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日米蜜月 〜戦後編〜  作者: 扶桑かつみ


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フェイズ111−2「インドネシア戦争(5)」

 メンガラの東西各所の敵戦線を突破した日本軍、満州軍の機甲部隊は、一直線に南下した。

 目指すは、人民共和国の策源地であるパンダルランブル。

 ここを落としてしまえば、スマトラ島南端部にまともな港湾は存在せず、人民共和国軍がいくらスマトラ島に残っていようともいずれ絶ち枯れてしまう戦略的要衝だった。

 今までは、政治的要求から極力人民共和国領内への地上攻撃は手控えられていたし、アメリカ軍が主役でなくなってからは戦力不足から手を出すことができなかった。

 また人民共和国軍も、スマトラ島での自らの安全地帯を保持するべく、最大限の努力を傾けていた。

 だが、アメリカ軍が激減した事で油断が生まれた隙を突いての反撃だった。

 さらには、日本軍などアジア各国の海外派遣軍の士気、戦意を人民共和国が見誤っていたとも言える。

 

 日本軍、満州軍の機甲突破の後には、連邦共和国軍の精鋭部隊、ベトナム軍、インド軍の各機械化歩兵部隊も続き、後方を遮断した人民共和国軍を完全包囲し、そしてメンガラ周辺の火力と投入できる限りの航空戦力で包囲殲滅戦を仕掛けた。

 

 一方で、戦線を突破した機甲部隊の進撃は続いた。

 

 メンガラ前面からパンダルランブルまでの距離は、直線で約70キロメートル。

 実際は60キロメートルほどで、その間に優力な人民共和国軍の部隊は殆どいなかった。

 装甲と火力を前面に押し立てた重機甲部隊を押しとどめる力は、小規模な部隊、NLFのゲリラ部隊にはなかった。

 ゲリラ兵の切り札といえる対戦車用にもなる簡易ロケットランチャーも、「イエロータイガー」の重装甲の前には無力とは言わないまでも、あまり効果は無かった。

 あまりの強さに、空想上の怪獣のようだと言われたほどだ。

 

 それでも人民共和国軍は、予備部隊を集めさらには機甲部隊の残余を集結して敵の進撃を何としても阻止しようとした。

 約50両集められた「T54」「T55」と、周辺にある全ての簡易ロケットランチャー、重火力は、相手が一つか二つの機甲突破部隊なら阻止出来る可能性があった。

 だが敵は4箇所で突破し、それぞれの突破部隊の先鋒が機甲旅団規模以上だった。

 

 そこで人民共和国軍は、経路と抵抗度合いによって進撃速度に差が出ている事を利用して、最低でも二カ所で各個撃破を行おうとした。

 

 戦闘2日目の時点で最も進撃していたのは、意外というか当然というか、正面の街道を進軍する日本軍機甲部隊だった。

 しかし、重厚な編成の第二機甲師団がほぼ全力で突進してきているので、とてもではないが俄仕立ての防御部隊では防ぎようがなかった。

 防ぐとするなら、他を足止めした上で周辺の兵力を根こそぎ集める必要があると考えられた。

 その近くの満州軍の重機甲師団も戦力は似たり寄ったりで、アジア連合軍が何より短時間での策源地突入を計ろうとしていることが伺い知れた。

 そこで支援突破を行っている部隊への攻撃が画策される。

 これならどちらを狙っても旅団規模の機甲部隊だし、この部隊を撃破してそのまま敵主力の側面を突く事も可能であり、敵の意図を粉砕できる可能性が十分にあった。

 

 そして自らの位置の関係から、人民共和国軍が反撃の相手として選んだのが第101独立機甲旅団だった。

 

 第101独立機甲旅団は、機甲師団編成の戦車連隊つまり第101戦車連隊(独立部隊)と、全国から集められた各種部隊によって編成されている。

 前身の111旅団は、基本的には二線級の警備部隊に近かった。

 だが実戦の中で鍛えられ、さらには重装備を受け取り訓練を重ねることで、精鋭部隊に生まれ変わっていた。

 

 この時の指揮官は福田定一少将。

 この時49才で、日本陸軍の中では昇進は早い方だった。

 いや、一般幹部候補生上がりの将校としては非常に早い出世で、この時期の日本陸軍内では機甲戦に最も熟練した指揮官の一人と見られていた。

 

 もっとも当人は、インドネシア派兵の前から早期退役を考えていたと後に述懐している。

 と言うのも、一般上がりの将校では昇進、出世は限られているからだった。

 また支那戦争の頃から、あくまで「趣味」として始めた文筆活動が1960年代から軌道に乗り始めており、既に有名な文学賞、作家賞を受賞した有名作家の一人でもあった。

 このため周囲も、作家軍人、作家将軍などと冗談交じりに呼んでいたりした。

 

