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日米蜜月 〜戦後編〜  作者: 扶桑かつみ


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フェイズ111−1「インドネシア戦争(5)」

 1971年8月15日、世界を揺るがす変化がアメリカから発表された。

 

 「ニクソンショック」だ。

 

 「ニクソンショック」については後の節で詳しく触れるが、アメリカはドルと金(純金)の固定比率(1オンス=35ドル)での兌換を一時停止し、西側世界の通貨は変動相場制へと大きく変化した。

 これにより、アメリカと西側世界各国の関係が一時的に悪化。

 特に日本は自らが招いたに等しい経済的行き詰まりもあって、円の価値が一気に低下してしまい、アメリカとの関係を悪化させた。

 

 インドネシア戦争での関係悪化と重なって、この時期は日本とアメリカの関係が最も悪化した時期とも言われた。

 テレビカメラの前の日本兵が言った「チキンのヤンキー」という罵り言葉に対して、「JAPジャップ」という日本人に対する蔑称をアメリカの下院議員が使って物議を醸したりもした。

 

 「アメリカが日本を見捨てた」という言葉は、主に共産主義陣営が流布した言葉だが、日本ばかりかアメリカでもかなりの頻度で聞かれた。

 日本が有色人種国家なので、アメリカ国内の公民権運動にも利用されたりした。

 

 またアメリカと満州の間でも、インドネシア戦争の中で問題が起きていたが、こちらも人種差別問題だった。

 満州ではほぼアメリカからの黒人移民は、自らの努力によって高い地位を得られるようになっていた。

 軍においても同様で、人口比率的に数は少ないながらも将校も少なくない数がいて、これが依然として黒人(有色人種)差別の強いアメリカとの間で度々問題となっていた。

 アメリカの白人兵が、満州軍の黒人将校の命令に反抗的態度や感情を示すなどの問題だ。

 そして小さいながらも外交問題に発展する事もあった。

 そこにきてのアメリカ軍の勝手な撤退とニクソン・ショックの影響で、アメリカと満州の関係も悪化した。

 

 そしてスマトラ島に最も兵力を派遣している日本と満州が、アメリカとの関係を悪化させている事は、人民共和国にとっては大きな利益があると考えられた。

 

 人民共和国政府は、アメリカが撤退しやすいように積極的作戦を控え、アメリカも内政問題から派遣軍の撤退を順次進めていった。

 人民共和国は、アメリカ軍さえいなくなれば日本なども撤退せざるを得ず、いずれ和平交渉の席に座るだろうと見ていた。

 

 しかしアメリカも強かで、共産主義の総本山であるソ連との話しをつけて、戦略核兵器制限交渉(STLT1)を進める傍らで、自分たちがインドネシアから撤退するのでソ連もインドネシアとの間に距離を置くことを承諾させた。

 

 ソ連が距離を置いたことは人民共和国にとって誤算であり、和平交渉が不利になる事を恐れた。

 そして人民共和国としては、自らが行使できる唯一の方法で状況を好転させようとする。

 

 そうして起きたのが、「イースター攻勢」だった。

 


 1972年3月31日に開始されたので「イースター攻勢」と呼ばれるが、その最初は攻勢を立案、実行したインドネシア人民共和国軍の大規模な攻勢によって幕を開ける。

 

 攻勢に参加するのは、ソ連の支援によって作られたインドネシア人民共和国軍ほぼ唯一の機甲部隊を含む約4万。

 これに対して自由主義陣営は、既にスマトラにいるアメリカ軍は最盛時の10分の1(約5万人)まで減少していた。

 しかも、前線となると僅かにグリーンベレーなどが支援としているだけで、前線に大規模な部隊は配備されていなかった。

 約30万の日本軍、満州軍、インド軍、ベトナム軍などは以前と同様にいたが、肝心のインドネシア連邦共和国軍の多くが頼りないため、全ての場所を安定化させる力はなかった。

 

