍では予算が少ないのか能力がないのか、大型艦の維持能力が低かった(※後に判明したが理由は両方だった。)。

 このためスターリン時代に建造された大型艦の稼働状況は悪くなる一方で、1960年代後半には実質的な脅威が大きく低下していた。

 インドネシア戦争にも大型艦の出動はなく、近代改装すらされない4万トン級の空母に至っては練習艦という名の廃艦状態だった。

 一時は西側を驚かせた新造空母も、見た目の割に戦力価値は低く、しかも稼働率も低かった。

 (※艦載機開発で失敗した影響も大きい。)

 そして日本海軍では、大型空母と支援空母を1隻ずつ一つの任務群にまとめて運用する方式を正式採用することになる。

 アメリカなら1隻の大型空母(攻撃空母)で機動群の全てが賄えるのだが、当時の日本の空母はアメリカの主力空母より少し小さい母艦がほとんどで、また空母を攻撃力として使いたいため、支援任務用の機体をなるべく攻撃空母に載せたくなかったためだ。

 ただし、海軍が望んだ老朽化の進む大型空母の代替艦建造までは叶わなかった。

 


 また一方では、核軍備自体の大幅な変更により、戦略原子力潜水艦の増勢が決まった。

 

 日本の戦略原子力潜水艦は、1960年代半ばまでは巡航ミサイル潜水艦が主力だった。

 巡航ミサイルの開発が進んでいる反面、潜水艦発射型弾道弾(SLBM)の独自開発が遅れていたからだ。

 発射実験自体は継続的に行っていたし、潜水艦自体の研究・開発もアメリカ並みに進んでいたのだが、肝心のミサイルの技術が未熟だったのだ。

 そうして1960年代後半に、ようやく「25式潜水艦発射型弾道弾」が実用に耐えうるまでに完成度を高めて量産配備が実現し、この軍の改革が決まったときは同弾道弾を12発搭載する《薩摩型》戦略原子力潜水艦の整備が進められていた。

 当初は8隻建造の予定だったが、この時の変更により12隻への増勢が認められ、より完成度を高めた後期型として4隻が追加建造されている。

 これにより、北海道などにあったミサイル基地が破棄されている。

 

 そして合理化のため4軍全ての統合運用がいっそう進められる事になり、軍令参謀本部の機能が強化され、4軍の相互交流と合同訓練を一般化し、より効率的な体制が目指される事になる。

 この統合運用では、既に同じ事が先に進んでいた欧州駐留軍での経験が生かされ、比較的短期間で進められる。

 


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― 新着の感想 ―
[一言] これだけの改革を行っても史実より国防予算は高いってどんだけこの世界線のWW2は捻じれとんや…
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