 しかし第二次世界大戦、支那戦争と実戦経験豊富で有能な指揮官だったため、陸軍としてはインドネシアの戦いを前にして手放すわけにはいかなかった。

 それでも恩情配置で、文筆活動にあまり影響しないように、戦争当初は本土待機の在郷部隊(第四師団)に配備されていた。

 だが、ちょうど第101独立戦車連隊の指揮官をしている時に111旅団の機甲化が決まり、そのまま横滑りで部隊指揮官に就任。

 この戦いの時も、同部隊の旅団長の座にあった。

 


 第101独立機甲旅団は、増強編成の戦車連隊1個、機械化歩兵連隊1個、機械化重砲大隊2個、機甲偵察中隊、機甲工兵中隊、防空中隊、ヘリ小隊、これに各種支援部隊を加えて編成されている。

 しかもこの部隊には、戦訓修得目的で教導団からの派遣部隊も含まれており、規模としては小型の機甲師団ほどもあった。

 また雑多な集まりなので、当人達は「愚連隊」と冗談交じりに言ったりもした。

 

 そしてアメリカ軍が去り際に残した装備、さらには追加で寄越した装備で可能な限り重武装を施しているため、異常な数の装甲車両を保有していた。

 部隊のどこを見ても、アメリカ軍の標準装甲車だった「M113」装甲車とその派生型を保有していた。

 装甲車両の装備率は重装備で知られる満州軍の重機甲師団を上回り、糧食班も「M113」を装備していると言われたほどだ。

 しかもこの部隊には、戦訓修得目的で教導団からの派遣部隊も含まれており、何だかよく分からない編成の部隊まであった。

 また当時量産が始まったばかりの「三一式装甲車」を偵察隊と一部歩兵部隊が装備していた。

 

 この「三一式」は、満州の小松重工が開発したのだが、日本陸軍への売り込みに成功するべく満州軍よりも先に紹介して正式化させていた(※満州軍のものは「72式戦闘装甲車」)。

 アメリカ軍の「M113」と違って鋼鉄製の車体で、さらには周辺にロケット弾対策のスカート装甲を装着可能な上に、小さな砲塔も載せていた。

 車体に銃眼を持つなど歩兵が車内から戦闘することを前提とした車両で、世界に先駆けて開発された戦闘装甲車だった。

 対装甲車用の25mm機関砲を砲塔に装備し、車体の各所に銃眼が設けられていた。

 オプションで、対戦車誘導弾のランチャーも装備可能だった。

 

 インドネシア人民共和国軍が選んだ敵とは、そうした重装備を持つ一見寄せ集めの精鋭部隊だった。

 


 この時の戦いは比較的開けた場所での戦闘のため、インドネシア戦争でよく見られた歩兵同士の近接戦とは違って、装甲車両同士の戦いが中心となった。

 そしてそうした戦いであれば、ソ連軍に備えて訓練していた日本陸軍の十八番といえる戦いだった。

 

 しかも相手は仮想敵の「T54」「T55」。

 後継車の「T62」はソ連軍にしか装備されていないので、求めうる限り最良の相手だった。

 そして「二一式戦車」の敵では無かった。

 60トンを越える重量と、それに似合うだけの重装甲は「T54」「T55」が装備する100mm砲を正面から受け止めることが出来た。

 しかもソ連製戦車は遠距離での照準能力が低いため、遠距離戦では敵にもならなかった。

 その上「二一式戦車」の120mm砲は、アウトレンジから確実に敵を撃破する事が可能だった。

 

 ソ連の戦車は、30トン台半ばの比較的軽い車体に似合うだけの機動性が売りだが、ギアの扱いが難しく、しかも全体として内部機械の寿命が比較的短かった。

 さらに運用される場所が熱帯となれば、尚更困難を伴った。

 機械的寿命の短さは人民共和国軍も苦労しており、ソ連から数を求めることで補われていた。

 この時日本軍の前に現れた戦車隊も、予備兵力と言うよりは故障に備えて待機していた兵器という側面が強かった。

 

 「コタブミ戦車戦」と言われた戦いは、完全なワンサイドゲームとなった。

 人民共和国軍は、日本軍にほとんど損害を与えることが出来ずに、短時間のうちに半数以上の戦車、装甲車を撃破されて壊滅した。

 しかもそのまま突進を続ける日本軍部隊に蹂躙されてしまい、後方での防衛線自体が崩壊するという最悪の状態に追い込まれた。

 この敗北のため、基本的には同じ戦車を運用するソ連でも、自軍の新型戦車の開発や整備に影響が出たほどだった。

 ロシア人の作った戦車による機甲部隊が、正面の戦いで手もなく負けた事は少なくない衝撃だった。

 