 そして日本軍などは、自らの戦力不足を逆手に取って、あえて「隙」を作って敵を誘い込もうとした。

 第二次世界大戦でも時折行われた戦術だが、今まではゲリラ戦ばかりで行いたくても出来なかったが、事が正面からの戦いとなれば(そして自らの犠牲をある程度許容すれば)打てる手は幾らでもあった。

 そして正面からの戦闘経験に乏しい人民共和国軍は、敵の手を見抜けなかった。

 ソ連の軍事顧問が多くいれば違っていたと言われることも多いが、米ソの駆け引きでその数を大きく減じていた事もあって、この戦いでソ連が大きな役割を果たすことはなかった。

 

 そしてもう一つ、人民共和国は重大なミスを犯していた。

 

 DMZの無視だ。

 

 今までDMZは、非武装中立地帯として政治的に機能し続けていた。

 しかしアメリカ軍がほぼ撤退した事と、短期間で政治的状況を有利にしなければいけないという焦りから、もう自分たちにとってDMZは不要だと考えるようになっていた。

 それが誰にも否定できない形で行動に出たのが、イースター攻勢だったのだ。

 


 攻勢に際して、人民共和国軍は多数の装甲車両を動員した。

 ソ連から供与された「T54」「T55」「PT76」戦車を合計200両近く動員し、しかも半数以上を一カ所に集中していた。

 さらに主に連邦共和国軍を撃破するために、今まで多くが温存されていた重火器と誘導ロケット(全てソ連製。一部最新兵器)を投入した。

 空襲を警戒して、対空機関砲だけでなく、猛威を振るっていた対空ミサイル部隊までが進軍に参加した。

 

 火力と機甲打撃力を全面に押し出した攻勢に対して、アメリカ軍が自らの撤退に引き替えに大幅に増強されていた連邦共和国軍は、各地で撃破された。

 アチェ族の部隊のように奮闘する部隊もあるのだが、全体として弱体が目立った。

 人民軍も、弱い相手を選んで攻撃した。

 このため戦線を維持することができず、各所で突破される。

 

 もっとも、人民共和国軍の各指揮官達は、戦車や重火力の扱いには不慣れな者が多く、彼らが想定したほどの進軍はできなかった。

 加えて、包囲殲滅などという高等な戦術も採れなかった。

 火力を前面に立てた平押しが実状で、非効率的な戦闘が続いた。

 それでもかなりの進軍が行われ、激戦地でもあったメンガラ前面にまで迫った。

 

 しかしそれこそが、日本軍などがしかけた罠の始まりだった。

 

 この時点で人民共和国軍は、先にも書いたように二つの大きなミスを犯していた。

 政治的にはDMZを無視した事と、戦術的には正面からの攻勢に出た事の二つだ。

 

 そして人民共和国軍が、彼らにとっての正念場と考えた「二一式戦車」の群れがメンガラ前面で防戦をしている事で、完全に嵌ってしまう。

 敵に予備兵力が少なく、このまま押し続けてしまえば、自分たちの後ろが新たな境界線もしくは国境線になるのだ、と。

 それが達成できれば休戦交渉を有利にでき、アメリカからもさらなる譲歩が引き出しやすいと考えられた。

 場合によっては、パレンパンの占領すらできると皮算用していた。

 

 また、インドネシア全土の統一を目論んでいる人民政府としては、アメリカ軍以外の外国軍を追い出すためにも大きな軍事的成功が欲しかった。

 そのためにも、日本軍などとの戦闘を長期化させて士気を落とすか、大きな損害を与えて日本本国の世論が動くのを誘発したかった。

 

 このため無理押しの攻撃が続けられ、一見日本軍、満州軍なども増援を次々に投入していった。

 

 だが人民共和国軍は、日本軍などの予備兵力の量を完全に見誤っていた。

 見誤ったのは、長い間日本軍などがなるべく目立たないように動き、さらには欺瞞情報として裏では兵力を引き揚げつつあるという噂を流していたからだ。

 噂については人民政府もはじめは信用していなかったが、相対する日本軍などの数が明らかに減っており、ゲリラ側の民衆からの日本兵が減ったという話しが数多く聞かれた事から、徐々に信じるようになっていた。

 

 だが事実は逆で、日本軍などはアメリカ軍が減った段階での人民共和国軍の攻勢を誘引して「後手の一撃」を加えるチャンスを、野伏せりのようにじっと待っていたのだ。

 このため隔離された安全なプランテーションに兵力を隠匿したり、駐屯地から外に出るのを厳禁したりして兵力を少なく見せかけた。

 船便、飛行機便も、盛んに欺瞞行動を取った。

 

 規模こそ大きいが、この戦いでは日本軍などの方がよほどゲリラらしい戦い方と言えなくもないだろう。

 これを傍観者となったアメリカ軍は、「サムライの戦い」と言った。

 (※映画「七人の侍」に影響された言葉と言われる。)

 そして日本軍にとっての、反撃のゼロアワーが来る。

 

 当時の日本兵の多くが言った、「奴らに本当の戦争を教えてやろう」の瞬間の到来だ。

 


 なお、当時の日本軍の援助軍総司令だった島田豊作中将(※総司令官として大将相当官)が中心となって進めた作戦は、実質的にアメリカ軍を蚊帳の外に追いやって秘密裏に進められた。

 日本本土の日本軍軍令参謀本部も、本部長の野中五郎大将(※元帥相当官。戦略空軍出身。)以下結託して行い、兵部省ばかりか日本政府も背に腹は代えられないと腹を括って事態に対処した。

 

 満州などアジア諸国の国々も現地派遣軍を中心として日本軍の「悪巧み」に乗り、後手の一撃による反撃作戦に賭けた。

 


 反撃の号砲は文字通りのもので、日本から秘密裏に緊急来援した菅野少将麾下の《武蔵》《信濃》を中核とする新たな水上打撃艦隊が行った大規模な夜間艦砲射撃となった。

 

 《武蔵》《信濃》は、4月15日にジャワ島西端部のチレゴンの街、特に港湾部分に対して、領海外となる距離2万5000メートルの遠距離から艦砲射撃を行った。

 徹甲弾、榴弾を含めた大規模なもので、砲撃の規模は第二次世界大戦以来とすら言われた。

 艦隊司令官の菅野直提督は、「弾薬庫に一発も残すな」と命じたと言われる激しさで、投射弾量は小型の戦術核に匹敵する3キロトン(3000トン)にも達する。

 

 目的は、人民共和国のスマトラ島南部への主要積出港の物理的破壊。

 これにより、敵の補給線の途絶を狙っていた。

 また同時に、米軍、日本軍などが完全にジャワ爆撃を中止して以後、安全地帯になったと考えられていたジャワ島が、安全ではないことを人民政府に教えることだった。

 そしてこの砲撃は、爆撃を中止すると宣言していても、ジャワ島への攻撃を中止するとは言っていないという半ば詭弁によって肯定されていた。

 

 共産主義陣営としては、悪辣な資本主義者の陰謀と叫べばよいのだろうが、アメリカ軍の一方的な宣言を鵜呑みにする方が戦争では愚か者に過ぎなかった(※政治的抜け穴を残すため、他国は明確な言葉を一度も発していない。)。

 しかも日本軍の攻撃は、戦争で初めてのジャワ島への艦砲射撃なだけでなく、人民政府軍の反撃がゼロで日本側の犠牲は皆無という、多くの日本人たちが求める事を完璧に満たしていた。

 

 大規模な艦砲射撃は3時間程度で終わって、日本艦隊は敵の偵察や攻撃を受ける前に友軍制空権下へと待避していったが、これで人民共和国は続いてジャワ島が激しい攻撃を受けるのではと疑心暗鬼に陥ってしまう。

 何しろ首都ジャカルタが、攻撃を受けた街から近かった。

 しかもスマトラ南部の戦線でも、兵士達の動揺が見られた。

 そして多くの兵力をジャワ島に拘置して、兵力運用の柔軟性を自ら放棄してしまう。

 