 しかも人民国軍は、第101独立機甲旅団の迎撃を機甲部隊に任せ、他の日本軍、満州軍に残る予備兵力を集めて遅滞防御戦を行っていた為、機甲部隊が撃破そして蹂躙されてしまうと、第101独立機甲旅団を止める兵力はどこにも無かった。

 

 かくして第101独立機甲旅団は、他の部隊より先に作戦目標のパンダルランブルへと突入する。

 

 新たな英雄の誕生だった。

 


 この戦いの結果、スマトラ島南端部のインドネシア人民共和国軍は壊滅状態に陥った。

 しかも策源地と現地司令部も同時に失っていた。

 指揮系統は、無線や隠密での移動で伝えることで一応は維持可能だったが、策源地を失った事による補給の途絶が致命傷となった。

 人民共和国軍は何とかスマトラ島への補給を行おうとしたし、できるなら奪回を計ろうとした。

 しかし日本軍などが総力を挙げて、ジャワ島とスマトラ島の間のスンダ海峡封鎖を海空双方から実施した。

 もはや冷戦構造は、日本軍などにはほとんど関係無かった。

 ソ連からの政治的非難も、ロシア人に兵器を向ける事(※新型戦略原潜の配備)で逆に脅して黙らせた。

 それに大型船の入れる港は、ジャワ島にある最短の場所が日本軍の初手の攻撃で失われていた。

 スマトラ島南端部では、漁船ぐらいしか入れる港しか残されていなかった。

 しかも海には、日本の艦艇がウヨウヨしていた。

 

 その後は人民軍の高速艇(※漁船に西側製(主に日本のヤマハ製)のモーターボート用のエンジンを幾つも無理矢理増設したもの。)が補給のためスマトラ島南端部に来ようとする「ジャカルタ急行」を、日本の艦船及びアジア連合軍の航空機やヘリが阻止するという戦いが続く。

 しかし船に事欠く人民共和国は、木造の民間漁船すら動員しても2ヶ月で息切れしてしまう。

 多数投入された戦闘ヘリにとって、モーターボート相手は気軽な狩りでしか無かった。

 

 当然だが、スマトラ島南部各所に潜伏する人民共和国軍及びNLFは補給不足に陥る。

 食糧や水は支持者のいる村落で何とか確保出来るが、弾薬の補給が叶わなかった。

 アジア連合軍もそれを見越して、相手の弾薬の消耗をさせる戦闘をしかけ、既に拠点のない人民共和国軍側は誘いを全て絶つこともできず日々消耗していった。

 

 そうして弾薬が尽きると、支援していた村落で寝返る者も出てくるようになる。

 しかもここにきて、西側陣営で戦っている主役が日本軍だという事が効果を発揮した。

 「神の兵隊」の話しをいまだ信じる民衆の多くが、泥沼の戦いを行おうとする共産主義者よりも、日本軍に心を傾けたからだ。

 全ての潜伏村が寝返ったわけではないが、弾薬の枯渇と合わせてスマトラ島南部の共産主義陣営の、目に見えるほどの早さで勢力は大きく減退していった。

 


 インドネシア人民共和国は、戦闘では状況が挽回できないと分かると、事態を外交に持ち込もうとした。

 

 そして1959年の話しを持ち出して、スマトラ島南端部の返還を求める。

 

 しかし条約に違反して先に地上侵攻したのは人民共和国側なので、反論の根拠が半ばなり立たなかった。

 それに連邦共和国の憲法上では、全てのインドネシア地域は連邦共和国の領土だと定義されており、人民共和国も同様の事が明記されていた。

 このため1959年の条約しか拠り所がないのだが、それも長い戦争で有名無実化していた。

 最後の砦とすらいえるDMZも無視された以上、最早1959年の取り決めは無効化されたに等しかった。

 

 人民共和国は、事をアメリカとの二国間で解決し、アメリカに日本軍などから自分たちの領土を返還させようとした。

 しかし国内しか見ないアメリカの言葉に、日本などは不信感を募らせただけだった。

 ただでさえ、自分たちを置いて逃げ出しておいて、今更盟主面する傲慢さに嫌気がさしていた。

 しかもニクソン・ショックで各国は経済的に苦況に立たされている中なので、尚更アメリカの言葉は各国に通じなかった。

 

 しかもアジアの防衛は日本が分担しているので、アメリカが自らの軍事力の庇護を友好国との取引材料とする事も無理だった。

 そして流石のアメリカも、最重要同盟国である日本との同盟関係について何か言うことは出来なかった。

 そして水面下では、内政的に身動きの取れないアメリカに対して、終始日本側が強気の発言を続けた。

 