 そして4月17日夜明け前、メンガラ周辺に伏在していた「アジア連合軍」のありとあらゆる重火器が一斉に火蓋を切った。

 同時に、投入できる限り全ての航空部隊が全力出撃し、激しい空爆を実施した。

 空爆には、久しぶりにテニアン島から途切れること無く飛来する「轟山」の姿も大隊単位であった。

 アメリカ軍に倣って導入された地上襲撃機も、現場で急ごしらえしてまでした多数が投入された。

 

 また「サムライ・ステーション」には、本土からの緊急来援した大型空母《飛龍》を加えて、大型空母《飛龍》《白龍》、支援空母《葛城》の3隻が同時展開し、機動群指揮官の笹井中将は複数の空母からのアルファ・ストライク(※空母戦闘団による総攻撃)を行った。

 しかも空母部隊のすぐ側には大型の高速戦闘支援艦2隻が護衛艦艇と共に展開して補給物資を提供し、空母達は今までの鬱憤を晴らすように無制限の攻撃を実施した。

 

 文字通りの総力戦で、火力の量、密度は最盛期のアメリカ軍並かそれ以上で、人民共和国軍の予測を遙かに越えていた。

 

 「神の兵」達は、まだ北へと去っていなかったのだ。

 


 海軍の総攻撃に呼応して、空軍、陸軍重砲部隊も一斉に反撃の火蓋を切った。

 そして3時間の猛烈な準備砲撃、爆撃の後、今度はずっと潜んでいた機甲部隊が動きだす。

 

 「二一式戦車」で編成された分厚い陣容の機甲連隊を先陣とした完全な機甲打撃部隊で、その数は4つを数えた。

 当然、各所で人民共和国軍の戦車部隊などとの戦闘になったが、ソ連軍の戦車に対して質的優位を得ることを目標として完成した「二一式戦車」は、「T54」「T55」を完全に圧倒していた。

 しかも戦車を操るのは、日本側が第二次世界大戦、支那戦争を経験した指揮官が数多く見られる熟練兵揃いなのに対して、人民共和国軍の戦車兵は未熟な者が多かった。

 数も日満軍の方が多かった。

 

 勝敗は数時間で決し、日本軍、満州軍の機甲部隊はそれぞれの場所で難なく敵戦線を突破した。

 インドネシア戦争では、非常に希な分かりやすい形での戦争だった。

 

 この時、日本軍などの反撃作戦に投入されたのは、日本陸軍からは第二機甲師団と第101独立機甲旅団、満州陸軍からは第二重機甲師団、第十八機械化師団の集成機甲旅団。

 この時期に西側陣営がスマトラ南部に保有したほぼ全ての機甲打撃部隊が参加していた。

 それまで人民共和国軍を迎撃していた「機甲部隊」は、各国が他の部隊から集成編成した部隊ばかりでしかなかった。

 

 なお、日本陸軍の第101独立機甲旅団は、派兵当初は第111旅団だったのを現地で改変したもので、アメリカ軍の撤退に合わせて装備の供与と払い下げを受けた上に、日本本土から新たに独立戦車連隊を追加派遣する事で編成されていた。

 

 なお、この時期の日本軍、満州軍の戦車など機甲部隊の基本編成は以下のようになる。

 


 中隊=17両(小隊5両×3 本部2両)

 一般師団 :連隊=3個中隊 (中隊×3 本部5両)(56両)

 機械化師団:連隊=4個中隊 (中隊×4 本部5両)(73両)

 機甲師団 :連隊=2個大隊 (中隊×3 本部5両)×2(112両)


 戦車保有量、重要度、兵員数の違いから、戦略単位となる師団ごとで編成が違っていた。

 さらに細々とした違いまであったし、第101独立機甲旅団以外にも独立部隊が幾つか存在している。

 また満州の重機甲師団は、4個中隊編成の連隊を4つ持つ上に、偵察連隊にも4個小隊編成の戦車中隊を有する非常に重編成だった。

 

 そして本作戦の反撃に参加した全ての機甲部隊が、「イエロー・タイガー」こと「二一式戦車」で編成されていた。

 支那戦争以後だと、イスラエル軍しか匹敵する戦闘を実施していない程の規模で、まさに鋼鉄の濁流と言えるだろう。

 


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