 結局アメリカは、自らがインドネシアに招き入れた各国に対して、全ての外国軍のスマトラ島からの撤退と現状の固定化を認めさせるのが精一杯だった。

 

 そしてハーグでのアメリカとインドネシア人民共和国との話し合いは、アメリカがアジア連合軍自体を脅す材料に使うことで、人民共和国に現状での境界線固定を認めさせる事に成功する。

 アメリカから、このままでは日本軍はジャワ島への核兵器の使用すら辞さないと言われ、先日の攻勢の際の積極性からそれを完全に否定できない人民共和国は、和平交渉を受け入れざるを得なかった。

 それに外国軍が出ていく事は、人民共和国にとっても安全保障上で受け入れられる条件だった。

 

 こうして、当事者以外の「インドネシア戦争」もしくは「スマトラ戦争」は終わりを告げた。

 


 その後のインドネシア情勢だが、肝心なところでインドネシア人民共和国を助けなかったソ連は、何とか人民共和国との関係を修復しようとした。

 だが、人民共和国側の恨みは強く、支援と引き替えに国交こそ維持されるも軍事基地を置くなどといったソ連にとって虫の良い話しが通ることは無かった。

 いっぽうでソ連の助けが無ければ、これ以上インドネシアで共産主義が広まることも無理だった。

 

 だが人民共和国は、長い戦争で既に国力やその他諸々が限界にきており、これ以上戦いたくても戦えないと言う事情もあった。

 また手を伸ばす先が海の向こうなのだが、その手段にも乏しかった。

 海上での移動手段なら、アメリカ、日本から多くの払い下げを受けていた連邦共和国軍の方がよほど潤沢に持っていたので、海岸の防備を固めなければならないのは人民共和国側という状態だった。

 

 それでも海外勢力の干渉が全く無ければ、その後も人民共和国はインドネシア統一に向けた侵略を続けただろうと言われる事が多い。

 だが日本軍は、戦後もシンガポールにある程度の軍を置き続けた。

 表向きは欧州派兵やアジアの治安維持目的だが、誰に向けた戦力であるのかは明らかだった。

 

 また、インドネシア連邦政府は、自分たちを見捨てたアメリカではなく日本、満州、オーストラリアなどとの関係を強化した。

 そして自らの生き残りの為に、事実上の国土の分立と切り売りを決める。

 これにより人民共和国がインドネシア統一を達成する可能性はほぼなくなり、しかも何かするたびに諸外国から警戒の目を向けられる事になる。

 

 一方では、連邦政府自体の面目などはなくなるが、指導者(大統領)のムハンマド・ハッタは既に世捨て人のようになっており、各地の民族の平穏のためならばインドネシア地域の政治的分立もやむを得ないと言う見解を公式に出していた。

 そして連邦政府には、インドネシアを統一するどころか、現状の連邦政府の支配領域を維持する政治的、軍事的能力すら失っていた。

 だからこその切り売りと分立だった。

 

 そしてソ連は、連邦共和国の分裂を、自らの政治的勝利を位置づけて、以後現地への関心をほとんど失った。

 アメリカは引け目しかないので、何をしても強くは言わなくなった。

 日本や満州は、スマトラとボルネオが自陣営なら特に文句は無かった。

 西部ニューギニアを手にしたオーストラリアも、自らの覇権主義感情を満たせたので似たようなものだった。

 

 分裂を非難したのは、実質的に人民共和国だけだった。

 

 このため国連が介入する形で、インドネシア連邦政府の事実上の解体が1973年から開始される。

 


 結果、スマトラ島では、1975年に正式にスマトラ連邦共和国とアチェ共和国に分立。

 ボルネオ島南部は、サラワク王国を経由した事実上の日本預かりとなり、その後サラワク王国への吸収合併と「大ボルネオ連邦」の道へと進んでいく。

 

 スラウェジ島、モルッカ諸島と何とか共産主義の支配下にならなかった小スンダ諸島の東部は連合し、国連のもとで新たに東インドネシア共和国としての道を歩むことになる。

 この分立には、同地域にはキリスト教徒が比較的多いという要素も作用していた。

 最後に西ニューギニアは、正式にオーストラリアの委任統治領になり、その後統一ニューギニアとして独立していくことになる。

 

 結局、インドネシア人民共和国の手に残ったのは、ジャワ島と小スンダ列島の西部地域のみで、長らく他の地域と対立を続ける状態が続く事になる。

 しかし領内にバリ島を含んでいた事が徒となり、何かにつけてインド連邦が口を出す状態が続き、それは現代に至るも解消していない。

 

 またインドネシア地域全体としては、人口が最も多いジャワ島と他の地域の民族的な離間が進んだ事が、一番の結果だったかもしれない。

 


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